第145話 焼却室
地下の扉の前で、ルーカスは一度だけ呼吸を整えた。
湿った石の匂い。
焦げた紙の匂い。
そして――蝋の匂い。
焼却室の匂いだ。
「使用していない」はずの場所の匂いだ。
ルーカスはノックをしない。
礼式のまま、しかし確かな力で扉を押した。
蝶番が鳴る。
重い音。
中は薄暗い。
炉の口がひとつ。
その前に、紙束が積まれている。
焦げた端。
まだ燃え切っていない。
そこにいたのは、神官ではない。
会計役だ。
袖口が綺麗すぎる。
薬草にも、血にも触れていない袖口。
会計役が振り向いた。
一瞬だけ、目が泳ぐ。
すぐに“会計の顔”に戻る。
「……何の用です」
ルーカスは礼式のまま頭を下げる。
完璧な角度。
完璧な無表情。
「宮廷監査局、特任監査官のルーカスです」
「焼却室の使用について、確認に参りました」
会計役が鼻で笑った。
「神殿の内部です」
「あなた方に――」
クラリスが一歩、前に出る。
白猫の笑顔はない。
礼だけがある。
「内部だからこそ、規定が必要よ」
会計役の目がクラリスに移り、わずかに眇められる。
公爵令嬢。
厄介な肩書き。
だが、ここは神殿。
自分の城だと信じている目。
灰の司祭は壁にもたれ、炉の口を眺めていた。
目元の隈が、灯りを吸う。
「……燃やす前に、確認すれば良かったのに」
会計役が苛立ったように言う。
「確認のために廃棄しているのです」
「証拠の保全です」
ルーカスは否定しない。
否定せずに、問う。
「“廃棄記録”をお示しください」
会計役が黙った。
黙ったまま、紙束に手を置く。
守る動き。
ルーカスは淡々と続ける。
「廃棄は立会いが必要です」
「立会いは、どなたでしたか」
会計役が言う。
「必要ありません。会計室の裁量です」
ルーカスは首を振らない。
声だけを丁寧に落とす。
「神殿の規定は“裁量”ではありません」
「規定です」
一拍。
「規定を破って廃棄した場合」
「それは廃棄ではなく、隠匿です」
会計役の口角が歪む。
反論を探している顔。
探しても、ここは焼却室だ。
焦げた匂いが先に喋っている。
クラリスが炉の前の紙束を見た。
焼けた端に、薄い赤の印。
「封蝋……」
ルーカスの視線が落ちる。
焼け残った刻印。
神殿の印ではない。
会計室の小さな刻印。
――封をしたのは、会計室。
ルーカスは言葉を選ばない。
選ばずに、丁寧に告げる。
「薬草庫の封を崩し」
「配分の“本来案”を握り」
「廃棄の名目で焼却室に運び込んだ」
会計役が声を荒げかける。
「推測だ!」
灰の司祭が小さく息を吐いた。
笑いそうな気配だけ。
「推測じゃないですよ」
「匂いが、証拠です」
会計役が灰の司祭を睨む。
「司祭は黙って祈っていればいい」
灰の司祭は目を上げない。
上げないまま、淡々と言う。
「祈りは、燃えません」
「紙は、燃えます」
「だから、祈りより先に、紙を守るんでしょう?」
会計役の顔が赤くなる。
図星の赤。
ルーカスが前に出た。
炉から、紙束を一枚だけ引いた。
燃え残り。
端に署名欄。
署名はない。
だが、書式が違う。
配分室の書式ではない。
会計室の書式だ。
「……“本来案”は、会計室で作られていますね」
会計役が硬い声で言う。
「会計が配分の整合を取るのは当然です」
ルーカスは頷く。
頷いたまま、刃を置く。
「当然です」
「ならば、なぜ隠すのですか」
会計役の唇が震えた。
隠していないと言えない。
廃棄と言うには記録がない。
沈黙が落ちる。
炉の中で、紙がぱち、と鳴った。
クラリスが静かに言う。
「熱病で人が死ぬ」
「そのとき、あなたは“帳簿が守れた”と喜ぶのかしら」
会計役が歯を食いしばる。
「現場が勝手に薬草を動かすから――」
ルーカスが遮らずに受ける。
受けて、返す。
「だから記録が必要なのです」
「記録がないから、“勝手”が生まれる」
「勝手が生まれるから、締め付けが起きる」
一拍。
「締め付けが起きるから、熱病が広がる」
会計役の瞳が揺れた。
言い訳が崩れる揺れ。
ルーカスは紙束を炉の前に戻した。
燃やさせない位置に。
「焼却を中止してください」
「この紙は、いまこの場で保全します」
会計役が低く言う。
「……神殿の紙だ」
ルーカスは礼式のまま、丁寧に言った。
「神殿の紙です」
「だからこそ、神殿の規定で守ります」
扉の外で、足音が増えた。
誰かが聞きつけた。
会計室の者か。
年配神官か。
火種は、集まり始める。
ルーカスは炉の前から目を逸らさず、淡々と言う。
「――では、会計室へ戻りましょう」
「今度は、あなたの口で“公式に”説明していただきます」
会計役が、紙束に手を伸ばした。
伸ばして――止まった。
止まったのは、クラリスが紙束の前に立ったからだ。
白猫の笑顔が、薄く戻る。
笑顔なのに、冷たい。
「触らないで」
「証拠だから」
会計役の指が引っ込む。
灰の司祭が、炉を見たまま呟いた。
「火って、便利ですね」
「でも、火は――嘘を食べると臭くなる」
臭いのは、もう十分だった。
ルーカスが踵を返す。
「行きましょう」
焼却室の外へ。
廊下へ。
会計室へ。
次は、紙の上ではなく――人の口を、記録に落とす番だ。




