第150話 香の道
祈祷室の外に出た瞬間、空気が少し冷えた。
冷えるのに、胸の奥は熱い。
熱いのに、顔には出さない。
ルーカスは、いつも通り礼式のまま歩いた。
「まず、香です」
誰に言うでもなく、言葉を置く。
言葉を置けば、順番が決まる。
順番が決まれば、逃げ道が減る。
灰の司祭が後ろから、ぼそりと言う。
「香って、便利ですよね」
「祈りと同じで、目に見えない」
「目に見えないものほど、帳面が必要です」
丁寧に返すと、司祭は軽く息を吐いた。
笑いそうな気配だけ。
◇
香の保管室は、祈祷室よりも地味だった。
祈りの香ではなく、紙の香がする。
棚。
木箱。
封。
そして、配布記録。
扉の前で、若い神官が慌てて礼をした。
「監査官殿……こちらです」
ルーカスは頷き、まず室内の端から端までを見渡した。
見るだけで、だいたい分かることがある。
この部屋は整理されている。
整理されている部屋は、“誰かが管理している”。
管理は善でも悪でもない。
ただ――意図がある。
「確認いたします。香の配布は、どなたの承認で行われていますか」
若い神官が即答する。
「薬務担当です。会計室ではありません」
「承知しました。では、薬務担当の配布記録を」
机に帳面が置かれる。
綺麗すぎる字。
綺麗すぎる帳面は、読みやすい。
読みやすい帳面は、嘘も混ぜやすい。
ルーカスは責めない。
責めずに、別の角度から切る。
「現物を確認いたします」
若い神官が目を瞬いた。
現物。
帳面より怖い言葉。
ルーカスは棚の端を指す。
「祈祷室へ配布された香――直近三日分」
「同じ箱から取ったものを、ここで量ってください」
「……量る、ですか」
「はい。帳面の数字と、現物の減りが一致するかの確認です」
丁寧に言う。
丁寧に言うほど、逃げ道がなくなる。
若い神官が箱を運ぶ。
封は崩れていない。
だが蝋の厚みが、わずかに違う。
灰の司祭が、箱の縁を見てぼそりと言った。
「蝋、薄いですね」
ルーカスは司祭を見ない。
見ないまま、言葉だけを返す。
「“薄い”は、触れた証拠になり得ます」
若い神官が秤を出す。
古い天秤。
神殿の備品。
重りには刻印。
この刻印がある限り、秤は神殿の責任になる。
一箱目。
重りを乗せる。
針が揺れる。
揺れて、止まる。
若い神官が帳面を開き、読み上げる。
「この箱は、三日で……この分だけ減っているはずです」
針は、合わない。
ほんの僅か。
だが僅かが怖い。
香は軽い。
軽いから、僅かで十分に混ざる。
「……合いません」
若い神官の声が乾いた。
ルーカスは頷く。
頷いたまま、問いを変える。
次の扉を開ける問いに。
「この香は、どこで調合されましたか」
「調合室です」
「調合室への出入り記録は」
若い神官が言い淀む。
「……ありますが、薬務担当の管理で……」
「承知しました」
承知した、で終わらせない。
承知した、から始める。
「薬務担当を呼んでください」
「それと、祈祷室の器物台帳の担当も」
「香と器が別に管理されているなら、どこかで“混ざる”場所が必ず出ます」
若い神官が走る。
走り出せば、もう止まらない。
灰の司祭が、後ろで小さく言った。
「走らせるの、上手いですね」
「手順で走らせています」
「人じゃなくて」
「はい」
◇
薬務担当が来たのは早かった。
若い。
実務派の顔だ。
疲れているが、目は死んでいない。
「監査官殿。お呼びと聞きましたが……」
ルーカスは礼式のまま、丁寧に言った。
「恐れながら、香の配布記録と現物重量に差異が出ました」
「誤差の範囲か、混入の可能性か、確認いたします」
薬務担当の眉が動く。
誤差と混入。
選べと言われている。
「……混入など、あるはずが」
ルーカスは否定しない。
否定せずに、逃げ道を塞ぐ。
「あるはずがない、なら証明できます」
「調合室の配合記録」
「原材料の入庫」
「調合後の封の立会い」
「そして、祈祷室へ運んだ者の記録」
薬務担当が息を呑む。
「そこまで……」
「熱病が広がっておりますので」
丁寧に言う。
だが、その丁寧さは壁だ。
薬務担当は唇を噛み、頷いた。
「……分かりました。調合室を開けます」
灰の司祭が、面白がっている気配だけで呟く。
「開けるって」
「怖いですよね」
薬務担当が振り向きかける。
だが、誰も司祭を見ない。
見れば、そこで場が乱れる。
乱れは記録になるが、今はまだ早い。
ルーカスは、秤の横に帳面を置き、淡々と書き足す。
――香、現物重量差異あり。薬務担当、調合室開示に同意。
それだけで、逃げ道が消える。
◇
調合室へ向かう廊下。
祈祷室とは違う匂いがする。
甘さがない。
土と粉と、乾いた葉の匂い。
ルーカスは歩きながら、一度だけ思う。
(混ざっているなら、意図だ)
(意図なら、誰かが得をする)
得をする者は、必ず“線”を引く。
線を引いた場所に、責任が集まる。
灰の司祭が、隣でぼそりと言った。
「混ぜ方、二つありますよ」
「伺います」
「ひとつは、香に混ぜる」
「もうひとつは、器に塗る」
ルーカスは頷いた。
「どちらも、祈りは弾かれます」
「そう」
司祭の声が、少しだけ低くなる。
軽さが抜ける。
「弾かれるのは」
「祈りが弱いからじゃない」
「……壁があるから」
壁。
王が言った“壁”。
ルーカスは礼式のまま、淡々と言う。
「壁の材料を確定します」
調合室の扉の前で、薬務担当が鍵を回した。
鍵が回る音がした。
神殿の“祈り”の中身が、いま開く。
そして――
扉が開く前に、ルーカスの頭の中で一つの線が繋がった。
香は目に見えない。
目に見えないものは、信じるしかなくなる。
信じるしかない場所ほど、金は動く。
だからこそ、ここだ。
ここに、混ぜた手がいる。
扉が、ゆっくりと開いた。




