第173話 慈善の帳
朝は、祈りより先に帳が動く。
湯が沸く。
布が切れる。
咳が連なる。
その動きの裏で、硬貨が数えられる音がする。
小さな音だ。
小さいから、誰も止めない。
止めない音ほど、遠くまで流れる。
クラリスはまだ名を出さない。
出さないまま、馬車の中で手袋を整えた。
「行き先は一つ」
「孤児院――グレイフォール慈善院」
御者が頷く。
「表向きは“奉納の確認”で」
「はい」
◇
慈善院の門は、よく磨かれていた。
施療小屋の薄い壁とは違う。
ここは壁が厚い。
厚い壁は、声を吸う。
吸うから、外からは何も聞こえない。
門番の服は清潔で、指先は荒れていない。
薬草の手ではない。
祈りの手でもない。
金の手だ。
御者が礼式を整えて言う。
「奉納の取りまとめの確認です」
「熱病で流れが変わっています。帳の整備を」
“帳”という単語は、門を開ける。
門番は一拍だけ迷い、すぐに道を開けた。
「……どうぞ。院長がお会いします」
院長。
慈善院の“顔”だ。
◇
応接は、温かい香りがした。
祈りの香に似せた香。
けれど、祈りの芯がない。
似せるほど、嘘が目立つ。
院長は年配の女だった。
柔らかい笑み。
柔らかい言葉。
「ようこそ。熱病の折、奉納の確認まで……ありがたいことです」
ありがたい。
便利な言葉だ。
クラリスは笑わない。
笑わないまま礼を返す。
「奉納は、流れ」
「流れが詰まれば、子どもが困る」
院長の目がわずかに揺れる。
子どもは盾にもなる。
「おっしゃる通りです。ですが、我々はただ受け取り、現場へ回しているだけ」
ただ。
ただ、という言葉は、線を消す。
クラリスは紙を出さない。
出せば、相手は“公”へ逃げる。
逃げれば、線が太くなる前に切れる。
だから言葉だけで、線を引く。
「受け取った記録を見せて」
「この三日分でいい」
院長の笑みが、少しだけ固まる。
「三日分……急ですね」
クラリスは穏やかに返す。
「急なのは熱病よ」
「急でないなら、死人が増える」
“死人”は、慈善院が嫌う単語だ。
慈善は救済の顔をしている。
救えなかった瞬間、顔が剥がれる。
院長は、咳払いをして頷いた。
「分かりました。帳係を呼びます」
◇
帳係が来た。
若い男。
身なりは良い。
そして――手が荒れていない。
帳簿の手だ。
帳が運ばれる。
紙の束は多い。
多すぎる。
多すぎるのは、隠すためだ。
クラリスは頁をめくらない。
めくらなくても分かる。
“境界”が擦れる方向がある。
帳の端。
一箇所だけ、紙が薄い。
薄い紙は差し替えが利く。
クラリスはそこを見ずに、院長へだけ問いを置く。
「奉納の取りまとめを、どこへ回したの」
「施療小屋へは、いつ、どれだけ」
院長が即答する。
「必要な分を。毎日です。熱病ですから」
必要。
毎日。
便利な言葉が揃う。
クラリスは頷き、次に言う。
「“支給品”は?」
「神殿経由の“協力”品。ここを通った?」
帳係の目が、ほんの少しだけ動いた。
動いた先に、棚がある。
棚の上段。
封の付いた箱が置ける高さ。
(ある)
クラリスは、棚を見ない。
見れば“踏み込む”になる。
代わりに、帳係へ問う。
「支給品の受領欄は、どこ」
「記録の形式でいい」
帳係が口を開きかけて閉じる。
閉じるのは、“その形式が嫌い”だからだ。
形式は責任の線になる。
院長が代わりに言う。
「支給品など……慈善院には」
「ありません」
否定は早いほど怪しい。
遅いほど怯える。
今のは早い。
クラリスは否定しない。
否定せず、逃げ道を細くする。
「ないなら、良かった」
「“ない”と記録して帰れる」
院長の眉がわずかに動く。
記録。
慈善院は“記録”に弱い。
慈善は善意の顔をして、帳を嫌う。
「……記録は、必要でしょうか」
クラリスは優しく言う。
「必要よ」
「善意ほど、誤解されやすい」
一拍。
「誤解が怖いなら、なおさら残すべき」
院長の唇が薄くなる。
“誤解”という言葉は、刺さる。
クラリスは続ける。
「奉納は誰が取りまとめてるの」
「あなたの名で?」
「それとも、別の名で?」
帳係の喉が鳴る。
院長が即答しない。
即答しない一拍が、線になる。
「……院の名で」
院の名。
つまり、個人名ではない。
責任の線を薄くする言い方だ。
クラリスは頷き、次の確認を置く。
「では、持ち込みは誰」
「ここへ運んだ者の記録はある?」
院長が言葉を詰まらせる。
運んだ者は――書きたくない。
帳係が小さな声で言った。
「……運びは、外の者です」
「奉納を“まとめて”持ってきます」
外の者。
外の者ほど便利だ。
責任を外へ流せる。
クラリスは白猫の笑みを、ほんの少しだけ戻した。
「外の者の名は?」
「書いてないなら、書いてないと記録する」
院長が、やっと笑みを戻す。
戻した笑みは薄い。
「名など……慈善に関わる方の安全のために」
安全。
盾だ。
クラリスは盾を壊さない。
壊さず、横から抜く。
「安全のために名を伏せるなら」
「受領の“印”が要るわ」
院長が目を細める。
「印……?」
「手の印でも、刻印でもいい」
「同じ者が持ち込むなら、同じ印が残る」
印は、名より残る。
名は嘘をつくが、印は癖を残す。
帳係の手が、無意識に袖へ向かった。
袖口。
そこに印章を隠す癖がある。
(持ってる)
クラリスは見ない。
見ないまま、言葉だけで追い詰める。
「印がないなら、持ち込みが毎回違う」
「毎回違うなら、流通線が不明」
「不明な流通線で薬草と布を扱うのは、現場にとって危険よ」
“現場”と言った瞬間、院長の顔が少し固まる。
慈善院は、現場を盾にするくせに、現場の責任は嫌う。
クラリスは、そこで踏み込まない。
踏み込まず、最後の確認だけ置いた。
「三日前、ここから施療小屋へ渡った箱」
「封は灰色だった?」
「灰色なら――誰の封?」
帳係の目が、はっきりと揺れた。
揺れたことが答えだ。
院長が、柔らかい声で遮る。
「……お嬢様」
「慈善院は、子どもを守る場所です」
クラリスは首を傾げる。
「だから、来たの」
「子どもを守る場所に、混ぜものが通るなら――」
「子どもが一番先に死ぬわ」
院長の喉が鳴る。
言い返せない。
“子ども”は盾であり、同時に急所だ。
◇
帰りの馬車の中で、クラリスは窓の外を見た。
慈善院の門は閉じる。
閉じた門の内側に、箱は残る。
残るなら、追える。
御者が小さく言う。
「お嬢様。今のやり取りで、線は引けましたか」
クラリスは頷く。
「名は出ない」
「でも印はある」
「印があるなら、運び手は一人に寄る」
そして、寄る場所も見えた。
慈善の顔をした帳。
帳の裏に、灰色の封。
クラリスは手袋の上から指先を握った。
白猫は、獲物を追うとき声を出さない。
声を出さずに、足音を消す。
次にやるのは、踏み込むことじゃない。
“運び手”が動く夜に、
線の端を――そっと掴むことだ。
爪を出すのは、まだ。
でも――研ぐ音は、もう止まらない。




