第167話 灰の慈善
夜が明けても、街の咳は止まらない。
止まらないから、線が動く。
線が動くから、誰かが触る。
クラリスは朝餉に手を付けず、昨夜の紙を机に置いた。
境界の紙。
“見えない流れ”を見える形にするための紙。
施療小屋。
支給品。
封蝋。
そして――奉納の取りまとめ。
孤児院。
名は、出た。
グレイフォール慈善院。
名が出たからといって、罪が確定するわけではない。
むしろ逆だ。
慈善は、疑われにくい。
疑われにくい場所は、流通に向く。
流通に向く場所は、混ぜものに向く。
だから、名が出た瞬間に断定した者が負ける。
「お嬢様」
侍女が控えめに声を掛ける。
手に持っているのは、小さな帳面。
施療小屋での奉納の控えだ。
「昨夜の“奉納確認”の名目で、薬師が渡してきました」
「表向きは、消費が増えたから帳を整えたい、と」
クラリスは受け取らない。
受け取らず、侍女に開かせる。
触れた者の線が残る。
線が残れば、言いがかりが生まれる。
今は、こちらの線を細くしておく。
「読み上げて」
侍女が頷き、乾いた声で言う。
「……献納品、布。薬湯用の乾燥草。香木の代替品……」
「取りまとめ先、グレイフォール慈善院」
「搬入日、三日前と、二日前」
三日前。
神殿の祈祷室から“鍵”が動いた日と重なる。
偶然では、重なり過ぎている。
クラリスは表情を動かさない。
動かさずに、確認だけを置いた。
「搬入の担い手は?」
侍女が帳面の端を指でなぞる。
「名は……ありません。印だけです」
「ただ、刻印が……珍しい」
「どんな」
「灰色の蝋に、線のような刻み」
「……十字ではなく、一本の境界線みたいな」
クラリスの指先が、ほんの少しだけ止まる。
灰。
線。
似合い過ぎる。
似合い過ぎるものは、意図だ。
意図は、誰かの手だ。
「お嬢様。すぐに伯爵家へ――」
侍女が言いかけて止まる。
止まったのは、昨夜の言葉を覚えているからだ。
火を上げれば、街が焼ける。
クラリスは頷かない。
頷かず、別の線を引く。
「伯爵家には“結論”を送らない」
「送るのは“事実”だけ」
「名と、日付と、印」
侍女が息を整える。
「では……伝言の文面を」
「短く」
短いほど、暴れにくい。
暴れにくいほど、観察ができる。
◇
昼。
館の外は騒がしい。
だが、クラリスは外へ出ない。
“公爵令嬢が慈善院へ踏み込む”だけで、名が立つ。
名が立てば、相手は守りに入る。
守りに入れば、箱は隠される。
だから、動くのは“名のない者”だ。
クラリスは御者を呼んだ。
昨夜と同じ御者。
早い足。
迷いのない返事。
伯爵家の追い付きが、まだ背中に残っている。
「二つ頼むわ」
御者が姿勢を正す。
「ひとつ。グレイフォール慈善院へ、“奉納帳の照合”の使いを出す」
「公爵家の名は使わない。――あなたの名でいい」
御者の眉が微かに動く。
だが、拒まない。
「もうひとつ」
クラリスは声を落とした。
「慈善院の“出入口”を見て」
「荷の出入りだけ。人の顔は見ない」
「見れば覚える。覚えれば口が滑る」
御者が頷く。
「承知しました」
侍女が小さく聞く。
「お嬢様は……何を確かめたいのですか」
クラリスは笑わない。
笑わず、優しい声で答える。
「慈善院が悪いかどうかじゃない」
「悪いのは、慈善を“隠れ蓑”にする手」
「慈善院が“入口”なら、そこに置けるのは箱だけ」
「箱を置いた者は、必ずもう一度取りに来る」
そして――取りに来る者は、焦る。
焦れば、手順を崩す。
崩れれば、記録になる。
クラリスは机の上の紙を裏返した。
境界の紙に、線が一本増える。
灰の印。
三日前。
慈善院。
「灰の司祭が、昨夜白衣に渡した“何か”」
「それが“火消し”の手だとしたら――」
侍女が息を呑む。
クラリスは言い切らない。
言い切らず、言葉を切って置く。
「……私たちは、同じ火を見ている」
「ただ、消し方が違う」
◇
夕方。
御者が戻る前に、伯爵家から使いが来た。
封の形が、伯爵家の手順だ。
侍女が受け取り、クラリスの前で封のまま止める。
「伯爵家より。お嬢様へ」
クラリスは頷く。
「読み上げて」
侍女が封を崩し、短い文を読む。
「『回収物、検分室にて隔離。未使用確認。金属臭、記録一致』」
「『“入口”の名、受領。結論は急がぬ。――白衣一同』」
急がぬ。
その一文が、救いだった。
先走らないなら、街は焼けない。
クラリスは息をひとつ吐き、窓の外を見る。
慈善。
祈り。
医療。
守る言葉ほど、利用される。
だからこそ、守る者は言葉を汚さない。
白猫の笑みが、薄く戻る。
今夜はまだ、名をなぞるだけ。
けれど――
線を引いた猫は、逃げ道も一緒に引いている。
次に跳ぶのは、
“慈善”の中に隠れた手の方だ。
白猫は、爪を隠したまま歩く。




