表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢ですが、泣き落としには法と魔法で対処します  作者: ちわいぬ
第5章 境界の祈り編 (クラリス)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

173/320

第173話 慈善の帳

朝は、祈りより先に帳が動く。


湯が沸く。

布が切れる。

咳が連なる。


その動きの裏で、硬貨が数えられる音がする。

小さな音だ。

小さいから、誰も止めない。


止めない音ほど、遠くまで流れる。


クラリスはまだ名を出さない。

出さないまま、馬車の中で手袋を整えた。


「行き先は一つ」

「孤児院――グレイフォール慈善院」


御者が頷く。


「表向きは“奉納の確認”で」

「はい」



慈善院の門は、よく磨かれていた。


施療小屋の薄い壁とは違う。

ここは壁が厚い。

厚い壁は、声を吸う。

吸うから、外からは何も聞こえない。


門番の服は清潔で、指先は荒れていない。

薬草の手ではない。

祈りの手でもない。


金の手だ。


御者が礼式を整えて言う。


「奉納の取りまとめの確認です」

「熱病で流れが変わっています。帳の整備を」


“帳”という単語は、門を開ける。


門番は一拍だけ迷い、すぐに道を開けた。


「……どうぞ。院長がお会いします」


院長。


慈善院の“顔”だ。



応接は、温かい香りがした。


祈りの香に似せた香。

けれど、祈りの芯がない。

似せるほど、嘘が目立つ。


院長は年配の女だった。

柔らかい笑み。

柔らかい言葉。


「ようこそ。熱病の折、奉納の確認まで……ありがたいことです」


ありがたい。

便利な言葉だ。


クラリスは笑わない。

笑わないまま礼を返す。


「奉納は、流れ」

「流れが詰まれば、子どもが困る」


院長の目がわずかに揺れる。

子どもは盾にもなる。


「おっしゃる通りです。ですが、我々はただ受け取り、現場へ回しているだけ」


ただ。

ただ、という言葉は、線を消す。


クラリスは紙を出さない。

出せば、相手は“公”へ逃げる。

逃げれば、線が太くなる前に切れる。


だから言葉だけで、線を引く。


「受け取った記録を見せて」

「この三日分でいい」


院長の笑みが、少しだけ固まる。


「三日分……急ですね」


クラリスは穏やかに返す。


「急なのは熱病よ」

「急でないなら、死人が増える」


“死人”は、慈善院が嫌う単語だ。

慈善は救済の顔をしている。

救えなかった瞬間、顔が剥がれる。


院長は、咳払いをして頷いた。


「分かりました。帳係を呼びます」



帳係が来た。


若い男。

身なりは良い。

そして――手が荒れていない。


帳簿の手だ。


帳が運ばれる。

紙の束は多い。

多すぎる。

多すぎるのは、隠すためだ。


クラリスは頁をめくらない。

めくらなくても分かる。

“境界”が擦れる方向がある。


帳の端。

一箇所だけ、紙が薄い。

薄い紙は差し替えが利く。


クラリスはそこを見ずに、院長へだけ問いを置く。


「奉納の取りまとめを、どこへ回したの」

「施療小屋へは、いつ、どれだけ」


院長が即答する。


「必要な分を。毎日です。熱病ですから」


必要。

毎日。

便利な言葉が揃う。


クラリスは頷き、次に言う。


「“支給品”は?」

「神殿経由の“協力”品。ここを通った?」


帳係の目が、ほんの少しだけ動いた。

動いた先に、棚がある。

棚の上段。

封の付いた箱が置ける高さ。


(ある)


クラリスは、棚を見ない。

見れば“踏み込む”になる。


代わりに、帳係へ問う。


「支給品の受領欄は、どこ」

「記録の形式でいい」


帳係が口を開きかけて閉じる。

閉じるのは、“その形式が嫌い”だからだ。

形式は責任の線になる。


院長が代わりに言う。


「支給品など……慈善院には」

「ありません」


否定は早いほど怪しい。

遅いほど怯える。

今のは早い。


クラリスは否定しない。

否定せず、逃げ道を細くする。


「ないなら、良かった」

「“ない”と記録して帰れる」


院長の眉がわずかに動く。


記録。

慈善院は“記録”に弱い。

慈善は善意の顔をして、帳を嫌う。


「……記録は、必要でしょうか」


クラリスは優しく言う。


「必要よ」

「善意ほど、誤解されやすい」


一拍。


「誤解が怖いなら、なおさら残すべき」


院長の唇が薄くなる。

“誤解”という言葉は、刺さる。


クラリスは続ける。


「奉納は誰が取りまとめてるの」

「あなたの名で?」

「それとも、別の名で?」


帳係の喉が鳴る。

院長が即答しない。

即答しない一拍が、線になる。


「……院の名で」


院の名。

つまり、個人名ではない。

責任の線を薄くする言い方だ。


クラリスは頷き、次の確認を置く。


「では、持ち込みは誰」

「ここへ運んだ者の記録はある?」


院長が言葉を詰まらせる。

運んだ者は――書きたくない。


帳係が小さな声で言った。


「……運びは、外の者です」

「奉納を“まとめて”持ってきます」


外の者。


外の者ほど便利だ。

責任を外へ流せる。


クラリスは白猫の笑みを、ほんの少しだけ戻した。


「外の者の名は?」

「書いてないなら、書いてないと記録する」


院長が、やっと笑みを戻す。

戻した笑みは薄い。


「名など……慈善に関わる方の安全のために」


安全。

盾だ。


クラリスは盾を壊さない。

壊さず、横から抜く。


「安全のために名を伏せるなら」

「受領の“印”が要るわ」


院長が目を細める。


「印……?」


「手の印でも、刻印でもいい」

「同じ者が持ち込むなら、同じ印が残る」


印は、名より残る。

名は嘘をつくが、印は癖を残す。


帳係の手が、無意識に袖へ向かった。

袖口。

そこに印章を隠す癖がある。


(持ってる)


クラリスは見ない。

見ないまま、言葉だけで追い詰める。


「印がないなら、持ち込みが毎回違う」

「毎回違うなら、流通線が不明」

「不明な流通線で薬草と布を扱うのは、現場にとって危険よ」


“現場”と言った瞬間、院長の顔が少し固まる。

慈善院は、現場を盾にするくせに、現場の責任は嫌う。


クラリスは、そこで踏み込まない。

踏み込まず、最後の確認だけ置いた。


「三日前、ここから施療小屋へ渡った箱」

「封は灰色だった?」

「灰色なら――誰の封?」


帳係の目が、はっきりと揺れた。


揺れたことが答えだ。


院長が、柔らかい声で遮る。


「……お嬢様」

「慈善院は、子どもを守る場所です」


クラリスは首を傾げる。


「だから、来たの」

「子どもを守る場所に、混ぜものが通るなら――」

「子どもが一番先に死ぬわ」


院長の喉が鳴る。

言い返せない。


“子ども”は盾であり、同時に急所だ。



帰りの馬車の中で、クラリスは窓の外を見た。


慈善院の門は閉じる。

閉じた門の内側に、箱は残る。


残るなら、追える。


御者が小さく言う。


「お嬢様。今のやり取りで、線は引けましたか」


クラリスは頷く。


「名は出ない」

「でも印はある」

「印があるなら、運び手は一人に寄る」


そして、寄る場所も見えた。


慈善の顔をした帳。

帳の裏に、灰色の封。


クラリスは手袋の上から指先を握った。


白猫は、獲物を追うとき声を出さない。


声を出さずに、足音を消す。


次にやるのは、踏み込むことじゃない。


“運び手”が動く夜に、

線の端を――そっと掴むことだ。


爪を出すのは、まだ。


でも――研ぐ音は、もう止まらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ