第178話 慈善の帳
伯爵家の検分室を出た時点で、結論はひとつ増えた。
箱は、まだ開いていない。
つまり――“混ぜもの”は、こちらの手には付いていない。
付いていないうちに、線を切る。
それが境界のやり方だ。
◇
屋敷の控えの間に戻ると、侍女が封のある小袋を差し出した。
「薬師組合からです」
「奉納の帳の写しを求められましたが、こちらから先に“写し”が届きました」
写し。
写しは、便利だ。
本体を出さずに、印象だけ動かせる。
クラリスは受け取らない。
受け取れば“触った”が生まれる。
「読み上げて」
侍女が頷き、小袋を開けずに口を動かす。
封の表だけを見て、宛名を読む。
「宛名は……『グレイフォール慈善院 会計補佐』」
会計補佐。
便利な言葉。
責任を細くできる。
そして――責任が細いほど、上は太い。
クラリスは表情を変えない。
変えないまま、境界の糸を一本だけ引く。
(慈善院が、会計の言葉を持つ)
(慈善の皮で、帳簿を回す)
「中身は?」
侍女が慎重に続ける。
「“奉納の受領一覧”の写し、とあります」
「施療小屋に渡した布と薬草の数量が、過剰に記載されています」
「……実際より多い」
多い。
多いのは、帳尻が合うからだ。
帳尻が合えば、余りが出る。
余りは、外へ流せる。
クラリスは白猫の笑みを薄く戻した。
「帳尻を合わせたいのね」
「合わせたいのは、奉納じゃない」
「支給品よ」
侍女の目が動く。
「支給品……つまり、あの箱ですか」
クラリスは頷く。
「箱を混ぜるには、正しい箱に見せかける必要がある」
「正しい箱に見せかけるには、数が要る」
「数が要るなら、帳簿を増やす」
線が一本に収束する。
写しを閉じる、最後のページ。
余白。
クラリスが視線を滑らせる。
奉納帳の余白に、一行だけあった。
——供給ありがとう。
「供給?意味は」
侍女が続ける。
「分かりかねます」
疑問は残る。
しかし、線は繋がった。
◇
御者が控えの間に呼ばれる。
動きが早いのは、伯爵命令の馬車で追いついた家だからだ。
クラリスは声を落とした。
「グレイフォール慈善院」
「奉納の帳を“写し”で動かしてる」
「現場に直接触れない形で、支給の線だけを太らせてる」
御者が、短く頷く。
「お嬢様、見に行かれますか」
クラリスは首を横に振る。
「行かない」
「私が行けば、慈善が“被害者”になる」
「被害者になれば、口が閉じる」
口が閉じれば、線が消える。
消えた線は、拾えない。
「じゃあ、どうするの」
侍女が思わず聞く。
クラリスは机に置いた紙を一枚裏返した。
境界の紙。
線を引く紙。
「こちらは“受け皿”を作る」
「慈善院が動かした写しを、逆にこちらが受け取る器にする」
「器?」
「証拠の器」
「正しい帳の器」
「そして――嘘が混ざりにくい器」
クラリスは命じない。
命じるのは王家のやり方だ。
代わりに、提案の形で線を引く。
「薬師組合へ、こちらから先に“照会”を入れる」
「奉納の写しではなく、“原簿”の保管場所だけ」
「場所だけなら、相手は出しやすい」
御者が即座に理解する。
「場所が出れば、運び手が出る」
「そう」
「運び手が出れば、誰が帳を握ってるかが出る」
「帳を握ってる者は、必ず“鍵”を持ってる」
鍵。
また鍵。
鍵は、責任の線だ。
◇
クラリスは窓際へ行き、外の空気を吸い込んだ。
熱病の街は、朝でも重い。
重い空気ほど、祈りが削れる。
(削る手は、慈善の顔をしている)
慈善は疑われにくい。
だからこそ、疑うのではなく――記録で囲う。
「御者」
クラリスは声を落とす。
「伯爵家へ第二報」
「慈善院の会計補佐宛の“写し”が来た」
「数量が過剰。帳尻合わせの線」
「今は動かない。照会で運び手を出す」
御者が頷き、すぐに去る。
侍女が不安そうに聞く。
「お嬢様、灰の司祭は……?」
クラリスは笑わない。
笑わずに言う。
「灰は、線の外側にいる」
「内側に入れたら、壁になる」
「だから――外に置く」
外に置いて、動きを見せる。
見せた動きは、記録になる。
◇
机に戻ると、クラリスは白紙を一枚だけ出した。
手は動かさない。
書かない。
書けば、公になる。
今はまだ、公にしない。
公にした瞬間、慈善が盾になる。
盾になれば、火が散る。
クラリスは白紙の上に、指先だけを置いた。
線を引くのは、紙ではない。
順番だ。
白猫の笑みが、ほんの少しだけ鋭くなる。
慈善の帳は、祈りより甘い。
甘いから、集まる。
集まるから、混ぜられる。
なら――
甘さの先に、境界を置く。
白猫は、まだ鳴かない。
鳴けば、逃げる。
鳴かずに――足音だけを、消した。




