第144話 “本来案”の所在
配分室を出ると、廊下の喧騒が一段と濃くなった。
祈りの声。
走る足音。
熱に浮かされた呻き。
そして、乾いた紙の音。
――紙の音だけが、嘘をつかない。
ルーカスは封筒を片手に、次の扉へ向かった。
配分室が“本来の配分案”を持っていないなら、持っているのは一つしかない。
会計室。
もしくは、その手前。
「紙が消えるときは、いつも“通り道”にいる者がいる」
廊下の途中、細い回廊に差しかかる。
神殿の中でも古い区域だ。
壁の石が黒ずみ、灯りが弱い。
ここは、人が急ぐ場所ではない。
だからこそ――すれ違いが目立つ。
前方から来た神官が、一度だけ視線を逸らした。
顔を覚えていない。
若くもない。
年配でもない。
中間。
“現場”の匂いがない。
祈りの香も薄い。
代わりに、紙と蝋と金属の匂い。
(会計側の人間だ)
ルーカスは歩みを変えない。
変えずに、声だけを丁寧に投げる。
「恐れ入ります。少々よろしいですか」
神官が足を止める。
止めたが、逃げる準備をしている。
肩の角度がそう言っている。
「……何でしょう」
ルーカスは礼式のまま頭を下げる。
角度は完璧で、だからこそ圧になる。
「配分表の原本を確認いたしました」
「“本来の配分案”の所在を伺います」
神官の瞳がわずかに揺れた。
“存在”を否定できない揺れ。
「そんなものは――」
「“ない”と仰るなら、記録に残します」
丁寧に、逃げ道を閉める。
「ただし、その場合」
一拍。
「配分表の書き直し痕が説明できなくなります」
神官の唇が薄くなる。
「……私は配分係ではありません」
ルーカスは頷く。
「承知しました。では、運搬係ですか」
言った瞬間、神官の喉が鳴った。
当てた。
運ぶ者は、内容を知らないふりができる。
だが、運んだ事実は残る。
ルーカスは淡々と言う。
「どこへ運びましたか」
神官は黙る。
黙ったまま、視線だけが左へ流れる。
左には、細い階段がある。
上ではない。
下だ。
神殿の地下へ降りる階段。
クラリスが小さく息を吐く。
白猫の笑顔はない。
ただ、目が鋭い。
「地下に帳面?」
灰の司祭が、ぽつりと言った。
「……燃やすのに、便利です」
神官の肩がわずかに跳ねる。
ルーカスはその跳ねを見て、結論を置いた。
「焼却室ですね」
神官が、かすれた声で言う。
「……ただの廃棄です。古い紙は――」
ルーカスは遮らない。
遮らず、丁寧に積む。
「廃棄の手順を確認いたします」
「廃棄は、立会いと記録が必要です」
一拍。
「立会いは、どなたでしたか」
神官が黙った。
黙ったまま、手が袖の中で動く。
何かを握り直した。
(鍵)
鍵を握る者は、いつも同じだ。
ルーカスは優しくはない声で、優しく言った。
「廃棄記録がない場合、廃棄は“隠匿”と同義です」
神官の目が細くなる。
反抗ではない。
諦めに近い。
「……会計室が」
ルーカスは頷いた。
やはり、会計室。
「会計室が、廃棄を命じた」
「あなたは運搬した」
神官は口を閉ざす。
閉ざしても、もう足りる。
ルーカスは踵を返し、地下階段の前に立った。
「では、焼却室へ伺います」
神官が慌てて言う。
「今は使用していません!」
“今は”という言葉が、全てだ。
ルーカスは礼式のまま頷いた。
「承知しました」
承知するのは、“使用していない”ことではない。
“使用していた”ことだ。
クラリスが低く言う。
「急ぎましょう。紙は燃えるのが早いわ」
灰の司祭が、面白がる気配のまま続けた。
「燃えるのは紙ですけど」
「燃やした人の手順も、燃えますよね」
ルーカスは階段を下り始める。
灯りが弱くなる。
空気が湿る。
そして――匂いが変わる。
焦げ。
古い紙の焦げ。
使っていないはずの焼却室から、確かに漂う匂いだ。
ルーカスは一段、足を止めた。
止めて、丁寧に言う。
「……間に合いますね」
間に合うのは、紙ではない。
“記録”が燃え切る前に、火元へ辿り着ける。
それだけで、十分だ。
階段の下。
重い扉。
その向こうから、紙を束ねる音がした。
――“本来案”は、そこにある。




