第16話 切り崩しは、孤立から始まる
共同施療所の床に残った薬瓶の破片は、朝には片づけられていた。
割れた瓶の形は消える。
でも、“割れた”という噂だけは残る。
それが、相手の狙いだ。
あの場でローワンが殴らなかったこと。
ナイフに触れなかったこと。
ルーカスが位置と手順を残したこと。
警備隊が現場を見たこと。
全部、紙になった。
だから今度は、紙の外で殺しに来る。
お父様が屋敷の執務室で言った。
「次は“孤立”だ」
私は頷いた。
「うん。ロウを一人にしたい」
ルーカスが淡々と補足する。
「現場で潰せないなら、外側から切ります。人間関係と立場を」
「具体的に?」
私が訊くと、ルーカスは紙束を二つに分けた。
「一つは、共同施療所を“危険施設”にする」
「もう一つは、ローワン個人を“問題人物”にする」
お父様が眉を寄せる。
「問題人物にすれば、誰も庇えなくなる」
「そう」
私は境界紙に触れた。
紙は冷たい。
冷たいまま、頭を回す。
「じゃあ、先に“庇える形”を作る」
ルーカスが頷く。
「雇用契約と業務命令書です」
「うん」
私は即答する。
「ロウは“共同施療所の補助”で、業務中は施設の管理下。勝手に動かない。勝手に動かせない」
お父様が短く言う。
「法の檻を先に作るわけだな」
「そう。檻は味方にもなる」
ルーカスが紙を広げた。
「今日中に整えます。署名と押印も」
「お願い」
私は立ち上がった。
「私は現場を見に行く」
お父様が言う。
「一人で行くな」
「分かってる」
私は白猫の微笑のまま頷いた。
「ロウを一人にしない」
共同施療所は、昨日よりも人が多かった。
多いのに静かだ。
静かというより、皆が“見ている”。
治療を受けに来た目ではない。
話を聞きに来た目だ。
入口でレナートが迎えた。
白衣は相変わらず清潔で、襟元に皺ひとつない。
小綺麗なのに、嫌味にならない。
仕事の手つきが、余計な印象を消している。
「来たのか」
「来た」
私は頷く。
「昨日の件、外で何か言われた?」
レナートは視線を外へ投げる。
「言われた。だから治療を進めた」
相変わらず平坦だ。
でもその平坦さが、現場の背骨になる。
奥からローワンが出てきた。
赤毛。小柄。目つきが悪い。
そして、顔色が少し悪い。
怒りを飲んだ顔だ。
「公爵令嬢」
「ロウ。寝た?」
「寝た」
言い方が乱暴で、でも答えは正直だ。
「……変なのが来る」
ローワンが低く言った。
「今朝からずっと。患者のふりして」
レナートが続ける。
「質問が治療じゃない。『あの少年は何者か』『貴族の医者はなぜいる』」
「噂の確認作業だね」
私が言うと、ローワンが頷いた。
「確認したら、次は“切る”」
そのとき、入口の外で足音が止まった。
扉が開く。
警備隊の制服。
でも、いつもの巡回の動きじゃない。
二人が無駄なく入ってくる。
その後ろに、神殿の印章をつけた男がいた。
空気が冷える。
レナートが言った。
「診療中だ」
神殿の男は、丁寧に一礼した。
丁寧だから厄介だ。
「共同施療所に確認に参りました」
「昨日の騒動について」
ルーカスがいない場で来た。
狙いは分かりやすい。
紙がいない場で、空気を取る。
神殿の男が視線を動かす。
まっすぐローワンを見る。
「君だね」
ローワンが眉を上げる。
「俺?」
警備隊の一人が言った。
「昨日、刃物が見つかった」
「所持の疑いがある」
(来た)
昨日、現場で潰したはずの“刃物”が、形を変えて戻ってきた。
私が一歩前へ出る。
「その件は監査局が扱っています」
神殿の男は微笑んだ。
微笑みが、紙を避ける。
「監査局が動く前に、神殿として“保護”する必要があります」
「魔女の関与が疑われる以上、放置できません」
(保護)
便利な言葉だ。
連れて行くための言葉。
ローワンが一歩下がりかける。
私は視線だけで止める。
「ロウ。動かない」
ローワンが小さく舌打ちして、足を止めた。
偉い。
ここで動いたら、“逃亡”になる。
レナートが平坦に言う。
「その少年は僕の補助だ」
神殿の男が肩をすくめる。
「補助であっても、疑いがあるなら調べます」
「神殿の規律に従って」
私が言う。
「疑いの根拠は?」
神殿の男は、用意していたように紙を出した。
「目撃証言」
「この少年が刃物を落とした、と」
私は紙を見て、白猫の微笑のまま首を傾げた。
「署名は?」
「……匿名です」
「匿名なら噂です」
私が淡々と言うと、警備隊の二人が一瞬目を泳がせる。
警備隊は噂より記録が好きだ。
好きじゃなくても、上から怒られる。
神殿の男が言い換える。
「では、こうしましょう。任意同行です」
任意という言葉も便利だ。
拒否した瞬間、“抵抗”に変えられる。
私は息を吸った。
ここで私が感情的に拒否すると、空気を取られる。
だから、紙の形で拒否する。
私は懐から一枚の紙を出した。
まだ乾ききっていないインクの匂い。
ルーカスが今朝、先に走らせていた。
「雇用契約書と業務命令書です」
「ローワンは共同施療所の管理下にあり、無断で連れ出すことはできません」
神殿の男が眉を動かす。
「そんな紙で——」
私は微笑んだ。
「紙です」
「あなたが大好きな、紙です」
空気が一瞬止まる。
レナートが、わずかに目を細めた。
言葉は平坦なまま。
「彼は今、診療補助の業務中だ」
「連れ出すなら、診療妨害だ」
警備隊の一人が小さく息を呑む。
診療妨害は、王宮が嫌う。
神殿の男は、引かない。
引かないふりをする。
「では、こちらも紙を」
神殿の男が封蝋のある文書を出した。
「神殿の調査命令」
「共同施療所の管理に“魔女の疑い”があるため、一時的に神殿が監督する」
(施設ごと取る気だ)
ローワンではなく、共同施療所を切り離す。
そうするとローワンは、守る場所が消える。
汚い手だ。
レナートが、初めて声を低くした。
「僕の施設だ」
神殿の男が微笑む。
「違います。王国の施設です」
「公益は神殿の監督下にある」
言い方が、正しいふりをしている。
私が口を開く前に、外から別の足音がした。
重い足音。
数が多い。
入口がざわつく。
警備隊の別班が入ってくる。
そして、その先頭にルーカスがいた。
「遅れました」
ルーカスの声が入った瞬間、空気の温度が変わる。
紙が来た。
神殿の男が口元だけで笑う。
「監査局も来ましたか」
ルーカスは挨拶を省略した。
「昨日の件、物証と手順はすべて監査局が押さえています」
「匿名証言は採用できない」
「神殿の調査命令も、王宮への届出が先です」
神殿の男が言う。
「神殿の権限を軽んじるのですか」
ルーカスは淡々と返した。
「軽んじません。順番の話です」
「順番を守らない権限は、ただの暴力です」
空気が、神殿側から離れた。
離れたところで、神殿の男が次の刃を出す。
「ならば、ローワン本人に確認しましょう」
神殿の男がローワンを見る。
「君は、自分の意思で神殿に来るか?」
(選ばせるふり)
選ばせた瞬間に、責任を本人に押し付ける。
ローワンの肩がわずかに動く。
怒りがある。
でも、頭も回っている。
ローワンが言った。
「俺は行かねぇ」
神殿の男が、すぐに言う。
「では抵抗と見なす」
ローワンが笑った。
短く、嫌な笑いだ。
「……勝手に見なせよ」
その瞬間、神殿の男の視線が鋭くなる。
ここだ。
ここで“暴力”にする。
私は間に入る。
「ロウ」
声を落とす。
「言葉を使え。拳じゃなくて」
ローワンが一拍置いて、息を吐いた。
そして、言い直した。
「俺は共同施療所の補助だ」
「業務中だ。任意同行は拒否する」
「必要なら、監査局立会いで、ここで聞け」
ローワンの言葉が、紙みたいに固くなる。
レナートが小さく言った。
「よく言った」
神殿の男の笑みが消えた。
一度、引く。
引きながら、刺す。
「分かりました」
「では共同施療所は、監督下に置く」
「本日中に、監督官を派遣します」
神殿の男はそう言い残し、警備隊と共に去っていった。
扉が閉まったあと、施療所の空気がようやく動き出す。
患者の息が戻る。
スタッフが囁く。
噂がまた走る。
私が言った。
「ここからが本番だね」
ルーカスが頷く。
「施設を取られると、ローワンが孤立します」
レナートが平坦に言う。
「僕は引かない」
平坦なのに強い。
強いから、次はそこを折りに来る。
ローワンが舌打ちした。
「俺が狙いなら、俺が囮になりゃ——」
「だめ」
私は即答した。
「囮は“紙”でやる。人でやらない」
ローワンが口を尖らせる。
でも、目は納得していない。
納得していない目は危ない。
だから私は、次の手を先に置く。
「ロウ。今日からしばらく、単独行動は禁止」
「帰りも、買い物も、診療所の外も。必ず二人以上」
ローワンが眉を上げる。
「……俺は弱くねぇ」
「知ってる」
私は白猫の微笑で言う。
「だから狙われる」
ローワンは黙った。
レナートが窓の外を見て、淡々と言った。
「汚い手は、弱いところを狙うんじゃない」
「“弱く見えるところ”を狙う」
私は頷く。
「うん。だから見せ方を変える」
ルーカスが紙束を取り出す。
「王宮へ提出します」
「神殿の監督命令の適法性、手続きの順番、共同施療所の公益性」
「全部、今日中に」
私は境界紙を握った。
冷たい。
燃やさせない。
次は、もっと大きい切り崩しが来る。
ローワンから始まって、施設を削り、最後に私を燃やす。
順番が見えるなら、先に順番を潰す。
私は白猫の微笑のまま言った。
「査問会は終わってない」
「形が変わっただけ」
そしてその夜。
施療所の裏口で、ローワンが短く言った。
「……来た」
闇の中に、誰かの気配がある。
静かで、慣れている。
噂屋じゃない。
“回収”だ。
切り崩しは、もう始まっていた。




