第152話 祈祷室の器
祈祷室の前は、静かだった。
静かすぎて、逆に不自然だ。
熱病の名が走り回っている神殿で、ここだけが“整いすぎている”。
整いすぎる場所は、誰かが整えている。
扉の前に立つ神官が、杖の柄を強く握っていた。
年配。
指の節が硬い。
現場の手ではない。
「ここは祈祷の場です」
「香や器物の点検は、後日に――」
ルーカスは立ち止まり、礼式のまま頭を下げる。
角度は綺麗で、完璧で、だからこそ怖い。
「確認いたします」
丁寧な声。
だが、逃げ道は塞ぐ。
「祈りが弾かれた件は、現場の生命線です」
「後日に回した結果、死人が増えれば、記録上の責任は“回した者”に残ります」
年配神官の喉が鳴った。
“残る”が嫌いな顔だ。
「……立会いを」
ルーカスは頷いた。
「二名、お願いいたします」
「触れるのは神殿側で」
「私は“記録”に徹します」
若い神官が二人、呼ばれた。
祈祷室の扉が開く。
中は白い。
白いが、清い匂いがしない。
祈りの香の匂いが、薄い。
代わりに、金属の冷えた匂いがある。
祭壇。
香炉。
器。
水盤。
そして――壁際の器具棚。
ルーカスはまず、香炉を見た。
次に水盤。
次に、棚の下。
下に落ちているはずの灰が、ない。
掃除しすぎている。
(整いすぎ)
灰の司祭が、後ろで小さく息を吐く。
笑いそうな気配だけ。
「……綺麗」
「綺麗すぎる」
年配神官が反射で言い返す。
「祈祷室は清浄であるべきだ」
ルーカスは否定しない。
否定せずに、線を引く。
「清浄であるべきです」
「ただし、清浄のための手順があります」
「清掃記録。器物点検簿。香の入替記録」
一拍。
「揃っていますか」
年配神官が口を閉じる。
揃っていない。
揃っていれば、先に出している。
若い神官が、小さな声で言った。
「……点検簿は、会計室が持って行きました」
会計室。
また出る。
ルーカスは顔色を変えない。
変えないまま、丁寧に確認を置く。
「いつ、誰が、どの理由で」
若い神官が目を伏せる。
「三日前です。“異物混入の疑い”で……」
年配神官が咳払いをした。
「神殿を守るためだ」
ルーカスは礼式のまま、淡々と言う。
「神殿を守るなら、なおさら記録が必要です」
「疑いで持ち出した場合、持ち出した側が“管理責任”を引き継ぎます」
年配神官の頬が引きつる。
引きつるが、反論できない。
規定がそうだから。
ルーカスは視線で、祭壇の器を指した。
「では、現在使用中の器物を確認いたします」
「香炉と水盤」
「封は、誰が開けましたか」
年配神官が答える。
「私だ」
「立会いは」
「……ここは祈祷室だ」
ルーカスは頷く。
頷いたまま、逃げ道を狭める。
「祈祷室でも、器物の封は封です」
「封を破った者は、封の外の責任も負います」
年配神官の唇が動く。
言い返したい。
だが、言い返せば“破った”が確定する。
ルーカスは次の問いへ進む。
「祈りが弾かれた際、香炉と水盤は同じ器でしたか」
若い神官が答える。
「はい。いつも通りです」
「いつも通り、という言葉は危険です」
ルーカスは丁寧に言う。
「いつも通りなら、なぜ今回だけ弾かれるのか」
「変わったのは“祈り手”ですか」
「香ですか」
「器ですか」
灰の司祭が、壁際の器具棚を眺めたまま呟く。
「器って」
「触られると、変わりますよね」
年配神官が睨む。
「冒涜だ」
灰の司祭は笑わない。
笑わずに、淡々と返す。
「冒涜じゃないです」
「……現象です」
ルーカスは司祭を見ない。
見ないまま、言葉を整える。
「器物の内側に、異物が付着していないか確認します」
「表面の汚れではなく、香が焦げ付く箇所と、水盤の縁」
「触れるのは神殿側で」
若い神官が香炉を持ち上げた。
その瞬間、灰がほんの少しだけ落ちる。
落ちた灰が、白い床に点になる。
ルーカスは、そこを見た。
灰が黒い。
黒い灰は普通だ。
だが――混ざっている。
灰の粒の中に、微かな銀色がある。
光る。
粉ではない。
金属の屑。
(香じゃない)
(器の屑でもない)
若い神官が、指で触れかけて止まる。
触れれば証拠が壊れる。
ルーカスが、すぐに声を落とす。
「触れないでください」
「現状のまま、記録します」
紙に一行。
――香炉下部灰に微細な銀色粒子混入。床面に落下確認。
年配神官の顔が青くなる。
「そんな……」
ルーカスは、そこで結論を言わない。
結論は刃物になる。
刃物は、必要なときに抜く。
ただ、確認だけを置く。
「祈祷室の器具棚」
「最後に開けたのは、誰ですか」
年配神官が、答えない。
答えられない。
灰の司祭が、扉の枠を眺めたまま呟いた。
「鍵、また出ますね」
ルーカスは礼式のまま、棚を指す。
「開けてください」
年配神官の指が、震えながら鍵に伸びた。
祈祷室の“壁”の手触りが、いま露出する。
次の記録が、ここから始まる。




