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悪役令嬢ですが、泣き落としには法と魔法で対処します  作者: ちわいぬ
第5章 境界の祈り編 (クラリス)

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第176話 欠けた灰

慈善は、正しい顔をしている。


正しい顔は、疑われにくい。

疑われにくい場所ほど、混ぜものは置きやすい。


クラリスは馬車を降りない。

降りれば名が立つ。

名が立てば、相手は“善意”で壁を作る。


だから、壁の外から見る。



「奉納の確認です」


御者の声は丁寧で、事務だ。

事務は、祈りより門を開ける。


慈善院の門番が一瞬だけ迷う。

迷うのは、準備がない証拠だ。


だが、すぐに笑う。


笑いは盾になる。


「どうぞ。帳は奥に」


奥。

その言葉で境界が擦れる。


(奥が、壁)


クラリスは笑わない。

笑いは御者に任せる。


御者が一歩進み、帳を受け取る。


「写しは不要です」

「封の確認だけ」


慈善院側の男が、目を細める。


写しを取られないのは、楽だ。

だが、封だけ見られるのは嫌だ。


封は、嘘を隠しにくいから。



御者の手元で、封蝋が光る。


灰。

神殿会計室と似た灰。


似ている。

だが――欠けている。


欠け方が、整いすぎている。


欠けたのではなく、欠かした欠け。


(わざとだ)


クラリスは馬車の中で、境界の感覚を一点に集める。

封蝋の欠けは、線の切り口だ。


「紋の位置」


クラリスが低く言う。


御者が頷く。

指で触れない。

触れれば“傷”が増える。


目だけで、位置を読む。


「……神殿の会計印に似ています」

「ただし、角が違う。欠けが、角に寄ってる」


角。

印章の角は、持ち手の癖が出る。

右利きか、左利きか。

押し付ける強さ。

逃がす癖。


クラリスは紙に線を一本引いた。


――会計印“擬き”。欠けは意図。角に偏る。


「押した者の手が慣れていない」

クラリスが言う。


御者が短く答える。


「はい。押し直した跡もあります」

「薄い灰が、二重です」


二重。

焦った手。


焦りは、追える。



慈善院の男が、口を挟む。


「封の欠けなど、些末です」

「奉納は揃っております」


些末。

便利な言葉。

大事なところを隠す時に使う。


御者が丁寧に返す。


「些末だからこそ、確認が容易です」

「容易なら、なおさら整えておけます」


丁寧。

そして、逃げ道がない。


男の笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。


クラリスは馬車の影から、男の指を見る。

指が綺麗すぎる。

爪が伸びていない。


奉納を扱う手ではない。

帳簿の手だ。


(ここは“現場”じゃない)

(ここは“入口”)


入口は、運び手が出入りする。


運び手を捕まえたい。

だが捕まえれば、火が上がる。

火が上がれば、街が焼ける。


だから――今は捕まえない。


捕まえずに、逃げ道だけ消す。



クラリスは御者へ、ほんの一言だけ落とした。


「次」


御者が頷き、封蝋から視線を外す。


「確認は以上です」

「写しは不要。――ただし」


一拍。


「今後、封蝋は“欠け”を作らずにお願いします」

「欠けは、管理不備に見えます」


慈善院の男が、反射で言う。


「欠けなど、元から――」


言ってしまった。

“元から”と言うのは、前提がある証拠だ。


御者が、丁寧に切る。


「元から、ということは」

「欠けた状態の封蝋を“正常”として運用している、という意味になります」


男が口を閉じる。


閉じるしかない。

閉じれば、こちらの言葉だけが残る。


クラリスはそこで、境界の糸をひとつ引いた。


――慈善院、封蝋欠けを“正常運用”と認識。


言質は、刃物ではない。

鎖だ。


鎖は、逃げ道を塞ぐ。



戻りの馬車。


クラリスは窓の外を見たまま、静かに言う。


「押した手は、慈善院の手じゃない」

「慈善院は、封を受け取っただけ」


侍女が息を呑む。


「じゃあ……誰が」


クラリスは答えない。

答えられないのではない。

答えるには、早い。


早い答えは、嘘を混ぜる。


「次は“運び”を見る」

クラリスは言葉を整えた。


「封を作った場所」

「封を運んだ道」

「封を渡した手」


名ではない。

線だ。


線は、逃げない。


そして線は――伯爵家の医療へ向かっている。


クラリスの白猫の笑みが、ほんの少しだけ鋭くなる。


爪は、もう研ぎ終わっている。


――次に触れるのは、封そのものじゃない。


封を作らせた“理由”だ。

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