第164話 不明二と回収の段取
馬車の揺れが、さっきより軽くなった。
軽くなったのは道ではない。
胸の奥に置いた“線”が、少しだけ整ったからだ。
窓の外。
施療小屋はもう見えない。
それでも、匂いは残る。
祈りの香ではない。
金属が冷えた匂い。
それが、祈りの糸を削る感触と一緒に残っている。
クラリスは手袋の上から指先を握り、視線を落とした。
紙。
折った紙の角。
線を引いた位置。
不明は二つ。
開封済みが一つ。
未開封が一つ。
それだけで、十分だった。
(“使っていない”)
現場が慎重だったことが、救いだ。
救いは、いつも現場が作る。
上ではない。
正義でもない。
生き残るための習慣が、命を守る。
「お嬢様」
御者が、声を落とす。
「伯爵家へは、すでに使いを走らせました」
「今夜、白衣が来るはずです」
クラリスは頷いた。
「“回収”は、奪うことじゃない」
「現場を止めないための、選択よ」
御者が、すぐに返す。
「承知しております」
言葉が短い。
短いほど、迷いがない。
クラリスは窓の外を見たまま、次の“線”を引いた。
回収は、夜。
夜は、動きが読みにくい。
だが、読みにくいのは互いに同じだ。
運ぶ者は、必ず癖を出す。
癖は、隠せない。
癖は、線になる。
(運び手を出す)
出させるのは、正面からではない。
正面から出せば、彼らは“公”に逃げる。
手順に逃げる。
名目に逃げる。
そして現場が止まる。
だから、逃げ道の外側に線を引く。
“奉納の確認”で入り、箱を隔離させた。
次は、回収に“立会い”を入れる。
立会いは、争いではない。
責任の線だ。
線があれば、切れる。
◇
伯爵家の診療所に戻ると、列はまだ長かった。
人の咳は、祈りより強い。
祈りは遅れる。
咳は今ここにある。
入口の侍女が、クラリスを見て息を呑む。
だが、礼は乱さない。
乱さないのは、ここが現場だからだ。
「お戻りでしたか。公爵令嬢様」
クラリスは笑わない。
笑わないまま、声だけを柔らかくする。
「忙しいところ、邪魔はしない」
「確認だけ。回収役が来たら、診療は止めないで」
侍女が頷く。
「承知しました。白衣は夜に」
その返事で、ここは守れると分かった。
守るのは人だ。
道具ではない。
けれど、道具を汚されれば人が折れる。
折れさせない。
クラリスは入口の脇で、ひとつだけ質問を置いた。
「“支給品”が来た診療所は、ここ以外に?」
侍女の目が揺れる。
答えられない揺れではない。
答えたくない揺れだ。
答えると、敵が増えるから。
クラリスは追わない。
追わずに、白猫の笑みを薄く作る。
「言わなくていい」
「今夜、回収が動くなら、動線は見える」
侍女が、息を吐くように頷いた。
◇
夜の前。
クラリスは一度、部屋へ通された。
診療所の裏。
泊まり客のための小さな控室。
布と湯の匂いが染みている。
窓の外で、白衣が動く。
桶が運ばれ、布が干され、薬草が刻まれていく。
整っている。
整っているのは、誰かが整えているからだ。
――レナートがいなくても、ここは回っている。
それは伯爵家の強さだ。
強さは、狙われる。
(伯爵家の医療を取り込みたい者がいる)
それは神殿の中だけの話ではない。
神殿の“壁”は、外へ続く。
外へ続けば、境界は広がる。
境界が広がれば、争いは増える。
クラリスは机の上の紙を見た。
境界神の祝福。
境界に線を引く力。
それは、剣ではない。
祈祷でもない。
――“切り分ける”力だ。
届く祈りと、届かない祈り。
清い道具と、混ざった道具。
善意の支給と、利の支給。
混ざれば、弾かれる。
弾かれれば、人が死ぬ。
(私の祝福は、こういう時に使う)
一話目からずっと、走り回っていた。
走り回りながら、線の意味を確かめる暇がなかった。
今、ようやく。
境界が“仕事”を持ってきた。
クラリスは小さく息を吸い、吐く。
白猫の笑みを作り直す。
表に出す笑みは、盾だ。
内に置く爪は、刃だ。
◇
夜。
控室の扉が、二度だけ叩かれた。
軽い。
軽いが、急ぎの音だ。
侍女が入ってくる。
「公爵令嬢様。回収役が到着しました」
「伯爵家の白衣ですか」
「はい。……ただ」
侍女が言葉を詰める。
詰めるのは、余計なものが混ざったからだ。
クラリスは微笑みを崩さない。
「“ただ”は、いつも面倒の合図ね」
侍女が小さく頷く。
「回収先に、神殿の方が一人おります」
「灰の司祭、と名乗りました」
灰。
クラリスの指先が、ほんの少しだけ止まる。
神殿は引いたはずだった。
引いたのに、灰はまだ動く。
(灰は、線の外側を歩く)
白でも黒でもない。
境界に近い色。
クラリスは立ち上がり、外套の襟を整えた。
「私は出ない」
「ここで待つ」
侍女が目を丸くする。
「ですが……」
「現場を止めない」
「私が出れば、“公爵令嬢が介入した”になる」
言葉は柔らかい。
だが、逃げ道はない。
「回収は伯爵家の領分」
「神殿の者がいるなら――なおさら、私は影にいる」
侍女が、すぐに頷いた。
「承知しました」
クラリスは窓の隙間から、庭へ出る動線を見る。
灯り。
白衣の影。
箱を運ぶ影。
そこに、もう一つ影が混ざる。
白でもない。
黒でもない。
灰の影。
(なぜ灰がいる)
答えは、今ここでは要らない。
要るのは、動きだ。
灰が動くなら、何かを見ている。
見ているなら、何かを掴んでいる。
掴んでいるなら――線は繋がる。
クラリスは窓を閉め、背を預ける。
今日は爪を出さない。
爪を出すのは、回収の“後”。
混ぜものを抜き、運び手を浮かべ、線を一本にする。
白猫は、静かに待った。
夜の回収が終われば、
次は――“誰のための支給”だったのかが見えてくる。




