第161話 境界は、混ざらない
診療所の奥で、クラリスは立ち止まっていた。
人の流れは止まっていない。
薬も、湯も、布も足りない。
それでも――祈りだけが、届かない。
正確には、届く前に削られている。
(弾かれているんじゃない)
(薄くされている)
クラリスは目を閉じた。
祈りの糸を“感じる”。
神殿で感じた鋭い反発とは違う。
もっと鈍く、もっと執拗な違和感。
混ざっている。
善意と管理。
救済と統制。
信仰と金。
それらが、同じ器に流し込まれている。
だから、祈りが通らない。
主神オルド――ORDO。
秩序の神。
秩序は、混ざったものを前提に、形を整える。
ばらつきを均し、揃え、管理する。
だが――
境界神オルド――ORD。
線の神。
区切る神。
混ざる前に、分ける神。
クラリスの祝福は、癒しではない。
加護でもない。
“切り分ける力”だ。
だからこそ、弾かれない。
混ざった祈りを、拒絶できる。
クラリスは目を開け、診療所の一角を見た。
棚の隅。
隔離されたままの、金属箱。
触れない。
触れずとも、分かる。
(祈りの道を汚している)
(原因は、祈り手じゃない)
(道具だ)
神殿が“統一”と呼ぶもの。
現場に流し込まれた、均一な支給品。
それは秩序には向いている。
だが、境界には毒だ。
境界は、均一を嫌う。
差異を消されることを、拒む。
クラリスは、診療台の一つへ歩み寄った。
若い男。
熱に浮かされた目。
すでに神殿の祈祷を受けている。
――だから、弾かれている。
「触れないで」
医師が手を止める。
「香も、器も、このままでいい」
「祈りだけを、分けるわ」
クラリスは手袋を外さなかった。
素手で触れない。
混ざらないために。
境界は、距離だ。
彼女は祈らない。
唱えない。
ただ、“線”を引く。
祈りと器。
器と患者。
患者と神殿。
重なった線を、静かに切る。
その瞬間――
削られていた祈りの糸が、すっと通った。
強くない。
派手でもない。
だが、届いた。
男の呼吸が、ひとつ深くなる。
熱に浮いた目に、焦点が戻る。
医師が息を呑んだ。
「……下がった」
熱が、確かに下がっている。
奇跡ではない。
爆発的な癒しでもない。
ただ、“通った”。
それで十分だった。
クラリスは一歩引く。
線を保ったまま。
「これは治癒じゃないわ」
「道を開けただけ」
医師が、深く頷いた。
現場の者は分かる。
これは再現できる。
器を替えろ、ではない。
祈りを増やせ、でもない。
“混ざらせるな”。
それだけだ。
診療所の外では、列が続いている。
だが、クラリスの目にはもう違って見える。
ここは神殿の領分ではない。
祈りを“混ぜる”者たちの場所でもない。
ここは境界だ。
混ざったものは、切る。
切れば、祈りは届く。
白猫は、静かに爪を研いだ。
次に切るのは――
祈りを汚す“仕組み”そのものだ。
次の獲物は、もう逃げ場を失っている。




