第174話 運び手の夜
夜は、善意の顔を外す。
昼の慈善は笑う。
夜の慈善は数える。
数える音は小さい。
小さいから、聞こえる者にしか聞こえない。
クラリスは部屋で待った。
待つのは怯えではない。
“ここで動かない”という手順だ。
動かない手順は、相手を動かす。
◇
刻が少し過ぎた頃。
御者が控えの間に入る。
一歩だけ。
音を立てない。
「来ました」
クラリスは頷いた。
「慈善院?」
「はい。裏門です」
「荷車が一台。人影は二つ」
二つ。
多すぎない。
多すぎないのは、慣れている証拠だ。
クラリスは外套の襟を整えた。
名は出さない。
顔も出さない。
出すのは――線だけ。
「行くのは私じゃない」
「あなたが行く」
御者が頷く。
「見失わない程度に」
「近づきすぎない」
「声はかけない」
「承知しました」
◇
馬車は動かない。
動かない馬車の中で、クラリスは窓の闇を見た。
闇は境界が見えやすい。
光がないから、線が浮く。
荷車が裏門を出る。
車輪が石に当たる音。
布を被せた箱の音。
そして――封の匂い。
灰色の匂いが、風に乗る。
(やっぱり)
慈善院の中で見えた“棚の下”の擦れ。
あれは箱の影だった。
箱が動けば、擦れも動く。
クラリスは指先で、境界の紙をなぞる。
紙は祈りではない。
線を残すための道具だ。
御者の影が、遠くで同じ速度を保っている。
追うのは足ではない。
距離だ。
距離を保てば、相手は油断する。
油断すれば、手順が崩れる。
崩れれば、記録になる。
◇
荷車は施療小屋へは行かなかった。
施療小屋は表の流れだ。
今夜の荷は、裏の流れ。
荷車が曲がる。
神殿の白へは近づかない。
伯爵家の診療所へも近づかない。
監視の薄い道。
だから混ぜやすい。
御者が戻ってくる。
戻る足が速い。
速いのは焦りではない。
確信だ。
「止まりました」
「どこで」
「川沿いです。廃屋の倉です」
「人が三人、増えました。荷車の二人に合流」
「箱を下ろしています」
三人増える。
増えるのは、“受け取り手”がいるからだ。
クラリスは頷く。
「箱は?」
「二つありました。片方は小さい」
「小さい方を、先に奥へ入れました」
小さい方。
中身が濃い。
混ぜものはいつも小さい。
クラリスは窓を閉めた。
閉めるのは恐れではない。
音を外へ漏らさないためだ。
「顔は見えた?」
御者が首を横に振る。
「覆面です。ですが――」
「手が荒れていません。帳簿の手です」
帳簿の手。
また金の手。
クラリスはそこで一つだけ、線を太くする言葉を置く。
「印は」
御者が短く答える。
「ありました」
「袖口から、印章の紐が見えました」
印がある。
名がなくても、印は残る。
印が残れば、同じ者を追える。
クラリスは息を吸って整える。
ここで踏み込めば、火が上がる。
火が上がれば、街が焼ける。
だから、今夜は刃を出さない。
出すのは爪の音だけ。
「帰る」
御者が一瞬だけ目を瞬かせる。
「……踏み込みませんか」
クラリスは首を横に振った。
「踏み込めば、隠す」
「隠せば、線が消える」
一拍。
「線が残るうちに、線の先を押さえる」
「押さえるのは、私じゃない」
御者が理解した。
理解が早いのは、伯爵家の命令が追いついた理由と同じだ。
「伯爵家へ。医師長と……レナートに?」
クラリスは頷く。
「“箱は慈善院から夜に出た”」
「“受け取りは川沿いの廃倉”」
「“印章の紐が見えた。帳簿の手”」
結論は渡さない。
結論を渡せば、先走る。
先走れば、運び手が逃げる。
「それと――」
クラリスは声を落とした。
「灰の司祭に、動きを知らせない」
「知らせれば、彼は先に刺す。先に刺せば、こちらの線が折れる」
御者が眉を寄せる。
だが、頷いた。
「承知しました」
◇
馬車が屋敷へ戻る。
戻る道すがら、クラリスは胸の奥で一つだけ確信を置いた。
慈善院が“流通”の皮を被っている。
そして流通の先に、祈りの壁が置かれている。
壁は、祈りを弾くためではない。
祈りが届かない者を選別し、
届くはずの場所を狙い、
医療の信用を揺らすための壁だ。
揺らせば、伯爵家の白が折れる。
折れれば、掌握できる。
(狙いは、伯爵家)
クラリスは手袋の上から指先を握る。
白猫は、飛びかからない。
飛びかからずに、獲物の帰り道だけを塞ぐ。
今夜は、線を拾った。
明日は、その線に
“名の代わりの印”を刺す。
白猫の尻尾が、見えないところで静かに揺れた。
――夜の帳は、もうめくれている。




