第11話 火と硝子と、医師レナート
火は、外壁に舌を這わせるように走っていた。
偶然の延焼じゃない。投げ込まれた火だ。
私が踏み出しかけた瞬間、ルーカスが袖を掴む。
「順番です」
「……わかった」
火を見ない。
火が作る“物語”を見る。
『公爵家の施療所が燃えた』
『支援は嘘だった』
『子どもが傷ついた』
——この形を狙っている。
入口からレナートが出てくる。
眠そうな顔のまま、声は平坦。
「火を消す前に、人を出せ」
「水桶は二列。入口は塞ぐな。煙を吸った子は奥へ」
指示が飛ぶ。現場が動く。
背後で赤毛の少年が吐き捨てる。
「……やり方が汚ねぇ」
少年——ローワン、ロウと呼ばれる少年が半歩外へ出た瞬間、また音が弾けた。
ぱしゃん。
「危ない!」
ロウの腕に赤い線が走り、血が落ちる。浅いが確かに切れている。
近くの助手が叫んだ。
「レナート先生!」
レナートは迷いなく詰め、ロウを内側へ引き戻した。
「ロウ、動くな」
布で押さえ、止血し、包帯を巻く。
手が速い。言葉は少ない。
「深くない。縫わない。動かすな」
ロウが不機嫌そうに唇を尖らせる。
「大丈夫だって——」
「黙って座れ」
その言い方は冷たい。
だが“優先順位”がはっきり見えた。
外で火が煽られ、また音が弾ける。
ぱしゃん。
レナートの声が、初めて鋭くなる。
「ローワン。中だ」
本名で呼ばれ、ロウの足が止まる。
「……分かったよ」
悪態をつきながら、従う。
包帯を巻かれた手を見つめ、ぽつりと言った。
「……怪我させやがって」
怒鳴らない。
静かに敵を見る声だった。
「これ、事故じゃねぇ」
ロウが続ける。
「火ぃ投げて騒がせて、“見た”を作る。
後から“先に悪いことしたのはこっち”って言う。いつもの手だ」
ルーカスが低く息を吐いた。
「……現場の手口ですね」
レナートが外壁の焦げ方と足元の匂いを一度だけ確かめる。
「油。外から投げ込み。……火事じゃない」
眠そうな声のまま断言した。
「事件だ」
空気が変わる。
事故ではなく犯行。噂ではなく記録。
ルーカスが即座に動く。
「現場保存。物証回収。証言は“名前つき”で取ります」
私は執事長へ指示する。
「入口に縄を。見物人を近づけないで。水桶列にも記録係を一人」
「承知しました!」
火は広がりきる前に抑えられた。
外壁の一部が焼けただけで済む。
だが狙いは火ではない。物語だ。
案の定、見物人の中から声が上がる。
「ほら見ろ! 公爵家の施療所が燃えた!」
「魔女が——!」
私は白猫の微笑を作り、ゆっくり振り返った。
「今の発言、証言として残します」
ルーカスが紙を出す。
「氏名を。どこで何を見たか。証言として記録します」
男が一瞬たじろぐ。
「な、なんだよ……!」
「ただの“見た”なら書けます。書けないなら噂です」
周囲がざわつく。
噂は、署名と名前を嫌う。
責任が生まれるからだ。
レナートが淡々と追い打ちをかける。
「投げ込みだ。内部過失ではない。ここで騒ぐ前に、通報しろ」
ルーカスが頷く。
「警備隊へ通報。目撃者の切り分け。物証の封印」
私は袖の中で境界紙に触れた。
熱が返る。
(第二波は、ここで折る)
そのとき、ロウが包帯を巻かれた手のまま、低く言った。
「……犯人、見物してる。絶対だ」
「どうしてそう思うの?」
私が訊くと、ロウは短く答えた。
「こういうのは、次がある。
次は“責任の押し付け”だ。
施療所の薬とか、帳簿とか、寄付とか。汚してくる」
レナートが一拍おいて言う。
「当たり。だから薬庫を先に封じる」
ルーカスが即答する。
「今すぐ棚卸しと封印記録を作ります」
私は頷いた。
(仲間が増えた)
ルーカスは記録で戦う。
レナートは現場で戦う。
ロウは敵の手を読む。
そして私は、条文で刺す。
レナートが包帯の端を結び、淡々と言った。
「僕はどっちの味方でもなかった」
それから、ロウの手を一度だけ見て続ける。
「……今は違う」
言葉はそれだけ。十分だ。
ロウが静かに言う。
「全部は分かんねぇ。
でも、怪我させた奴は敵だ」
私は白猫の微笑のまま頷いた。
「うん。敵だよ」
ルーカスが小声で告げる。
「王宮から呼び出しが来るはずです。“事件説明”として」
私は袖の中の境界紙を握り、答えた。
「行こう。説明は、噂じゃなく記録で」
火の匂いが残る空気の中で、私は次の舞台を見た。
(噂は現場で折った)
(次は、王宮で折る)




