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悪役令嬢ですが、泣き落としには法と魔法で対処します  作者: ちわいぬ
第5章 境界の祈り編 (クラリス)

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第171話 奉納帳の歪み

奉納は、祈りの形をしている。


硬貨の音。

紙の擦れる音。

小さな「ありがとうございます」。


善意は軽い。

だから運びやすい。


運びやすいものほど――混ざる。



馬車は、孤児院の前で止まらなかった。


止まれば名が立つ。

名が立てば、線が隠れる。


クラリスは角を一つ曲がった先の民家の前で降り、外套の襟を整えた。

侍女は一歩だけ遅れて、同じように息を整える。


「ここは、私の用事じゃないわ」


声を落とす。

いつもより柔らかい。


「“奉納の確認”よ。神殿でも伯爵家でもない。街の帳の確認」


侍女が頷く。


御者は馬車を遠ざけた。

遠ざけるのは礼儀ではない。

距離を取るのは、境界の作法だ。



グレイフォール慈善院は、白い壁が目立つ。

だが、その白は神殿の白と違う。

塗り直しの白。

手で守っている白。


門の前で、修道女が頭を下げた。

年配ではない。

若い。

目の下に疲れがある。


「……奉納の確認、と伺いました」


クラリスは笑顔を作らない。

作らないまま、礼だけを整える。


「ええ。熱病が広がっているから、帳が乱れるでしょう」

「乱れて困るのは、現場よ。困らせないために、先に整えるだけ」


修道女の肩がわずかに落ちた。

“責められない”と分かった瞬間の緩み。


「こちらへ……」


案内される廊下は、よく掃除されている。

掃除されているのに、気配が重い。


(怖がってる)


怖がっているのは、罪を抱えているからではない。

罪にされるのが怖いからだ。



帳面が置かれた小部屋は、窓が小さい。

小さい窓は、声が漏れにくい。

漏れにくいから、話が集まる。


机の上に、奉納帳が二冊。

今月分と、先月分。


クラリスは触れない。

触れずに、修道女に開かせる。


「ここ数日で増えたのは、何?」


修道女が指で欄を辿る。

指が荒れている。

現場の手だ。


「布です。……あと、薬湯のための薪」

「咳が増えて、布が足りません」


「献納の口は?」


「三つです。個人の箱、商会の箱、それと――まとめ」


まとめ。

曖昧な言葉。

曖昧な場所ほど、混ぜやすい。


クラリスは声を落とした。


「“まとめ”の担当は?」


修道女が一拍置いた。

置いた一拍が、答えだ。


「……外の方が」

「『運ぶのを手伝う』と」


手伝い。

善意の仮面。


クラリスは表情を変えない。

変えないまま、境界の感覚を一点に寄せる。


帳面の“数字”は嘘をつける。

だが、嘘は線を歪める。


歪みは残る。


「外の方の名は?」


修道女は首を横に振った。


「名は……」

「名は、聞かないようにと言われました」


聞かないように。

それは命令だ。


命令は、どこから降りる。


クラリスは追い詰めない。

追い詰めずに、逃げ道を渡す。


「いいわ。名は要らない」

「日付だけ」


修道女が頷き、欄を示す。


「三日前からです」


三日前。

神殿の鍵が動き始めた日と重なる。


クラリスは心の中で、線を一本引く。

神殿と街は別。

だが、混ぜ物は境界を嫌わない。


境界を嫌うのは、人だけだ。



クラリスは、先月分の帳へ視線を移した。


数字は整っている。

整っているが――一箇所だけ、墨の色が違う。


濃い。

急いで書いた濃さ。


「この欄、誰が書いたの」


修道女が唇を噛む。


「……私ではありません」

「会計の方が、『後で埋める』と」


会計。

神殿の匂いがする単語。


クラリスは淡々と言った。


「“後で埋める”は、埋め方で罪になるわ」


修道女の目が揺れる。

揺れた目は、嘘をつけない。


「ここ……ここに、空白がありました」

「空白のままだと叱られるから、埋める、と」


叱られる。

誰に。


クラリスは、それを聞かない。


聞けば、修道女を敵にする。

敵にすれば、口が閉じる。

口が閉じれば、線が見えない。


見えない線は、街を焼く。


クラリスは、紙を一枚だけ取り出した。

封のない紙。

紋章もない。

ただ、紙質が良い。


「写しを取らせて」

「帳そのものは持ち出さない。写しだけ」


修道女が息を呑む。


「……そんなこと、許可が」


「許可は要らないわ」


言い切らない。

言い切れば、公爵令嬢になる。

今は違う。


クラリスは柔らかく、しかし逃げ道のない形に言い換える。


「写しがあれば、あなたを守れる」

「誰かが“空白”を罪にした時、あなたが埋めたんじゃないと証明できる」


証明。

それは現場に一番効く言葉だ。


修道女は、ゆっくり頷いた。


「……お願いします」


侍女が筆と紙を出し、黙って写し始める。

黙っているのは、不必要な言葉を残さないためだ。


クラリスはその間、部屋の外の気配を探った。


廊下。

玄関。

門。


そして――足音。


軽い。

迷いがない。


布靴の音ではない。

磨かれた革の、硬い音。


(来た)



修道女が顔色を変えた。


「……あの方です」


扉の向こうから、声がする。

柔らかい声。

柔らかいが、温度がない。


「奉納の回収に参りました」

「帳は整っておりますか」


修道女の喉が鳴る。

答えれば線が繋がる。

黙れば叱られる。


クラリスは立ち上がらない。

立ち上がらずに、座ったまま言った。


「整っていますよ」


修道女ではなく、自分が答える。

それだけで流れが変わる。


扉が開き、男が入ってきた。


顔は布で半分隠れている。

だが、靴が綺麗だった。

泥がない。

擦れもない。


施療小屋に出入りする靴ではない。


(貴族の靴)


男の視線が一瞬だけ揺れる。

名も紋も出していないのに、気配で分かる。


“上”の匂いがする相手だと。


男は笑った。


「失礼。……お見えとは存じませんでした」


クラリスは笑わない。

白猫の笑みも作らない。

ただ、礼だけを整える。


「私は奉納の確認に来ただけ」

「回収の邪魔はしないわ」


男の目が、机の上の紙へ向く。

写し。

墨の匂い。


見られたくないものを見られた時の目だ。


クラリスは、そこで追い詰めない。

追い詰めずに、線だけを刺す。


「“空白”を埋めるの、得意ね」


男の笑みが一瞬だけ固まる。


固まった瞬間が、証拠だ。

だが証拠は紙より早く燃える。


だから、燃やさせない形で残す。


侍女が写しを畳み、袖に入れた。

動作は滑らかで、音がない。


男は視線を戻し、何事もなかったように言った。


「では、回収を」


修道女が奉納箱を差し出す。

男が受け取る。

受け取る手は、荒れていない。


金属の匂いが、微かに混じった。


(混ぜ物の匂いだ)


クラリスは、目を伏せたまま思う。


今日、拾ったのは名ではない。

靴だ。

匂いだ。

線の向きだ。


それで十分。



男が去り、部屋の空気が少し軽くなる。


修道女が震える声で言った。


「……あの方は、善意で」


「善意の顔をしてるから厄介なのよ」


クラリスは責めない。

責めずに、守り方を置く。


「あなたは悪くない」

「悪いのは、混ぜる手」

「でも――混ぜられる場所は、守らないといけない」


修道女が涙を堪えて頷いた。


クラリスは侍女へ視線を送る。

侍女も頷く。


写しは取れた。

歪みも拾えた。

運び手の靴も見た。


次は――この線を、伯爵家の検分へ繋げるだけ。



外へ出ると、夜気が冷たい。


冷たい方が、匂いが立つ。

匂いが立てば、線が見える。


クラリスは外套の襟を直し、御者のいない暗がりへ向けて短く言った。


「伯爵家へ。写しは二通」

「“外の回収役”は貴族の靴。金属の匂い」

「空白は埋められている。埋めた手がいる」


風が答えない。

答えないのが境界だ。


だが、境界は残る。


クラリスは白猫の笑みを、ほんの少しだけ戻した。


白猫は、まだ爪を出さない。


――けれど、線の上で尻尾だけは、静かに揺らしていた。

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