第169話 衛生確認
朝の空気は、昨日より薄い。
薄いのに重い。
重いのは、熱が街に残っているからだ。
クラリスは公爵令嬢としては出ない。
名を出さない代わりに、“手順”を出す。
御者が、控えめに言った。
「慈善院側へは、“衛生確認”で通ります」
「名は――」
「要らないわ」
クラリスは白猫の笑みを薄く保ったまま答える。
「名は扉を閉める」
「帳は扉を開ける」
◇
グレイフォール慈善院は、静かだった。
静かすぎるほど、整っている。
子どもの声がする。
鍋の湯気が上がる。
布が干されている。
慈善の顔。
顔が整っているほど、裏が使われる。
門番役の修道女が出てくる。
年配ではない。
若い。
若いのに、背筋が硬い。
“守る役”だ。
御者が前に出て、礼をする。
「熱病流行に伴う衛生確認です」
「配薬と奉納物の取り扱いが増えています」
「現場の事故を防ぐため、手順の確認を」
修道女は一瞬、迷う。
迷ったのは、“公爵令嬢の名がない”からではない。
迷ったのは、“拒めない単語”が並んだからだ。
衛生。
事故。
手順。
修道女は頷いた。
「……どうぞ。中へ」
クラリスは一歩も先に出ない。
出れば“入り込む”になる。
ここは慈善院の領分。
クラリスの領分ではない。
だから、線だけを引く。
◇
中は、清潔だった。
床は拭かれている。
桶は並んでいる。
布は干されている。
香は薄い。
祈りの香ではない。
消毒の香だ。
クラリスは笑わない。
笑わないまま、視線を“裏口の方向”へ滑らせる。
境界が擦れる。
(壁)
壁は、祈りの外側にある。
ここにもある。
案内役の修道女が言う。
「奉納は、こちらで取りまとめます」
「布も薬草も、必要な分だけ」
必要な分だけ。
現場の言葉だ。
だが、“必要”の定義は帳簿で変えられる。
クラリスは問いをひとつだけ置く。
「裏口は、使っている?」
修道女の目がわずかに揺れる。
揺れたのに、声は整っている。
「……裏口は、物資の搬入に便利で」
便利。
便利は、手順を壊す。
クラリスは責めない。
責めずに、逃げ道を渡す。
「便利なら、なおさら手順が必要ね」
「熱病の時期は、搬入経路を一本にする」
「混ざれば、分からなくなるから」
修道女が唇を噛む。
分からなくなる。
それは怖い。
怖いなら、守りたくなる。
守りたければ、塞ぐ。
クラリスは続ける。
「今日から、裏口は使わないで」
「正面のみ」
「搬入は立会い二名」
「封の色と刻印は、必ず記録」
修道女が眉を寄せる。
「……そこまで必要でしょうか」
必要かどうかではない。
“必要に見える”ことが大事だ。
クラリスは白猫の笑みを薄く戻す。
「必要よ」
「誰かがあなたたちを“悪”にしたがっているなら」
「守れるのは、記録だけ」
修道女が息を呑む。
慈善は、疑われると弱い。
弱いから、利用される。
その弱さに、クラリスは触れない。
代わりに盾を置く。
「あなたたちを守るための手順よ」
「私のためじゃない」
修道女の肩が、ほんの少し落ちる。
受け取った。
◇
そのとき。
奥の廊下で、布が擦れる音。
一瞬だけ、金属が触れ合う音。
軽い。
だが、音は嘘をつかない。
クラリスは振り返らない。
振り返れば、“見た”になる。
見たなら、相手は引く。
引けば、箱は消える。
だから、声だけを落とす。
「今の音は何?」
修道女が固まる。
固まってから、整える。
「……道具庫です」
「鍋の蓋が――」
嘘だ。
鍋の蓋は、そんな音をしない。
クラリスは白猫の笑みを消した。
消したまま、丁寧に言う。
「確認させて」
「あなたが開けて」
「立会いを二名」
修道女の喉が鳴る。
拒めば、“拒んだ”が残る。
受ければ、箱が見える。
修道女は短く頷いた。
「……分かりました」
◇
道具庫の前。
鍵が回る。
鍵の音は、いつも同じだ。
同じだから、例外が目立つ。
扉が開く。
中は暗い。
暗いのに、棚の一角だけ封が新しい。
灰色の封。
神殿の会計室と同じ色。
クラリスはそこへ近づかない。
近づかず、言葉で刺す。
「それは何」
修道女が口を開く前に、別の声が割り込む。
「奉納品の一部です」
「預かっているだけで――」
声は男。
慈善院の声ではない。
振り返る必要はない。
聞いただけで、線が繋がる。
(外の手だ)
クラリスは呼吸を整える。
整えたまま、逃げ道を削る。
「預かるなら、受領記録がある」
「搬入日時と搬入者の名」
「立会いの署名」
男が一瞬だけ黙る。
黙った沈黙が、答えだ。
クラリスは修道女へ視線を向ける。
「あなたの手順を守って」
「守れば、あなたは守られる」
修道女が頷く。
二人の修道女が呼ばれる。
立会いが揃う。
箱は、まだ開けない。
開ければ“中身”が動く。
動けば、嘘が混ざる。
クラリスは、ここで線を確定させるだけでいい。
「封の刻印を写して」
「封の色を記録して」
「搬入経路を“正面”に戻す」
修道女が紙を取り、手が震えながらも書く。
震えるのは、怖いからだ。
怖いのは、守りたいものがあるからだ。
その震えは、味方になる。
◇
慈善院を出る時、クラリスは振り返らない。
振り返らずに、御者へ短く言う。
「今夜、箱は動く」
「動かさせて」
「動いた先で、運び手を拾う」
御者が即答する。
「承知しました」
馬車が動き出す。
クラリスは窓の外を見たまま、境界の紙を指でなぞる。
裏口は塞いだ。
塞いだなら、流れは変わる。
変わる流れは、必ず“外へ漏れる”。
漏れたところが、次の入口だ。
白猫の笑みが、ほんの少しだけ戻る。
今日は“扉”を閉めた。
明日は――
閉められた者が、別の穴を掘る。
白猫は、その穴の前で待つ。
足音を消して。




