第177話 白衣の受け皿
夜明け前の白は、眠そうに見える。
だが、眠いのは街だ。
白衣は眠れない。
伯爵家の検分室は、灯りが落ちていなかった。
灯りが落ちない場所は、嘘が混ざりにくい。
嘘が混ざりにくいから、敵はここを嫌う。
クラリスは“奥まで”入らない。
入れば、医療に踏み込んだ形になる。
だから、入口の線だけを押さえる。
◇
扉の向こうから、医師長が出てきた。
白衣の裾に、微かな粉。
薬草の粉ではない。
乾いて、軽い。
「公爵令嬢様」
医師長の声は疲れている。
だが、疲労の中に芯がある。
クラリスは礼を返し、先に言う。
「私は状況確認だけ」
「判断は、あなたたちの領分よ」
医師長が一拍置いて頷く。
「……助かります」
助かる。
その一言が、現場の本音だ。
クラリスは視線で箱を探す。
箱は机の上。
封は未破損。
立会いの札が二枚。
記録が二通。
整いすぎるほど、整っている。
(現場は、折れていない)
「開けたの?」
クラリスが聞く。
医師長が首を振る。
「開けていません」
「香りが漏れる。金属が混じる匂いがする」
「……触りたくない」
触りたくない。
それが正しい。
触れば、祈りの道具が汚れる。
汚れれば、また弾かれる。
クラリスは“祈り”を持ち出さない。
現場は祈りで救われるほど、暇じゃない。
「隔離は?」
「二重」
「鍵は?」
「二人」
医師長が即答する。
「隔離庫に二重」
「鍵は医師長室と薬草庫で分けました」
「立会いは必ず二名」
良い。
そのまま、線を引ける。
◇
クラリスは視線を箱から外し、医師長を見る。
「回収の途中で、誰かが声を掛けた?」
医師長の眉が、わずかに動く。
動いたのは、思い出したからだ。
「……灰の司祭が、白衣の者に」
「言葉は聞き取れません」
「ただ、紙を――小さな紙を渡した」
紙。
記録にならない紙。
けれど、行動を変える紙。
「白衣の者は、その紙をどうした?」
クラリスが問う。
医師長は少しだけ目を逸らす。
「……燃やしたそうです」
「受け取った瞬間に、炉へ」
燃やす。
燃やすのは、残したくないからだ。
残したくないのは、効いたからだ。
クラリスは白猫の笑みを薄く保ったまま、言葉を整える。
「燃やしたなら、内容は“伝えられた”」
「伝えられたなら、灰の司祭は“道”を知っている」
医師長が低く言う。
「味方ですか」
クラリスは首を横に振らない。
頷きもしない。
断定は刃だ。
刃は、必要なときに抜く。
「火消しなら、味方に見える」
「火付けなら、もっと上手に隠す」
「……今はどちらでもいいわ」
医師長が息を呑む。
クラリスは“どちらでもいい”を続ける。
「大事なのは、現場が止まらないこと」
「現場が止まらないなら、灰の司祭は“利用できる”」
言葉は柔らかい。
けれど、中身は冷たい。
◇
侍女が小さく声を落とす。
「お嬢様、レナート様へは?」
クラリスは頷く。
「伝える」
「箱は未開封、隔離二重、鍵二人」
「そして――灰の司祭が“紙”を渡した。受け取った側は燃やした」
不明は不明のまま渡す。
不明は、線を太くする。
医師長が、もう一つだけ言った。
「今朝、薬師組合から“奉納”の問い合わせが来ました」
「いつもは来ません」
奉納。
また出た。
クラリスは白猫の笑みを消して、静かに言う。
「流れが揺れてる」
「入口が露出した」
露出した入口は、塞がれる。
塞がれる前に、次の線を拾う。
クラリスは医師長へ、最後にだけ釘を置いた。
「箱は開けないで」
「開けるなら、私ではなく――あなたたちで」
「そして、開ける前に“誰が得をするか”を一度だけ考えて」
医師長が頷く。
現場の頷きだ。
◇
帰りの廊下。
クラリスは歩きながら、境界の感覚を薄く広げる。
神殿の白から離れても、糸は残っている。
残るから、追える。
追えるから、切れる。
白猫の笑みが、ほんの少しだけ戻る。
次に拾うのは、“奉納”の手。
慈善の手袋の下にある、帳簿の指。
白衣を折らせないために。
白猫は――爪を隠したまま、獲物の背後へ回る。




