第170話 穴の場所
夜は、戻ってくる。
昼に閉めた扉の分だけ、夜は別の穴を探す。
クラリスは灯りを落とし切らない部屋で待っていた。
待つのは怠惰ではない。
“動かせる側に動かさせる”ための手順だ。
扉の外で、布が擦れる。
侍女が入ってきた。
「お嬢様。慈善院の裏手……人が動きました」
「裏口は使っていません。代わりに——井戸の脇です」
井戸。
水は、正当な言い訳になる。
どの家でも使う。
誰が行っても不自然ではない。
だから、混ぜやすい。
クラリスは頷いた。
「誰が」
侍女が小さく息を吸う。
「修道女が二人。……それと、男が一人」
「慈善院の者ではありません。身なりが良い。靴が綺麗です」
靴が綺麗。
現場の手ではない。
帳簿の手でもない。
——貴族の手だ。
クラリスは笑わない。
(貴族が慈善に混ざる)
(混ざるなら、目的は“金”か“支配”)
そして——どちらも医療に繋がる。
◇
御者はすでに馬車を回していた。
動きが早いのは、伯爵家の教育だ。
「追いますか」
「追わない」
クラリスは即答する。
追えば、逃げる。
逃げれば、穴は塞がる。
塞がれれば、また別の穴が開く。
今は穴の“場所”が分かればいい。
「見るだけ。拾うのは——明日」
御者が頷く。
◇
馬車は慈善院の近くまで寄らない。
寄れば目立つ。
目立てば、相手の夜が警戒に変わる。
だから、境界で見る。
クラリスはカーテンの隙間から、井戸の脇を“気配”で拾った。
二人の修道女。
男が一人。
男の手には、細い筒。
金属が月を弾いた。
(神殿の器具棚と同じ形)
白い粉が、布袋に移される。
粉を扱う手は慣れている。
慣れているのは、何度もやっているからだ。
修道女は祈りの顔をしている。
祈りの顔は、便利だ。
善意に見える。
疑いが向きにくい。
男が言った。
声は聞こえない。
だが、口の形が短い。
命令の口だ。
修道女が頷く。
頷いた瞬間、背中が固い。
信じていない。
けれど従っている。
従っている理由はひとつ。
弱みだ。
クラリスはそこで確信する。
(慈善院は主犯じゃない)
(主犯は、外の手)
慈善を隠れ蓑にした者がいる。
◇
戻る途中、クラリスは侍女に言った。
「明日の朝までに、慈善院の“奉納の帳”を見たい」
「ただし、奪わない。借りない。——写す」
侍女が頷く。
「どうやって」
クラリスは白猫の笑みを薄く戻した。
「手順で」
「衛生確認の“控え”として、写しを残す」
「彼らのために必要だ、と言えば拒めない」
拒めないのは、慈善が疑われたくないからだ。
疑われれば、子どもが困る。
子どもが困れば、彼らは折れる。
折れる前に、盾を渡す。
盾の形で、帳をもらう。
◇
馬車が屋敷の門をくぐる。
クラリスは降りる前に一度だけ夜を見た。
井戸の脇。
金属の筒。
白い粉。
そして、綺麗な靴。
(伯爵家の医療に手を伸ばす)
(その手は、神殿の外でも動ける)
(だから厄介)
クラリスは指先で境界の紙を折り、内側にしまう。
今夜は、穴の場所を拾った。
明日は、穴の“先”を拾う。
白猫は、飛びかからない。
でも——
獲物の逃げ道だけは、先に塞ぐ。




