第160話 白の診療所と境界の祈り
神殿の“白”から離れるほど、道は荒れた。
荒れたのは石畳ではない。
人の息だ。
咳。
布越しの呻き。
水桶を引きずる音。
薬湯の匂いが、風に混じって窓から入る。
熱病は、祈りの香より先に街を満たしていた。
クラリスはカーテンの隙間から通りを見た。
奉納箱に硬貨を落とす手より、薬瓶を握る手が増えている。
(信頼が、動く)
神殿の内側で“金”が流れを変えていたなら。
街は、命の方へ流れを変える。
正義ではなく、生存の選択として。
馬車が止まる。
外の音が押し寄せた。
列。
布で口を覆う人々。
顔色の灰。
熱に浮いた目。
列の先に、白い屋根が見えた。
ベルデンベルク伯爵家が街に置く診療所。
王家の白でも、神殿の白でもない。
現場の白。
クラリスは、扉を開けない。
まず“境界”を探った。
視線ではない。
感覚だ。
祈りの糸が、ここへ集まっている。
祈りの糸が、途中で擦れている。
届くはずのものが、薄く削られる感触。
(壁は、ここにもある)
神殿で感じた“弾き”とは違う。
派手ではない。
鈍い。
それでも、意図が匂う。
扉の外のざわめきを背に、クラリスは静かに深呼吸した。
境界神。
線を引く神。
奪うのではない。
分ける。
通す。
止める。
――必要なものだけを。
白猫の笑みを薄く保ったまま、彼女は馬車の扉に手をかける。
だが、降りない。
降りて、列を割って、診療所へ入れば。
“公爵令嬢が現場に介入した”という話が先に立つ。
現場は、政治の舞台ではない。
政治にされれば、止まる。
止まれば、死者が増える。
クラリスは扉を閉め、御者に言った。
「診療所の責任者――医師を呼んで」
「ここへ?」
「ええ。私が中へ入る必要はないわ」
御者が頷き、布で口を覆いながら走っていく。
貴族の馬車が止まっているだけで視線は集まる。
だからこそ、動きは最小でいい。
数刻。
布擦れの音とともに、白衣の男が馬車の脇に現れた。
伯爵家の紋は小さい。
目の下に疲労。
だが目は澄んでいる。
「クラリス様。お呼びと伺い……」
クラリスは礼を欠かさない。
その礼が、線になる。
「現場は忙しいでしょう。短く済ませるわ」
医師が息を呑む。
“短い”は助かる。
現場の者ほど、それを知っている。
「祈りが弾かれる例が増えている、と聞いたの」
医師の眉がわずかに動いた。
「はい。神殿の祈祷を受けた者ほど、弾かれやすい。……皮肉ですが」
「届かない者が、こちらへ流れます。ありがたい、とは言いづらい状況です」
ありがたい。
その言葉の裏に、危険がある。
流れが偏れば、誰かがそれを“敵”と呼ぶ。
伯爵家の医療は、既に線の上に立っている。
クラリスは、馬車の窓越しに“境界”を探る。
診療所の屋根。
入口。
香の匂い。
器の配置。
人の動線。
そして――一箇所だけ、祈りの糸が擦れる。
(あそこ)
「診療所に、“神殿経由の支給品”が入っていない?」
医師の目が揺れた。
「……入っています。『現場の負担を軽くする協力』だと」
「使ってはいません。開封記録も、まだです。忙しくて」
忙しい。
だからこそ、そこを狙われる。
クラリスは白猫の笑みを崩さないまま、声だけを落とした。
「開けないで。隔離して」
「触れるのは二人以上。記録を残して」
医師が即答した。
「承知しました」
クラリスは続ける。
「別の診療所にも回ってる?」
「はい。『統一した支給』だと……」
統一。
線を奪う言葉。
クラリスは内心で息を吐く。
(神殿の火種が、街へ伸びた)
そして、その火種は“祈り”を汚す形で入っている。
汚せば、弾かれる。
弾かれれば、現場は弱る。
弱れば、金と利権が勝つ。
医師が迷うように言った。
「……ですが、こちらは伯爵家の診療所です。神殿が勝手に――」
「勝手に、はしないわ」
クラリスは柔らかく言った。
柔らかいからこそ、鋼だ。
「“協力”の形を取る」
「拒めば“反抗”にされる」
「受ければ“混ざる”」
医師が息を呑む。
クラリスは、境界神の名を口にしない。
信仰は武器だ。
武器はまだ抜かない。
「あなたは現場を守って」
「私は、線を守る」
医師が静かに頷いた。
「……はい」
クラリスは窓の外へ視線を戻す。
列は伸びている。
命は待たない。
ここで彼女が出来るのは、祈りではない。
現場が止まらないように、政治の線を引くこと。
そして――祈りの糸を擦る“壁”の手触りを覚えること。
御者が戻ってきた。
「お嬢様、次はどちらへ」
クラリスは迷わない。
「もう一箇所。別の診療所へ」
馬車が動き出す。
揺れの中で、クラリスは手袋の上から指先を握った。
境界の感覚が、確かに残っている。
神殿の壁は、神殿の外へ続いている。
そして、街の白を折れば――次は伯爵家の領分が燃える。
白猫は、目を細める。
火の粉がどこへ落ちるか。
その風向きを、もう読んでいた。
白猫は笑みを保ったまま、爪を隠した。
次に切るのは、
祈りを弾く“壁”そのものだ。




