第141話 管轄
会計室の者は、二人だった。
一人は帳簿を抱え。
もう一人は、空の手で歩いている。
空の手の方が怖い。
何も持っていないのに、命令だけを持っている顔だ。
「配分室は会計室の管轄です」
「勝手な照合は認められません」
ルーカスは礼式のまま、頭を下げた。
下げて――そのまま、言葉で首を締める。
「承知しました」
「では確認いたします」
一拍。
「“管轄”であるなら、会計室が責任を負います」
「配分停止と特別搬出が、熱病対応として適正だったことを、根拠文書で示してください」
空の手の男が眉をひそめる。
「根拠は、神殿内の判断です」
「“判断”は、根拠ではありません」
丁寧な声のまま、鋼だった。
「指示番号、台帳番号、決裁者名、受領印管理、立会い記録」
「それらが揃って初めて、判断が手続になります」
帳簿を抱えた男が、わずかに視線を逸らした。
この場で“揃っていない”のは、もう見えている。
クラリスが、白猫の笑みのまま言う。
「適正なら、出せるわよね」
「出せないなら、適正じゃないだけ」
空の手の男が、口角だけを上げる。
「貴女は神殿の者ではない」
クラリスは、笑顔のまま首を傾げた。
「ええ。だからこそ、遠慮なく言えるの」
ルーカスが会話を戻す。
戻しながら、逃げ道を塞ぐ。
「配分室から確認できた伝票があります」
「昨日付、“特別搬出”」
「宛先は祈祷棟」
「受領印が、登録印と一致しません」
帳簿の男が、硬くなる。
空の手の男が、即座に返す。
「印影の差異など、現場の押し方で――」
「登録印の印影は、押し方で変わりません」
ルーカスは淡々と言う。
「変わるのは、印そのものです」
一拍。
「会計室が“管轄”なら、登録印をここへ持参してください」
「照合します」
「照合を拒否するなら、拒否の理由を文書にしてください」
空の手の男が、笑みを消す。
「印は、機密です」
「機密は、手続きの免罪符ではありません」
ルーカスの声は、丁寧なまま冷えた。
「むしろ機密であるなら、管理責任が重くなります」
灰の司祭が、背後で静かに言う。
「重いものほど、落とすと音がしますよね」
誰も笑わない。
笑えない。
空の手の男が、一歩だけ前に出る。
威圧の距離。
だがルーカスは、一歩も動かない。
「宮廷監査局が、神殿に口を挟む権限は――」
「あります」
ルーカスは遮らない。
遮らず、正確に刺す。
「依頼がある限り」
「熱病対応の停滞について、神殿上層が依頼した」
「その依頼の範囲は、“現場が止まった理由の確認”です」
一拍。
「現場が止まった理由が会計室であるなら、会計室を確認します」
「理由が配分室であるなら、配分室を確認します」
「――管轄を盾にするなら、その盾ごと確認します」
帳簿の男が、小さく唾を飲んだ。
盾の裏側は、見られたくない。
クラリスが、軽く息を吐く。
「ねえ、会計室の方」
「熱病が広がったら、誰が責任を取るの?」
空の手の男が言う。
「神殿は……組織です」
クラリスが微笑む。
「組織って便利ね」
「誰も責任を取らないための言葉だもの」
空の手の男の頬が引きつる。
ルーカスは最後に、もう一段、丁寧に落とした。
「こちらは争いに来たのではありません」
「止まった供給を動かし、死者を減らし、神殿の信頼を守るために来ています」
「そのために必要なのは、記録です」
一拍。
「登録印を出してください」
「出せないなら、決裁者を出してください」
「出せないなら――」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「“出せない理由”を、出してください」
空の手の男が、沈黙した。
帳簿の男が、抱えた紙束をぎゅっと握る。
その沈黙の中で。
配分室の奥から、別の声が上がった。
「……決裁者は、ここには来ません」
振り向く。
配分室の神官が、青い顔のまま続ける。
「会計室の“上”です」
「神殿の……評議会の側です」
空気が変わる。
ルーカスは、礼式のまま頷いた。
「承知しました」
そして、丁寧に言う。
「では、次は“上”へ伺います」
会計室の男たちが、一瞬だけ焦った。
焦りは、手順を崩す。
崩れた手順は、記録になる。
ルーカスは扉を背に、落ち着いた声で告げた。
「評議会へ案内してください」
「拒否するなら、拒否の文書を」
灰の司祭が、誰にも聞こえない程度に呟く。
「上に行くと、面白くなりますね」
――その言葉通り。
廊下の先で、何かが動き出す気配がした。




