第172話 検分室の白
検分室の空気は、静かだった。
静かで、乾いていて、だからこそ血の匂いが消えない。
祈りの香は、ここにはない。
あるのは、薬草の粉と、煮沸した布の匂いと――手順の匂いだ。
扉の前で、伯爵家の白衣が二人、短く礼をした。
片方は若い。
片方は年配で、目の下の影が深い。
「公爵令嬢様」
名を呼ばれた瞬間、クラリスは首を振った。
「名は要らないわ」
「奉納の確認で来た。――ここでは、それで通して」
白衣は一拍置く。
そして頷いた。
「承知しました。……現場の線を守る形で」
線。
言葉が合うのは、ここまでの仕事が噛み合っている証だ。
◇
箱は、机の上に置かれていた。
未開封。
封蝋は崩れていない。
立会い二名、記録二通。
――それだけで、現場は勝っている。
年配の白衣が、封蝋に触れずに言った。
「封は“灰”ですね」
クラリスは頷く。
「神殿の会計室と同じ色」
「同じなら、同じ手順で辿れる」
若い白衣が唾を飲む。
封に触れず、紙を一枚出した。
「回収経路の写しです。施療小屋、奉納の取りまとめ、そして……孤児院」
孤児院。
そこに寄った瞬間、空気が少し重くなる。
疑いにくい言葉ほど、厄介だ。
年配の白衣が言葉を整える。
「混ぜ物が“祈り”に干渉している可能性がある、と」
「その前提で、検分の手順を組みます」
クラリスは、そこで頷かない。
頷けば、断定になる。
断定は刃だ。
刃は、必要なときに抜く。
「私は現象だけを拾う」
「判断は、あなたたちの白で」
年配の白衣の口元が、わずかに硬くなる。
伯爵家の白は、礼を尽くされるより、責任を渡される方が重い。
「承りました」
◇
若い白衣が、別の机へ案内した。
そこには“開封済み”の小さな包みがある。
布で二重。
さらに油紙。
それでも、匂いは漏れていた。
香――ではない。
甘いようで、すぐに金属が刺す。
鼻の奥に冷える匂い。
祈りの香に似せようとして、似せきれていない匂い。
「これが、開けられた方です」
若い白衣の声が乾く。
「現場では使っていません。使う前に止めました」
クラリスは心の中で息を吐く。
間に合った。
だが、間に合ったのは“ここ”だけだ。
他は分からない。
年配の白衣が、手袋を二枚重ね、さらに布越しに包みを押さえた。
直接は触れない。
立会いがいる。
記録がいる。
その動きは、神殿の白より静かで、堅い。
「……混ぜ方が雑ですね」
「分かるの?」
クラリスが問うと、年配の白衣は淡々と答える。
「祈りの香は“揮発”します」
「これは揮発しない成分が残る。――残る匂いです」
残る。
残るから、追える。
クラリスは、視線を机の端へ移した。
そこに置かれた小皿。
灰が少し乗っている。
銀色の粒子。
「神殿の祈祷室で出たものと、似ている」
年配の白衣が、粒子を見たまま頷く。
「似ている、では足りません」
「一致を取ります。……ただし“化学”という言葉は使いません」
クラリスの口元が、ほんの少しだけ上がる。
「言葉は要らない。結果だけでいい」
年配の白衣は、銀色粒子を別の紙に移さず、皿ごと封をした。
封をして、封の外に置いた。
「触った、が増えると嘘が混ざります」
嘘が混ざりにくい。
面倒の方が嘘は混ざりにくい。
神殿で聞いた言葉が、ここで別の形で生きる。
◇
奥の寝台で、咳が聞こえた。
患者がいる。
ここは現場だ。
クラリスは、それを見ない。
見ると、手が出る。
手が出れば、現場が崩れる。
崩れる前に、線を引く。
クラリスは白衣たちに向けて、短く言った。
「聞きたいのは一つだけ」
年配の白衣が、顔を上げる。
「はい」
「祈りが弾かれる時」
「患者の“体”が拒んでいるのか」
「道具が“道”を塞いでいるのか」
若い白衣が息を呑む。
年配の白衣は、即答しない。
即答しないのは、誠実だからだ。
「……現象だけで言えば」
年配の白衣は、言葉を選ぶ。
「体が拒むなら、拒み方に“揺れ”が出ます」
「熱で、脈で、呼吸で」
「でも報告にあるのは、揺れではなく“壁”です」
壁。
言葉が出た瞬間、クラリスの境界が、わずかに震えた。
「壁は、祈り手ではなく道の方にある」
年配の白衣が続ける。
「道具、香、器……」
「そして、供給線そのものに“混ざる”ものがあるなら」
「祈りは届きません。届く前に削られます」
削られる。
擦れる。
神殿の中で感じた手触りと一致する。
クラリスは、白猫の笑みを薄く戻した。
「結論はまだ要らない」
「でも、輪郭は掴めたわ」
若い白衣が、声を落とす。
「……公爵令嬢様」
「いえ、失礼。奉納の確認の方」
クラリスは目だけで頷く。
「何か」
「伯爵家の診療所の外側で、薬草の“行方不明”が増えています」
「現場が足りないと言っても、倉は空にならない。……変です」
変。
それは、線が二本走っている時の匂いだ。
クラリスは短く息を吐く。
「伯爵家の医療を、外から削ってる」
言葉にした瞬間、部屋が静かになる。
静かになるのは、全員が同じ結論に触れたからだ。
年配の白衣が、淡々と返す。
「削られているのは、薬草だけではありません」
「信頼です」
信頼が落ちれば、流れが変わる。
流れが変われば、権限が動く。
権限が動けば――医療が取られる。
(レナートは気づく)
クラリスは、まだその名を出さない。
出せば火が上がる。
今は、火種を集める段階だ。
◇
クラリスは扉へ向かいながら、最後に一つだけ置く。
「未開封箱は、今夜はここから動かさないで」
「動かすなら、明朝」
「立会い四名、記録三通」
「運ぶ経路は一本に固定」
若い白衣が目を見開く。
「四名も……?」
「四名が多いなら、疑いが多い場所よ」
クラリスは笑わない。
笑わないまま、白猫の声で切る。
「疑いが多い場所ほど、線を太くするの」
年配の白衣が頷いた。
「承知しました。……守ります」
守る。
守ると言える現場は強い。
クラリスは扉の外の闇を見た。
闇は線が見えやすい。
孤児院。
奉納。
灰の封。
そして、伯爵家医療の外側。
線はもう一本ではない。
複数の線が、同じ場所へ寄っている。
白猫は、まだ飛びかからない。
けれど――
爪を隠したまま、距離だけは詰めた。
次に切るのは、
“慈善”の顔をした流通線だ。




