第158話 白猫とオルド神
神殿を出た空気は、薄い。
薄いのに、重い。
祈りの壁。
あれは、神殿の中だけの話じゃなかった。
「……撤収、ね」
クラリスは馬車の窓から街を見下ろし、白猫の笑みを薄く戻した。
笑みは盾だ。
崩せば、相手が喜ぶ。
神殿の年配者たちも、会計室も、灰の司祭も。
そして――王太子も。
崩れた顔は、彼らの“勝ち”になる。
だから、笑う。
白猫のまま。
◇
「お嬢様」
付き添いの者が声を落とす。
「本当に、こちらへ……?」
「ええ」
クラリスは頷く。
王太子の“命令”ではない。
神殿の“依頼”でもない。
これは――自分の領分。
境界神の領分。
「少し、寄り道をするわ」
馬車が止まる。
人通りの多い大通りから、一本外れた路地。
目立つ門でも、金の飾りでもない。
石造りの小さな祈祷所。
看板には、ただ一行。
――境界。
境界神の名は、華美を嫌う。
線を引く神。
区切る神。
断つ神。
同時に。
“越える”を許す神。
越えるには、条件がいる。
条件が揃わなければ、扉は開かない。
だからこそ、境界だ。
クラリスは降りた。
裾を汚さないように歩くのではない。
汚れたなら、あとで払うだけだ。
線を引く者は、汚れを恐れない。
祈祷所の扉を押すと、香りが変わる。
神殿の香とは違う。
甘くない。
飾らない。
乾いた草と、石と、冷たい水の匂い。
中は静かだ。
静かすぎて、心音がうるさい。
(……ここなら、誤魔化しが効かない)
クラリスはゆっくり息を吐いた。
「境界神オルドよ」
主神と名が似ている。
似ているからこそ、外側からは混同される。
だが、違う。
主神オルドは秩序。
———ORDOは「秩序」を意味する語。
境界神オルドは線。
———ORDは「線」「境界」を意味する語。
いずれも古代語に由来し、かつては文字として用いられていた。
だが現在、それらは文章としては使われていない。
ただ――
神の名にのみ、その形が残っている。
主神と境界は、別の神ではない
同じを持つのは、同じ存在だから
秩序が“世界を回す”なら、線は“世界を切り分ける”。
切り分けなければ、責任は曖昧になる。
曖昧な責任は、熱病を広げる。
今の神殿がそうだ。
祈りが弾かれる。
治療が止まる。
誰も責任を取らない。
だから、線を引く。
クラリスは指輪に触れた。
公爵家の紋。
王家の婚約者。
その立場は、盾にも刃にもなる。
刃として振るうのは、まだ早い。
今は盾でいい。
盾で、時間を稼ぐ。
稼いだ時間で、自分の“境界”を整える。
祈祷所の奥から、足音がした。
神官ではない。
司祭でもない。
もっと静かな歩き方。
布の擦れる音だけが近づく。
現れたのは、年配の女。
白でも灰でもない衣。
ただの布。
ただの人。
それが、境界の祈祷所の“正しさ”だった。
「……お久しゅうございます、白猫さま」
呼び名は揶揄じゃない。
この場では、肩書きではなく“形”で呼ばれる。
クラリスは礼を取る。
貴族の礼ではなく、祈りの礼。
「壁が残りました」
単刀直入。
この場では遠回しは弱い。
「神殿の祈りが弾かれる」
「現場の祈祷が届かない」
「それが、熱病の中で起きている」
女は頷いた。
「届かぬのではなく」
「届かせぬのです」
クラリスの眉が、ほんのわずかに動く。
(意図)
灰の司祭が言った。
“混ざってる”。
ルーカスが追った。
金属筒と白い粉。
封蝋。
鍵。
帳簿。
神殿の金。
だが。
“祈りが弾かれる”のは、金だけでは説明しきれない。
境界の話になる。
「……混ぜた者がいる?」
女は首を横に振る。
否定ではない。
線を引き直す動き。
「混ぜたのは、物かもしれぬ」
「だが、弾くのは――線です」
線。
境界神の領分。
クラリスは静かに問いを置く。
「線を、誰が引いた」
女の目が、少しだけ細くなる。
笑みではない。
警戒でもない。
“条件”を見る目だ。
「貴女が引けます」
「今なら」
クラリスは息を吸った。
「条件は」
女は短く言った。
「名を捨てよ」
クラリスは一拍、止まる。
セレスティナが苗字を捨てた。
属性を捨てた。
だが捨てきれず、歪んだ。
(同じことを、私にしろと言うのか)
女は続ける。
「捨てるのは家名ではない」
「婚約者の名でもない」
「“優しい言い訳”を捨てよ」
優しい言い訳。
王太子がバカだから、と笑って済ませる。
神殿が割れているから、と他人事で済ませる。
熱病だから、と運のせいにする。
それを捨てろ。
線を引くなら、曖昧を捨てろ。
クラリスは、白猫の笑みを消した。
消して、祈った。
「境界神オルド」
「線を、貸して」
祈祷所の空気が、冷える。
冷えるが、怖くない。
怖いのは、曖昧のまま進むことだ。
指輪が、ほんのわずか熱を持つ。
熱。
祈りが届く感触。
(……これが、“境界”)
女が囁く。
「祈りは、届く」
「届かぬのは、遮られている」
「遮りは、壁ではなく――扉です」
扉。
誰かが閉めた扉。
閉めたなら、開ければいい。
開けるためには、鍵がいる。
鍵は、境界の側にある。
クラリスは目を開けた。
「……やれるわね」
女は頷く。
「ただし」
一拍。
「開ける時は、血が出ぬように」
クラリスは小さく息を吐いた。
「紙の上で殴るのは、得意よ」
女が、ほんの少しだけ口角を上げた。
境界の微笑。
「では、白猫さま」
「線を引きなさい」
クラリスは立ち上がる。
祈祷所を出る。
外の空気はまだ薄い。
薄いが、さっきより重くない。
壁は残っている。
だが、壁の“形”が見えた。
形が見えれば、狙って割れる。
白猫の笑みが、戻る。
薄く。
鋭く。
そして――
猫は、爪をしまったまま歩き出す。
次に引くのは、勝ち筋の線だ。
クラリス編スタート。




