第176話 欠けた灰
慈善は、正しい顔をしている。
正しい顔は、疑われにくい。
疑われにくい場所ほど、混ぜものは置きやすい。
クラリスは馬車を降りない。
降りれば名が立つ。
名が立てば、相手は“善意”で壁を作る。
だから、壁の外から見る。
◇
「奉納の確認です」
御者の声は丁寧で、事務だ。
事務は、祈りより門を開ける。
慈善院の門番が一瞬だけ迷う。
迷うのは、準備がない証拠だ。
だが、すぐに笑う。
笑いは盾になる。
「どうぞ。帳は奥に」
奥。
その言葉で境界が擦れる。
(奥が、壁)
クラリスは笑わない。
笑いは御者に任せる。
御者が一歩進み、帳を受け取る。
「写しは不要です」
「封の確認だけ」
慈善院側の男が、目を細める。
写しを取られないのは、楽だ。
だが、封だけ見られるのは嫌だ。
封は、嘘を隠しにくいから。
◇
御者の手元で、封蝋が光る。
灰。
神殿会計室と似た灰。
似ている。
だが――欠けている。
欠け方が、整いすぎている。
欠けたのではなく、欠かした欠け。
(わざとだ)
クラリスは馬車の中で、境界の感覚を一点に集める。
封蝋の欠けは、線の切り口だ。
「紋の位置」
クラリスが低く言う。
御者が頷く。
指で触れない。
触れれば“傷”が増える。
目だけで、位置を読む。
「……神殿の会計印に似ています」
「ただし、角が違う。欠けが、角に寄ってる」
角。
印章の角は、持ち手の癖が出る。
右利きか、左利きか。
押し付ける強さ。
逃がす癖。
クラリスは紙に線を一本引いた。
――会計印“擬き”。欠けは意図。角に偏る。
「押した者の手が慣れていない」
クラリスが言う。
御者が短く答える。
「はい。押し直した跡もあります」
「薄い灰が、二重です」
二重。
焦った手。
焦りは、追える。
◇
慈善院の男が、口を挟む。
「封の欠けなど、些末です」
「奉納は揃っております」
些末。
便利な言葉。
大事なところを隠す時に使う。
御者が丁寧に返す。
「些末だからこそ、確認が容易です」
「容易なら、なおさら整えておけます」
丁寧。
そして、逃げ道がない。
男の笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。
クラリスは馬車の影から、男の指を見る。
指が綺麗すぎる。
爪が伸びていない。
奉納を扱う手ではない。
帳簿の手だ。
(ここは“現場”じゃない)
(ここは“入口”)
入口は、運び手が出入りする。
運び手を捕まえたい。
だが捕まえれば、火が上がる。
火が上がれば、街が焼ける。
だから――今は捕まえない。
捕まえずに、逃げ道だけ消す。
◇
クラリスは御者へ、ほんの一言だけ落とした。
「次」
御者が頷き、封蝋から視線を外す。
「確認は以上です」
「写しは不要。――ただし」
一拍。
「今後、封蝋は“欠け”を作らずにお願いします」
「欠けは、管理不備に見えます」
慈善院の男が、反射で言う。
「欠けなど、元から――」
言ってしまった。
“元から”と言うのは、前提がある証拠だ。
御者が、丁寧に切る。
「元から、ということは」
「欠けた状態の封蝋を“正常”として運用している、という意味になります」
男が口を閉じる。
閉じるしかない。
閉じれば、こちらの言葉だけが残る。
クラリスはそこで、境界の糸をひとつ引いた。
――慈善院、封蝋欠けを“正常運用”と認識。
言質は、刃物ではない。
鎖だ。
鎖は、逃げ道を塞ぐ。
◇
戻りの馬車。
クラリスは窓の外を見たまま、静かに言う。
「押した手は、慈善院の手じゃない」
「慈善院は、封を受け取っただけ」
侍女が息を呑む。
「じゃあ……誰が」
クラリスは答えない。
答えられないのではない。
答えるには、早い。
早い答えは、嘘を混ぜる。
「次は“運び”を見る」
クラリスは言葉を整えた。
「封を作った場所」
「封を運んだ道」
「封を渡した手」
名ではない。
線だ。
線は、逃げない。
そして線は――伯爵家の医療へ向かっている。
クラリスの白猫の笑みが、ほんの少しだけ鋭くなる。
爪は、もう研ぎ終わっている。
――次に触れるのは、封そのものじゃない。
封を作らせた“理由”だ。




