第139話 日没まで
会計室の扉が閉まる。
閉まった音より先に、廊下の空気が動いた。
誰かが、走り出した。
「……今の、刺さりましたね」
灰の司祭が、他人事みたいに言う。
目元の隈だけが、妙に生きている。
ルーカスは歩きながら答えた。
丁寧に。
「刺さったのは、献金です」
「“関係ない”と言い切った時点で、関係がある」
クラリスは横に並ぶ。
白猫の笑顔は薄い。
薄いが、鋭い。
「日没まで、って言ったのは正解ね」
「逃げる時間を与えた分、動くものが出る」
「はい」
ルーカスは頷く。
逃げ道を塞ぐ前に、走らせる。
走れば、粗が出る。
粗は、記録になる。
◇
廊下の角。
セレスティナが、先回りするように立っていた。
白い影。
柔らかな金髪。
光を受ければ、ほんのり薄い花色が混ざる。
――あの髪は、見る者に“守りたい”を起こさせる。
起こさせるように、作られている。
「監査官さま」
甘い声。
泉みたいに澄んでいるのに、冷たい。
「会計室に、あまり強く当たらないでください」
「熱病で現場が荒れているのは、事実ですもの」
ルーカスは礼式のまま、視線を合わせない。
合わせれば、相手の土俵だ。
「承知しております」
丁寧に受ける。
受けて、逃げ道を塞ぐ。
「ですからこそ、供給停止の根拠を確認いたします」
「根拠があれば、誰も困りません」
セレスティナの笑みが、ほんの僅かだけ硬くなる。
「神殿は、神殿のやり方が――」
「神殿のやり方を守るために、規定を確認しています」
ルーカスの声は変わらない。
「規定が守られていない状態が続けば、神殿が傷つきます」
“神殿が傷つく”
その言葉は、聖女に効く。
信仰ではない。
立場に効く。
セレスティナは一拍置き、柔らかく言った。
「……では、私も動きます」
動く。
それは、宣言だった。
クラリスが、微笑まないまま礼をする。
「どうぞ。調整役としてなら」
セレスティナの瞳が、薄く細くなる。
その細さは、笑みではない。
◇
ルーカスは、廊下を曲がり、薬草庫へ戻る。
現場側の動きも確認するためだ。
供給が再開したか。
誰が止めようとしていないか。
止めようとすれば、それもまた――記録になる。
薬草庫の前には、若い神官が二人立っていた。
顔が青い。
「……監査官さま」
「配分室が……来ました」
「配分室」
ルーカスは、声に出さずに頷いた。
会計室と現場の間。
金と物の中継。
そこが動くなら、会計室は追い詰められている。
「誰が来ましたか」
「会計室の者です。“特別搬出”の確認だと」
「立会いは」
「……今、呼びに行かせています」
若い神官の声が震える。
怖いのは、会計ではない。
責任だ。
責任は、弱いところに落ちる。
ルーカスは礼式のまま、淡々と告げた。
「立会いが揃うまで、封は崩さないでください」
「指示があっても、動かない」
「動いた者が、責任者になります」
若い神官が、必死に頷く。
クラリスが小さく息を吐いた。
「これで、現場は守れる」
「一時的には」
ルーカスは短く答えた。
「日没までに、どちらが“書けるか”です」
灰の司祭が、ぼそりと混ぜる。
「書ける人間は、嘘も書ける」
ルーカスは否定しない。
「だから、嘘が書きにくい形にします」
◇
廊下の先で、紙束を抱えた神官が走る。
逆方向から、別の神官が走る。
互いに目を合わせない。
目を合わせれば、陣営がバレる。
ルーカスは歩きながら、頭の中で“今日の勝ち筋”を並べた。
一、供給停止の解除は維持する。
二、配分室の受領印の欠落を押さえる。
三、特別出庫の根拠文書を“出させる”か、“出せない”ことを記録する。
ここまで揃えば、金の派閥は言い訳を失う。
現場の派閥は、息ができる。
そして――。
この揉め事の裏にいる“王家に近い影”が、焦る。
焦れば、手が出る。
手が出れば、記録が残る。
ルーカスは足を止めずに、クラリスへ言った。
「日没まで、こちらは動き続けます」
「クラリス殿は、現場側の若手に“規定どおりに守らせて”ください」
クラリスが頷く。
「得意分野ね」
白猫の笑顔が、ほんの少しだけ戻る。
灰の司祭が、面白くもなさそうに言った。
「……聖女も動きますよ」
「ええ」
ルーカスは淡々と答える。
「動かせます」
動けば、粗が出る。
粗は、記録になる。
ルーカスは廊下の突き当たりを見た。
配分室へ続く道。
そこに、次の火種がある。
日没まで。
それは、猶予ではない。
締切だ。
逃げる者を――追い込むための。




