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第17話 紙を残して、釣る


施療所の裏口は、昼と夜で匂いが違う。


昼は薬草と消毒の匂いが混ざって、忙しさの匂いになる。


夜は、冷たい石と湿った土の匂いだけが残る。


だから、気配が混じらない。


闇の中の気配は、すぐに浮く。


「……来た」


ローワンが小さく言った。


声は低い。


息は荒くない。


目だけが、獣みたいに研がれている。


私は一歩、距離を取った。


近づいたら、相手に“絵”を描かせてしまう。


お父様の言葉が頭に響く。


最初に喋るな。最初に動くな。順番を守れ。


ローワンが背中越しに言った。


「公爵令嬢、ここから先は」


「だめ」


私は即答した。


「単独行動は禁止」


ローワンが短く笑った。


笑いは、強がりじゃない。


覚悟の音だ。


「……分かってる」


「分かってるから、紙を残す」


そう言って、ローワンは私の目を見た。


見た目は喧嘩っ早いのに、目の奥が落ち着きすぎている。


頭が回る子の目だ。


「俺がいる限り、ここが狙われる」


「俺が消えりゃ、理由が消える」


その言い方が、痛いほど合理的だった。


私は白猫の微笑を崩さない。


崩したら、相手に“感情の穴”を見せる。


「あなたが消えたら、相手は“逃亡”の紙を作る」


「逃亡は一枚で作れる。否定には百枚いる」


ローワンは一拍置いた。


そして、ほんの少しだけ目を逸らした。


「……だから、紙を残す」


その瞬間。


闇の向こうで、石を踏む音がした。


二人。いや、三人。


息が整っている。


酔っていない。


噂屋じゃない。


回収屋だ。


ローワンが、わずかに肩を落とす。


武器を見せない姿勢。


戦うための姿勢じゃない。


生き残るための姿勢だ。


「今夜は、殴らねぇ」


ローワンが言った。


「殴ったら終わる」


私は頷く。


「うん。拳は、相手の物語になる」


ローワンは、私の手に紙を押し込んだ。


封はしていない。


でも折り方がきっちりしている。


訓練された折り方だ。


「二通ある」


「一通は公爵令嬢宛」


「もう一通はルーカス宛」


胸が、きゅっと締まる。


私は声を落とした。


「……本気?」


ローワンが頷く。


「本気」


「逃げねぇ」


「釣る」


一言が、冷たい刃みたいに落ちた。


ローワンは、闇に向けて一歩踏み出した。


そこで私は、最後の線を引く。


「ロウ。条件」


ローワンが振り返る。


「必ず“第三者の目”を作る」


「そして、紙の外に行かない」


ローワンが短く笑った。


「分かってる」


「俺は、弱くねぇ」


「弱くないから、選べる」


闇の中から、男の声。


「おい。そこだ」


「おとなしくしろ」


ローワンは両手を見せた。


拳じゃない。


空の手だ。


「俺は、持ってねぇ」


「俺は、やってねぇ」


言葉が、紙みたいに固い。


男が近づく。


靴が砂利を踏む。


砂利の音が、数と位置を教える。


ローワンはわざと、半歩だけ後ろに下がった。


裏口の灯りの縁。


見える場所だ。


外の番の老人が、気づいて戸を開ける。


「何だい……?」


目ができた。


ローワンはその瞬間に、さらに一歩、闇へ出る。


逃げるんじゃない。


見せるんだ。


「俺は連れて行かれる」


「見たな」


老人が息を呑む。


男が苛立つ。


「黙れ!」


ローワンは黙らない。


殴らない代わりに、言葉で刻む。


「俺は共同施療所の補助だ」


「勤務中だ。任意同行は拒否した」


「それでも、お前らは連れて行く」


男の動きが止まる。


理屈を言われると、暴力は“記録”になる。


ローワンは、その記録をわざと作った。


男が舌打ちし、ローワンの腕を掴む。


その瞬間、ローワンは“抵抗”しない。


抵抗すると、喧嘩になる。


代わりに、掴んだ腕の内側を擦る。


爪で、布を引っかける。


小さな音。


布片が、指先に残る。


ローワンはそれを、地面に落とした。


落とした場所を、足で軽く踏む。


目印。


後で拾える場所に固定する。


男が引っ張る。


ローワンの足が砂利を蹴る。


わざと大きく。


靴跡が残る。


砂利が散って、足運びが読める。


ローワンは、最後に私を見る。


目が言っている。


追うな。紙で来い。


そして、闇に飲まれた。


夜が戻る。


戻った夜の中で、私は息を吐いた。


吐いた息は白い。


白い息のまま、私は立っている。


泣かない。


怒らない。


順番を守る。


私は手紙を握りしめた。


翌朝。


施療所にローワンはいなかった。


裏口の地面に残ったのは、乱れた砂利。


靴跡。


そして、布片。


私はその布片を、布袋に入れた。


指で触らない。


手袋をする。


これも紙だ。


「……ロウ」


私は名前を呼んで、すぐに口を閉じた。


ここで感情を出したら、相手に勝ち筋を渡す。


代わりに、ルーカスに手紙を渡す。


ルーカスが封を切り、読む。


ルーカスの目が一行ごとに冷える。


読み終えた瞬間、ルーカスは言った。


「逃亡ではない。誘拐の可能性が高い」


「本人の意思で姿を消した——という形も取れるが」


「取らせない」


私は即答する。


「逃亡の紙を作らせない」


ルーカスが頷く。


「先に出します」


「王宮、警備隊、監査局、全部に」


「手紙を証拠として添付する」


私はもう一通の手紙を見た。


私宛だ。


折り目が丁寧すぎる。


胸が、また締まる。


でも読む。


紙で戦うなら、読む。


私は開いて、目を落とした。


『公爵令嬢へ』


『迷惑かけたくねぇ』


最初の一行で、喉がきゅっとなる。


次の行が、ローワンらしい。


『でも、迷惑かけねぇと守れねぇ時がある』


『俺がいる限り、施療所に理由ができる』


『理由があるなら、あいつらは燃やす』


『だから、理由を俺が持って出る』


『逃げるんじゃない』


『釣る』


『釣るから、紙を残す』


私は息を吸って、最後まで読んだ。


最後の行は、短かった。


『拳は使わねぇ。言葉を残す。だから——頼む』


頼む、の後がない。


言葉を切ったところに、ローワンの怖さがある。


責任を押し付けない。


でも、助けてくれと言っている。


私は手紙を折り直した。


折り目を戻す。


戻すことで、自分の中の順番も戻る。


ルーカスがすでに動き出している。


「警備隊へ。昨夜の巡回記録を押さえます」


「目撃者の老人も保護します」


「布片は鑑定へ」


お父様が執務室に入ってきた。


顔色が変わっていない。


変わっていないのに、部屋の空気が重くなる。


「ローワンは」


私は言った。


「消えた」


「でも、紙を残した」


お父様が頷く。


「よし」


「相手は“孤立”を作るつもりだ」


「なら、先に“囲い”を作る」


私は白猫の微笑のまま言った。


「ロウを孤立させない」


「どこにいても、公爵家の管理下にいる形にする」


ルーカスが言う。


「“勤務中の補助が連れ去られた”」


「業務妨害。誘拐。監査局案件」


「事件として立てます」


その言葉のすぐ後ろで、レナートが立っていた。


いつ来たのか分からないほど静かに。


白衣の袖を整えながら、平坦に言う。


「僕の補助だ」


「僕の患者の動線を知っている」


「——返してもらう」


声は平坦だ。


でも、平坦なのに、刃がある。


私はレナートを見る。


目の奥が冷たい。


いつもより、ずっと冷たい。


そして、その冷たさの奥に、火がある。


まだ「俺」にはならない。


でも、崩れかけている。


崩れかけているのが、一番怖い。


私は境界紙を握った。


冷たい。


冷たいまま、燃やさせない。


ローワンは紙を残して、釣った。


なら、私たちは紙で網を張る。


相手の汚い手を、今度こそ“事件”として捕まえるために。


そしてその日の昼。


王宮に提出された書類の束の一番上に、ルーカスがタイトルを書いた。


「共同施療所補助・ローワン行方不明事案」


下に、太く一行。


「逃亡ではない。誘拐の疑い」


物語を作るのは、相手だけじゃない。


私たちも作る。


ただし、噂じゃない。


紙で。

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