第175話 名の代わりの印
朝は、善意の顔を被る。
夜に数えた者ほど、朝は祈るふりが上手い。
祈るふりが上手い者ほど、帳簿の字が綺麗だ。
クラリスは朝の光で、昨夜の線を紙に起こした。
地図ではない。
境界の紙だ。
「倉の位置」
「慈善院の裏門」
「荷車の出入り」
「印章の紐」
名は、ない。
だが、名より強いものがある。
“使い方”。
印章は、使い方で人が出る。
◇
伯爵家からの返事は早かった。
医師長の使いが、封の薄い書付を持ってきた。
余計な言葉はない。
現場の手の紙だ。
――検分室、未開封箱の封蝋一致。
――灰色封、神殿会計室と同系。
――白色微粉末、金属筒と同型。危険性あり、隔離継続。
隔離。
現場が生きている証拠。
クラリスはその紙を折り、侍女へ渡す。
「燃やさないで。保管」
「燃やせば楽だけど、楽は嘘を混ぜる」
侍女が頷く。
「……倉の方は?」
クラリスは窓の外を見た。
昼になれば、倉は“何もない顔”をする。
「倉は、今は触らない」
「触れば、相手は次から倉を変える」
一拍。
「変えさせるのは最後」
「今は、“運び手”を残す」
◇
御者が戻ってきた。
昨夜と同じ顔をしているが、目が少しだけ硬い。
「印章の紐」
クラリスが言う。
御者は頷いた。
「紐の結び方が、伯爵家のものに似ていました」
「ただし……紐は新しい。手は慣れていない」
似ている。
だが、慣れていない。
(真似)
伯爵家の名を借りて、
伯爵家の領分に手を伸ばす。
まさに、狙い通りの手口だ。
クラリスは言葉を丁寧に整える。
「伯爵家の者なら、紐の結びで迷わない」
「迷うのは、外の者」
「外の者が伯爵家の印を使うなら――」
侍女が息を呑む。
「偽装……」
クラリスは頷く。
頷くが、断定はしない。
断定は刃になる。
刃は必要なときに抜く。
「偽装の可能性」
「だから、名ではなく“使い方”で追う」
◇
昼。
クラリスは屋敷の中で動いた。
外へ出ない。
出れば名が立つ。
代わりに、名の立たない手を走らせる。
侍女へ。
「施療小屋の薬師に、文を」
「“昨夜から未開封箱は隔離のままか”だけ確認」
「返事は口頭で。紙に残さない」
御者へ。
「慈善院の奉納帳の“形式”を調べて」
「誰が帳を作るか」
「帳の紙質と、封の色」
形式。
形式が線になる。
そして線は、切れる。
◇
夕刻。
返事が揃う。
施療小屋は、隔離を守っている。
未開封箱は触られていない。
立会いも維持。
現場は、折れていない。
慈善院の奉納帳は――妙に整っている。
御者が短く言う。
「紙が良すぎます」
「慈善院の帳にしては、上物です」
上物の紙は、上の流れ。
上の流れは、神殿へ近い。
クラリスはそこで、ひとつだけ“手触り”を拾う。
「封の色は」
「灰です」
「神殿会計室の灰に、近い」
繋がった。
慈善院と会計の灰。
だが、灰の司祭がいる。
あの灰は、火を消す灰だ。
火を起こす灰ではない。
(灰が二つある)
同じ色でも、意味が違う。
ORDとORDOが違うように。
クラリスは境界の紙に線を重ねた。
慈善院――施療小屋――倉――印章の紐。
線の中心に、伯爵家の白がある。
(狙いは、信用)
祈りを弾かせる。
現場を疑わせる。
白を弱らせる。
弱れば、掌握できる。
“医療”は、金より強い。
だから奪う価値がある。
◇
夜。
クラリスは、最後の手順を置く。
「明日」
クラリスは侍女に言った。
「慈善院へ“奉納の確認”をもう一度」
「今度は、帳の写しを取らない」
「封蝋の“欠け”だけ見る」
侍女が眉を寄せる。
「欠け、ですか」
「封蝋は、押した印が欠ける」
「欠け方は、道具の癖」
「癖は、人を裏切らない」
名は隠せる。
だが癖は隠しにくい。
クラリスは白猫の笑みを薄く戻す。
優しい笑みではない。
獲物の足跡を見つけた笑みだ。
「明日は、名を追わない」
「印の“癖”を追う」
その癖が、神殿へ続くのか。
伯爵家へ続くのか。
それとも――もっと外の“貴族”へ続くのか。
白猫はまだ鳴かない。
鳴けば、逃げる。
鳴かずに、爪だけを出す。
――爪の先は、もう境界に触れている。




