第163話 境界の祈り
一覧は、夕刻までに揃った。
紙の束は薄い。
薄いのに重い。
“支給品”が入った診療所は、伯爵家の直轄だけではない。
近隣の施療所。
慈善院。
薬師組合の小さな小屋。
そして共通しているのは――“神殿経由”。
クラリスは馬車の中で紙をめくった。
指先は汚さない。
汚さないまま、線だけ拾う。
開封済み:三。
未開封:七。
不明:二。
不明は、現場が忙しすぎて聞けなかったのではない。
“答えたくない”不明だ。
(もう混ざっている)
胸の奥で、境界がざらりと鳴る。
「お嬢様」
御者の声がさらに低くなる。
「伯爵家の屋敷から伝言です。レナート様より――」
クラリスは窓を開けない。
「短く」
御者が復唱する。
「“診療所に白衣が出入りしている。会計の手ではない。薬務の手でもない。……祈祷の手だが、祈りが薄い”」
「“こちらでも同じ匂いを拾った。伯爵家の薬庫に、神殿の封が混じっている”」
混じる。
神殿の中で起きたことが、伯爵家へ伸びている。
“医療を取り込みたい輩”の匂いが、ここで形になる。
クラリスは白猫の笑みを薄く保ったまま、言った。
「分かった。レナートには――“線を越える封は全部控えろ”って返して」
御者が頷く。
クラリスは紙を閉じ、馬車の行き先を変えさせた。
「境界神の礼拝所へ」
御者が一瞬だけ迷い、すぐに礼を整える。
「承知しました」
◇
境界神の礼拝所は、神殿の中心から外れた場所にある。
大きな尖塔もない。
黄金の飾りもない。
石の門柱。
低い壁。
そして――線。
門の内と外で、空気が変わる。
香は薄い。
代わりに、冷たい水と乾いた石の匂いがする。
祈りが“高く”上がる場所ではなく、祈りが“通る”場所だ。
中にいる司祭は、白ではない。
灰でもない。
境界の印を衣の端にだけ刺した、地味な装い。
クラリスが名乗る前に、司祭は目を上げた。
「公爵令嬢」
呼ばれ方が、公的でも私的でもない。
線の内側の呼び方だ。
クラリスは礼を返す。
「確認が欲しいの。祈りが弾かれている」
司祭は驚かない。
驚かずに、ただ言う。
「弾かれるのは、“境界が立っている”時です」
クラリスは眉を動かさず、問いを整えた。
「境界が立つ理由は二つある」
「守るためか、閉じるためか」
司祭が頷く。
「守る境界は、通す線を持つ」
「閉じる境界は、線を持たない。壁になる」
クラリスは息を吸った。
(壁だ)
(通す線がない)
「誰が壁を立てられる」
司祭は一拍置き、古い言葉で答えた。
「秩序(ORDO)が壊れた時、境界(ORD)は立ちます」
「そして、境界を“壁”に変えられるのは――“線を汚す者”です」
線を汚す。
神殿で出た“混ざっている”と同じ感触。
香。
器。
粉。
金属の屑。
クラリスは確認を置いた。
「混ぜれば、境界は壁になる?」
司祭は淡々と頷いた。
「祈りは道を通ります」
「道が汚れれば、祈りは弾かれる」
「弾かれた祈りは、別の道へ流れる」
「流れが変われば、信頼が動く」
クラリスは小さく息を吐いた。
神殿の金を洗うより先に、街が結論を出す――それと同じ。
生存は、最短の道を選ぶ。
「私の祝福が特別だと言われる理由は」
司祭は、初めて視線を強くした。
「あなたの祝福は“境界の内側”にあります」
「治す力ではなく、通す力」
「奇跡を起こすのではなく、奇跡が通る道を守る力」
クラリスは指先を軽く握った。
派手に光らない理由が、ここにある。
戦うためではなく、混ざらせないため。
「やることは決まった」
クラリスは静かに言った。
「壁を壊すんじゃない」
「壁を立てた“混ぜもの”を抜く」
司祭が頷き、短い紙を差し出す。
署名も紋章もない。
ただ、境界の紙質だけが本物を示す。
「線の祈りです」
「道具に触れず、道の方に触れる」
クラリスは受け取る。
文字を読む必要はない。
この紙は“手順”ではなく“方向”だからだ。
◇
礼拝所を出ると、夕闇が落ちていた。
街の咳は止まっていない。
列も、消えていない。
それでもクラリスの胸の中で、線が一本引かれた。
神殿は終わった。
次は街。
次は白。
次は伯爵家の領分。
そして――混ぜものを誰が運んでいるのか。
クラリスは馬車の中で、一覧の紙をもう一度だけ開く。
開封済み三。
未開封七。
不明二。
不明から先に潰す。
白猫の笑みが、薄く戻る。
爪を出すのは、派手な時じゃない。
静かな時だ。
白猫は、境界で息を整えた。
次に跨ぐのは、
“壁”ではなく――壁を立てた手の方だ。




