第179話 供給の余白
夜は、神殿の外の方が静かだ。
静かな場所ほど、紙の擦れる音がよく響く。
人の声は消せても、紙は消しにくい。
灰の司祭は灯りの落ちた廊下を歩きながら、手元の写しを一枚だけ指で押さえた。
奉納帳の写し。
施療小屋の帳。
孤児院の取りまとめの控え。
どれも、善意の皮を被っている。
善意は疑われにくい。
疑われにくいものほど、混ぜやすい。
(箱を混ぜるには、正しい箱に見せかける必要がある)
クラリスが言葉にした線が、まだ頭の中に残っている。
彼女は紙の上で線を引く。
こちらは、線の外側で火を消す。
火消しは、火を見ない。
火種を見る。
◇
灰の司祭は角を曲がり、薄い灯りの茶屋に入った。
夜更けの客は少ない。
少ないから、目立たない。
二階の奥。
窓際の席。
そこに人影はない。
いるはずの“姐さん”が、いない。
その代わり、机の上に封のない薄い紙が一枚だけ置かれていた。
署名も紋章もない。
ただ、筆圧だけがやけに元気だ。
灰の司祭は椅子に座らず、紙だけを指先で押さえる。
触れるのは一度。
余計に触れれば、余計な線が増える。
紙の余白に、一行。
——供給ありがとう。
(……またそれですか)
姐さんは姿を見せない。
姿を見せずに、癖だけを見せる。
癖は、合図になる。
合図は、動きを呼ぶ。
灰の司祭はその一行の下に、さらに小さな文字を見つけた。
目を凝らさないと読めない程度の薄さ。
薄いが、消えていない。
——鐘が三度。白い手袋、右だけ。
夜会。
三日後。
右手だけ白い手袋の人物。
神殿の“白”の中でも、もっとも見せかけが上手い手だ。
灰の司祭は息を吐いた。
吐いた息が冷える。
冷えるから、現実になる。
(面白がって混ぜたのではなく、混ぜたくて面白がった)
姐さんの仕事は、いつも順番が逆だ。
逆だから、厄介で、強い。
灰の司祭は紙を折らず、そのまま裏返した。
裏に、もう一行がある。
——孤児院。奉納の取りまとめ。灰の封。
灰。
封の色。
封の癖。
封の箱。
神殿の会計室で見た“灰”と、同じ匂いがする。
だが、同じ匂いほど危険だ。
同じ匂いは、偽装にも使える。
(孤児院を隠れ蓑にするなら、奉納の流れは最適です)
奉納は、善意だ。
善意は、検閲されにくい。
検閲されにくいものほど、帳簿が甘くなる。
帳簿が甘い場所に、混ぜものは残る。
灰の司祭は紙を元に戻し、机の端に置いた。
持ち帰らない。
持ち帰れば、痕が増える。
必要なのは紙ではない。
線だ。
灰の司祭は茶屋の階段を降り、夜へ出た。
外の空気は冷たい。
冷たいほど、香りが立つ。
薬湯の匂い。
濡れ布の匂い。
そして、わずかな金属の匂い。
(……ここにも混ざっている)
祈りを弾く“壁”は、神殿の中だけに立っていない。
壁は移動する。
壁は運ばれる。
運ばれるなら、運び手がいる。
運び手は、必ず一度、足を止める。
足を止める場所は、必ず“正しい顔”の場所だ。
孤児院。
慈善。
祈り。
正しい顔ほど、悪いものが入りやすい。
灰の司祭は歩きながら、頭の中で手順を並べた。
三日後、夜会。
右手だけ白い手袋。
その人物の席順と、動線。
鐘が三度の時刻。
その時刻に、どの箱がどこを通るか。
そして――孤児院。
孤児院は、表の顔だ。
表の顔に刺すには、刃物が要る。
刃物は、記録だ。
記録は、まだ足りない。
灰の司祭は立ち止まり、夜の路地の端で一度だけ振り返った。
背後に誰もいない。
だが、いないはずの気配がある。
「……供給、とは何でしょうか」
誰にでもなく呟く。
返事はない。
返事がない方が、正しい。
姐さんは返事をしない。
返事の代わりに、余白を置く。
余白に置かれた言葉は、燃えにくい。
燃えにくいから、火消しの手に残る。
灰の司祭は視線を前に戻す。
火は、まだ消えていない。
だが、火種の場所は見えた。
灰は笑わない。
笑わないまま、足音を消した。
次に踏むのは、鐘が三度鳴る床だ。




