第166話 孤児院の名
夜の終わりは、音が少ない。
音が少ないから、足音が目立つ。
目立つから、嘘が目立つ。
伯爵家の白衣が戻ったのは、夜更けより少し前。
箱はひとつ。
封は崩れていない。
崩れていないという事実が、現場の勝利だ。
クラリスは寝間着に着替えないまま、控えの間で待っていた。
待つのは焦りではない。
“ここで動かない”という手順だ。
扉が開き、侍女が一歩だけ入る。
「お嬢様。回収は完了しました」
「封蝋、未破損。立会い二名。記録、二通とも整いました」
クラリスは頷く。
「白衣は、何か言った?」
侍女が一拍置く。
置いた一拍が、答えだ。
「……灰の司祭が、白衣の方に“何か”を」
「声は聞こえませんでしたが、白衣の方が一度だけ足を止めました」
クラリスは笑わない。
(やはり)
情報の受け渡し。
それは合図だ。
合図は、次の動きを呼ぶ。
「白衣は、どこへ箱を運んだの」
「伯爵家の検分室へ。医師長が待っていると」
検分室。
医療の領分。
そこへ“混ぜもの”が入ったなら、伯爵家の医療に手が伸びる。
伸びるのは、目的があるからだ。
目的は、掌握だ。
クラリスは机の上の紙を裏返した。
境界の紙。
線を引くための紙。
「……今夜のうちに、もう一つだけ確認する」
侍女が眉を寄せる。
「外へ、ですか」
「いいえ」
「外へは出ない。出れば名が立つ」
クラリスは立ち上がり、窓際へ行く。
外の闇は濃い。
だが、闇は“境界”が見えやすい。
「御者を呼んで」
◇
御者はすぐに来た。
来るまでが早いのは、伯爵家が追いついてきた理由と同じだ。
熱病は、待ってくれない。
クラリスは声を落とす。
「さっきの施療小屋。持ち込んだ“手”の話」
「薬師は、誰の名を出した?」
御者が即答しない。
即答しないのは、慎重だからだ。
慎重なのは、現場の癖ではない。
“上”の癖だ。
「……名は、出しませんでした」
「ただ、“奉納の取りまとめ”が変わった、と」
奉納。
献納。
金の流れ。
クラリスは、そこで一つだけ、別の線を引いた。
「奉納の取りまとめをしているのは、どこ?」
御者が短く言う。
「……孤児院です」
孤児院。
祈りに似合う言葉。
慈善に似合う言葉。
そして、金が混ざると最も厄介な言葉。
クラリスは視線を伏せる。
伏せて、境界の感覚を手の中で折りたたむ。
(隠れ蓑だ)
孤児院は、誰も疑いにくい。
疑えば“悪”にされる。
悪にされれば、口を閉じる。
口を閉じれば、線は見えない。
だが――
線は、“弱い場所”ほど残る。
残るから、拾える。
「孤児院の名前は?」
御者が少しだけ言い淀む。
「……グレイフォール慈善院、と」
グレイフォール。
クラリスの表情は変えない。
変えないまま、心の中でだけ音を立てる。
(灰)
灰の司祭。
灰の名。
灰の匂い。
偶然ではない。
偶然にしては揃いすぎている。
侍女が、思わず聞く。
「慈善院が、奉納を……?」
クラリスは首を横に振らない。
断定もしない。
断定は刃になる。
刃は、必要なときに抜く。
今は、爪を研ぐ。
「奉納は、流れ」
「流れの先に、箱が置ける」
「箱の中に、混ぜものが置ける」
侍女が息を呑む。
御者の目が細くなる。
現場の目だ。
「お嬢様。伯爵家に伝言を?」
クラリスは頷く。
「レナートに」
「孤児院――グレイフォール慈善院」
「奉納の取りまとめがそこに寄っている」
「施療小屋への支給品の“入口”が、その線と重なる」
名前は渡す。
だが、結論は渡さない。
結論を渡せば、先走る。
先走れば、火が上がる。
火が上がれば、街が焼ける。
「それと、もう一つ」
クラリスは言葉を整えた。
「灰の司祭が回収に立ち会った」
「顔は見えない。だが、伯爵家の白衣に何かを渡した」
「中身は不明。――不明として伝える」
不明は、武器だ。
不明は、線を太くする。
◇
御者が去り、部屋が静かになる。
静けさの中で、クラリスは窓の外を見る。
孤児院。
慈善。
祈り。
それらは本来、守るための言葉だ。
だが、守る言葉ほど、利用される。
クラリスは指先で、境界の紙をなぞる。
神殿で弾かれた祈り。
街で擦れた祈り。
施療小屋で削られた祈り。
そして――孤児院に寄る金の線。
線が集まる場所は、必ず“壁”になる。
白猫の笑みが、ほんの少しだけ戻る。
優しい笑みではない。
獲物を見つけた笑みだ。
今夜は、名を拾っただけ。
明日は、その名の“中身”を拾う。
白猫は、まだ飛びかからない。
けれど――
足音を消す準備だけは、もう終えていた。




