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悪役令嬢ですが、泣き落としには法と魔法で対処します  作者: ちわいぬ
第5章 境界の祈り編 (クラリス)

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第169話 衛生確認

朝の空気は、昨日より薄い。


薄いのに重い。

重いのは、熱が街に残っているからだ。


クラリスは公爵令嬢としては出ない。

名を出さない代わりに、“手順”を出す。


御者が、控えめに言った。


「慈善院側へは、“衛生確認”で通ります」

「名は――」


「要らないわ」

クラリスは白猫の笑みを薄く保ったまま答える。


「名は扉を閉める」

「帳は扉を開ける」



グレイフォール慈善院は、静かだった。


静かすぎるほど、整っている。

子どもの声がする。

鍋の湯気が上がる。

布が干されている。


慈善の顔。


顔が整っているほど、裏が使われる。


門番役の修道女が出てくる。

年配ではない。

若い。

若いのに、背筋が硬い。


“守る役”だ。


御者が前に出て、礼をする。


「熱病流行に伴う衛生確認です」

「配薬と奉納物の取り扱いが増えています」

「現場の事故を防ぐため、手順の確認を」


修道女は一瞬、迷う。

迷ったのは、“公爵令嬢の名がない”からではない。

迷ったのは、“拒めない単語”が並んだからだ。


衛生。

事故。

手順。


修道女は頷いた。


「……どうぞ。中へ」


クラリスは一歩も先に出ない。

出れば“入り込む”になる。


ここは慈善院の領分。

クラリスの領分ではない。


だから、線だけを引く。



中は、清潔だった。


床は拭かれている。

桶は並んでいる。

布は干されている。

香は薄い。


祈りの香ではない。

消毒の香だ。


クラリスは笑わない。

笑わないまま、視線を“裏口の方向”へ滑らせる。


境界が擦れる。


(壁)


壁は、祈りの外側にある。

ここにもある。


案内役の修道女が言う。


「奉納は、こちらで取りまとめます」

「布も薬草も、必要な分だけ」


必要な分だけ。


現場の言葉だ。

だが、“必要”の定義は帳簿で変えられる。


クラリスは問いをひとつだけ置く。


「裏口は、使っている?」


修道女の目がわずかに揺れる。

揺れたのに、声は整っている。


「……裏口は、物資の搬入に便利で」


便利。

便利は、手順を壊す。


クラリスは責めない。

責めずに、逃げ道を渡す。


「便利なら、なおさら手順が必要ね」

「熱病の時期は、搬入経路を一本にする」

「混ざれば、分からなくなるから」


修道女が唇を噛む。

分からなくなる。

それは怖い。


怖いなら、守りたくなる。

守りたければ、塞ぐ。


クラリスは続ける。


「今日から、裏口は使わないで」

「正面のみ」

「搬入は立会い二名」

「封の色と刻印は、必ず記録」


修道女が眉を寄せる。


「……そこまで必要でしょうか」


必要かどうかではない。

“必要に見える”ことが大事だ。


クラリスは白猫の笑みを薄く戻す。


「必要よ」

「誰かがあなたたちを“悪”にしたがっているなら」

「守れるのは、記録だけ」


修道女が息を呑む。


慈善は、疑われると弱い。

弱いから、利用される。


その弱さに、クラリスは触れない。

代わりに盾を置く。


「あなたたちを守るための手順よ」

「私のためじゃない」


修道女の肩が、ほんの少し落ちる。

受け取った。



そのとき。


奥の廊下で、布が擦れる音。


一瞬だけ、金属が触れ合う音。


軽い。

だが、音は嘘をつかない。


クラリスは振り返らない。

振り返れば、“見た”になる。

見たなら、相手は引く。


引けば、箱は消える。


だから、声だけを落とす。


「今の音は何?」


修道女が固まる。

固まってから、整える。


「……道具庫です」

「鍋の蓋が――」


嘘だ。

鍋の蓋は、そんな音をしない。


クラリスは白猫の笑みを消した。

消したまま、丁寧に言う。


「確認させて」

「あなたが開けて」

「立会いを二名」


修道女の喉が鳴る。


拒めば、“拒んだ”が残る。

受ければ、箱が見える。


修道女は短く頷いた。


「……分かりました」



道具庫の前。


鍵が回る。


鍵の音は、いつも同じだ。

同じだから、例外が目立つ。


扉が開く。


中は暗い。

暗いのに、棚の一角だけ封が新しい。


灰色の封。


神殿の会計室と同じ色。


クラリスはそこへ近づかない。

近づかず、言葉で刺す。


「それは何」


修道女が口を開く前に、別の声が割り込む。


「奉納品の一部です」

「預かっているだけで――」


声は男。

慈善院の声ではない。


振り返る必要はない。

聞いただけで、線が繋がる。


(外の手だ)


クラリスは呼吸を整える。

整えたまま、逃げ道を削る。


「預かるなら、受領記録がある」

「搬入日時と搬入者の名」

「立会いの署名」


男が一瞬だけ黙る。

黙った沈黙が、答えだ。


クラリスは修道女へ視線を向ける。


「あなたの手順を守って」

「守れば、あなたは守られる」


修道女が頷く。

二人の修道女が呼ばれる。

立会いが揃う。


箱は、まだ開けない。


開ければ“中身”が動く。

動けば、嘘が混ざる。


クラリスは、ここで線を確定させるだけでいい。


「封の刻印を写して」

「封の色を記録して」

「搬入経路を“正面”に戻す」


修道女が紙を取り、手が震えながらも書く。

震えるのは、怖いからだ。

怖いのは、守りたいものがあるからだ。


その震えは、味方になる。



慈善院を出る時、クラリスは振り返らない。


振り返らずに、御者へ短く言う。


「今夜、箱は動く」

「動かさせて」

「動いた先で、運び手を拾う」


御者が即答する。


「承知しました」


馬車が動き出す。


クラリスは窓の外を見たまま、境界の紙を指でなぞる。


裏口は塞いだ。

塞いだなら、流れは変わる。

変わる流れは、必ず“外へ漏れる”。


漏れたところが、次の入口だ。


白猫の笑みが、ほんの少しだけ戻る。


今日は“扉”を閉めた。


明日は――


閉められた者が、別の穴を掘る。


白猫は、その穴の前で待つ。


足音を消して。

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