第159話 白猫は境界に爪を立てる
神殿の外は、思ったよりも静かだった。
騒ぎは中に残され、石畳の上には祈りの余韻だけが薄く漂っている。
クラリスは歩きながら、その“薄さ”を確かめるように息を吸った。
――足りない。
祈りが足りないのではない。
届いていない。
神殿の中で感じた違和感が、ここに来てはっきり形を持つ。
祈りは唱えられ、祝福は与えられている。
それでも、どこかで“弾かれている”。
(境界……)
無意識に、その言葉が浮かんだ。
主神オルドの神殿。
秩序と体系、正しさの中心。
けれど、クラリスが立っているのは、いつもその外側だ。
「お嬢様」
控えめな声で呼ばれ、クラリスは足を止めた。
振り返ると、神殿付きの若い司祭が、少し距離を取って立っている。
「境界神の祠へ向かわれるのでしたら、こちらです」
クラリスは微笑んだ。
白猫の、いつもの笑み。
「ありがとう。……ここからは一人で行くわ」
司祭は一瞬だけ迷い、それから深く頭を下げた。
引き止めない。
境界神に仕える者は、踏み込みすぎないことを知っている。
祠は小さかった。
豪奢な祭壇も、大きな香炉もない。
あるのは、古い石と、細い亀裂の走る床だけ。
その亀裂を、クラリスはじっと見つめる。
(線)
(引かれた線じゃない。生まれた線)
世界がきれいに割れなかった、その名残。
秩序と混沌の間。
祈りと現実の間。
クラリスは、そっと手袋を外した。
祝福が、静かに目を覚ます。
熱でも、光でもない。
“境を知る”感覚。
祈りが届かない理由が、少しだけ見えた気がした。
神殿の中で起きていたのは、単なる不正や金の問題ではない。
祈りが届く“前提”そのものが、歪められていた。
(神殿の内側だけの問題じゃない)
(境界が、ズレている)
だから、祈りは弾かれた。
拒絶されたのではなく、迷子になったのだ。
クラリスは、ゆっくりと膝を折る。
祈るためではない。
確かめるために。
境界神は、答えをくれない。
代わりに、選択肢だけを置く。
この先、
神殿に戻るのか。
それとも、医療の現場――伯爵家の領分へ踏み込むのか。
クラリスは小さく息を吐いた。
白猫は、迷わない。
爪を立てる場所を、選ぶだけだ。
立ち上がったその背に、祝福が静かに馴染む。
神殿の外。
祈りの壁の向こう。
境界は、まだ続いている。
◇
祠を出ると、空気が少し重くなった。
神殿の石は同じはずなのに、足音の返りが違う。
祈りの匂いが薄い。
代わりに、薬草の乾いた匂いが、どこかから追いかけてくる。
――熱病の匂いだ。
クラリスは歩きながら、自分の指先を見た。
さっき祠の床に触れた手。
冷たかったはずなのに、今はうっすら熱を持っている。
(境界が、ずれている)
ずれているから、祈りが迷う。
迷うから、弾かれる。
神殿の“内側”で起きていることは、金だけではない。
手順だけでもない。
“壁”そのものが、外へ続いている。
外へ――医療の現場へ。
「……お嬢様」
背後から、控えめな声がした。
振り返ると、先ほどの若い司祭が、少し困った顔で立っている。
距離は保ったまま。
近づきすぎない。
「お時間を取らせるつもりはございません。ただ……」
司祭は言い淀んで、視線を落とした。
「最近、祈祷室の香が変わった、と現場が申しております」
香。
それは、祈りを運ぶ“道具”だ。
道具が変われば、祈りの届き方が変わる。
クラリスは白猫の笑みを薄く戻した。
「誰が変えたの?」
司祭は首を横に振る。
「分かりません。記録は整っております。整いすぎているくらいに」
整いすぎている。
それは、整えた者がいるということ。
「……もうひとつ」
司祭が声を落とす。
「熱病の患者に、祈りが届かない例が増えています。神殿の祈りだけではなく……」
言葉が切れる。
続きは言わなくても分かった。
神殿だけではない。
街の祈りも。
別系統の治療も。
つまり、壁は“信仰の系統”を選ばない。
(外へ続いている)
(医療の境界へ)
クラリスは一拍だけ黙り、質問を変えた。
「現場の者は、どこへ駆け込んでいるの?」
司祭は迷わず答えた。
「伯爵家の医療です」
その言葉は、短いのに重い。
神殿が割れたとき。
祈りが届かないとき。
人は、“効く方”へ流れる。
効く方へ流れれば、金も流れる。
信頼も流れる。
権力も流れる。
そしてそれは――誰かの敵になる。
(伯爵家の医療を、取り込みたい者がいる)
答えではない。
だが、匂いはした。
クラリスは司祭に頷く。
「ありがとう。あなたは、現場を止めないで」
司祭は少しだけ目を見開き、それから深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
司祭が去ったあと、クラリスは歩き出す。
神殿の外門へ向かう道。
途中、白い壁面に埋め込まれた小さな奉納箱が目に入る。
硬貨を落とす音が、ひどく軽い。
(献金が落ちれば、焦る)
焦れば、強引になる。
強引になれば、線を越える。
――境界神は、線を越えた者を見逃さない。
クラリスは外門をくぐり、明るい空の下へ出た。
馬車が待っている。
御者が礼をし、扉を開ける。
中は静かだ。
ここから先は、神殿の論理ではない。
街の論理。
医療の論理。
金の論理。
そして――境界の論理。
クラリスは座席に腰を下ろし、窓の外を一度だけ振り返った。
神殿は白い。
白いまま、どこか黒い。
白猫の笑みは、もう薄くない。
整った笑みのまま、決める。
(次は、医療の方を見に行く)
神殿が触れた“壁”は、神殿の外でこそ形になる。
クラリスは手袋を戻し、指先を一度握った。
境界の感覚が、確かにそこに残っている。
白猫は、境界に爪を立てた。
祈りが弾かれた理由は、まだ答えではない。
けれど――道筋は見えた。
次に燃えるのは、
白ではなく、
“白を支える裏側”だ。




