第171話 奉納帳の歪み
奉納は、祈りの形をしている。
硬貨の音。
紙の擦れる音。
小さな「ありがとうございます」。
善意は軽い。
だから運びやすい。
運びやすいものほど――混ざる。
◇
馬車は、孤児院の前で止まらなかった。
止まれば名が立つ。
名が立てば、線が隠れる。
クラリスは角を一つ曲がった先の民家の前で降り、外套の襟を整えた。
侍女は一歩だけ遅れて、同じように息を整える。
「ここは、私の用事じゃないわ」
声を落とす。
いつもより柔らかい。
「“奉納の確認”よ。神殿でも伯爵家でもない。街の帳の確認」
侍女が頷く。
御者は馬車を遠ざけた。
遠ざけるのは礼儀ではない。
距離を取るのは、境界の作法だ。
◇
グレイフォール慈善院は、白い壁が目立つ。
だが、その白は神殿の白と違う。
塗り直しの白。
手で守っている白。
門の前で、修道女が頭を下げた。
年配ではない。
若い。
目の下に疲れがある。
「……奉納の確認、と伺いました」
クラリスは笑顔を作らない。
作らないまま、礼だけを整える。
「ええ。熱病が広がっているから、帳が乱れるでしょう」
「乱れて困るのは、現場よ。困らせないために、先に整えるだけ」
修道女の肩がわずかに落ちた。
“責められない”と分かった瞬間の緩み。
「こちらへ……」
案内される廊下は、よく掃除されている。
掃除されているのに、気配が重い。
(怖がってる)
怖がっているのは、罪を抱えているからではない。
罪にされるのが怖いからだ。
◇
帳面が置かれた小部屋は、窓が小さい。
小さい窓は、声が漏れにくい。
漏れにくいから、話が集まる。
机の上に、奉納帳が二冊。
今月分と、先月分。
クラリスは触れない。
触れずに、修道女に開かせる。
「ここ数日で増えたのは、何?」
修道女が指で欄を辿る。
指が荒れている。
現場の手だ。
「布です。……あと、薬湯のための薪」
「咳が増えて、布が足りません」
「献納の口は?」
「三つです。個人の箱、商会の箱、それと――まとめ」
まとめ。
曖昧な言葉。
曖昧な場所ほど、混ぜやすい。
クラリスは声を落とした。
「“まとめ”の担当は?」
修道女が一拍置いた。
置いた一拍が、答えだ。
「……外の方が」
「『運ぶのを手伝う』と」
手伝い。
善意の仮面。
クラリスは表情を変えない。
変えないまま、境界の感覚を一点に寄せる。
帳面の“数字”は嘘をつける。
だが、嘘は線を歪める。
歪みは残る。
「外の方の名は?」
修道女は首を横に振った。
「名は……」
「名は、聞かないようにと言われました」
聞かないように。
それは命令だ。
命令は、どこから降りる。
クラリスは追い詰めない。
追い詰めずに、逃げ道を渡す。
「いいわ。名は要らない」
「日付だけ」
修道女が頷き、欄を示す。
「三日前からです」
三日前。
神殿の鍵が動き始めた日と重なる。
クラリスは心の中で、線を一本引く。
神殿と街は別。
だが、混ぜ物は境界を嫌わない。
境界を嫌うのは、人だけだ。
◇
クラリスは、先月分の帳へ視線を移した。
数字は整っている。
整っているが――一箇所だけ、墨の色が違う。
濃い。
急いで書いた濃さ。
「この欄、誰が書いたの」
修道女が唇を噛む。
「……私ではありません」
「会計の方が、『後で埋める』と」
会計。
神殿の匂いがする単語。
クラリスは淡々と言った。
「“後で埋める”は、埋め方で罪になるわ」
修道女の目が揺れる。
揺れた目は、嘘をつけない。
「ここ……ここに、空白がありました」
「空白のままだと叱られるから、埋める、と」
叱られる。
誰に。
クラリスは、それを聞かない。
聞けば、修道女を敵にする。
敵にすれば、口が閉じる。
口が閉じれば、線が見えない。
見えない線は、街を焼く。
クラリスは、紙を一枚だけ取り出した。
封のない紙。
紋章もない。
ただ、紙質が良い。
「写しを取らせて」
「帳そのものは持ち出さない。写しだけ」
修道女が息を呑む。
「……そんなこと、許可が」
「許可は要らないわ」
言い切らない。
言い切れば、公爵令嬢になる。
今は違う。
クラリスは柔らかく、しかし逃げ道のない形に言い換える。
「写しがあれば、あなたを守れる」
「誰かが“空白”を罪にした時、あなたが埋めたんじゃないと証明できる」
証明。
それは現場に一番効く言葉だ。
修道女は、ゆっくり頷いた。
「……お願いします」
侍女が筆と紙を出し、黙って写し始める。
黙っているのは、不必要な言葉を残さないためだ。
クラリスはその間、部屋の外の気配を探った。
廊下。
玄関。
門。
そして――足音。
軽い。
迷いがない。
布靴の音ではない。
磨かれた革の、硬い音。
(来た)
◇
修道女が顔色を変えた。
「……あの方です」
扉の向こうから、声がする。
柔らかい声。
柔らかいが、温度がない。
「奉納の回収に参りました」
「帳は整っておりますか」
修道女の喉が鳴る。
答えれば線が繋がる。
黙れば叱られる。
クラリスは立ち上がらない。
立ち上がらずに、座ったまま言った。
「整っていますよ」
修道女ではなく、自分が答える。
それだけで流れが変わる。
扉が開き、男が入ってきた。
顔は布で半分隠れている。
だが、靴が綺麗だった。
泥がない。
擦れもない。
施療小屋に出入りする靴ではない。
(貴族の靴)
男の視線が一瞬だけ揺れる。
名も紋も出していないのに、気配で分かる。
“上”の匂いがする相手だと。
男は笑った。
「失礼。……お見えとは存じませんでした」
クラリスは笑わない。
白猫の笑みも作らない。
ただ、礼だけを整える。
「私は奉納の確認に来ただけ」
「回収の邪魔はしないわ」
男の目が、机の上の紙へ向く。
写し。
墨の匂い。
見られたくないものを見られた時の目だ。
クラリスは、そこで追い詰めない。
追い詰めずに、線だけを刺す。
「“空白”を埋めるの、得意ね」
男の笑みが一瞬だけ固まる。
固まった瞬間が、証拠だ。
だが証拠は紙より早く燃える。
だから、燃やさせない形で残す。
侍女が写しを畳み、袖に入れた。
動作は滑らかで、音がない。
男は視線を戻し、何事もなかったように言った。
「では、回収を」
修道女が奉納箱を差し出す。
男が受け取る。
受け取る手は、荒れていない。
金属の匂いが、微かに混じった。
(混ぜ物の匂いだ)
クラリスは、目を伏せたまま思う。
今日、拾ったのは名ではない。
靴だ。
匂いだ。
線の向きだ。
それで十分。
◇
男が去り、部屋の空気が少し軽くなる。
修道女が震える声で言った。
「……あの方は、善意で」
「善意の顔をしてるから厄介なのよ」
クラリスは責めない。
責めずに、守り方を置く。
「あなたは悪くない」
「悪いのは、混ぜる手」
「でも――混ぜられる場所は、守らないといけない」
修道女が涙を堪えて頷いた。
クラリスは侍女へ視線を送る。
侍女も頷く。
写しは取れた。
歪みも拾えた。
運び手の靴も見た。
次は――この線を、伯爵家の検分へ繋げるだけ。
◇
外へ出ると、夜気が冷たい。
冷たい方が、匂いが立つ。
匂いが立てば、線が見える。
クラリスは外套の襟を直し、御者のいない暗がりへ向けて短く言った。
「伯爵家へ。写しは二通」
「“外の回収役”は貴族の靴。金属の匂い」
「空白は埋められている。埋めた手がいる」
風が答えない。
答えないのが境界だ。
だが、境界は残る。
クラリスは白猫の笑みを、ほんの少しだけ戻した。
白猫は、まだ爪を出さない。
――けれど、線の上で尻尾だけは、静かに揺らしていた。




