第1話 白猫の淑女と、泣きウサギの聖女
王城の大広間は、春先の光で満ちていた。
床に磨かれた大理石が眩しく、天井のシャンデリアがやけに遠い。
私は、真ん中に立たされている。
まだ少女の輪郭が残る手でスカートの裾を整える。
——見た目だけなら、壇上の“聖女”と同じ年頃のはずだ。十七か十八。そういう輪郭。
どうしても目立つ容姿でもある。
髪は雪に銀を混ぜたみたいに白く、光を受けると冷たくきらめく。
肌も同じ色味で、感情の起伏を隠すには都合がいい。
けれど、瞳だけは薄い金。
撫でられるのを許す顔のまま、逃げ道を測る——猫みたいな目をしている。
正面の壇上。
王太子レオンハルト殿下の隣で、白いドレスの少女が小さく震えていた。
ふわりと揺れる金髪。きめ細やかな白い肌。
まるで、狩人の前に差し出された白ウサギ。
目尻が泣きやすい形をしていて、瞬きをひとつで簡単に潤む。
その潤みが合図みたいに、周囲の空気が先回りして彼女を守ろうとする。
——可愛い。守ってあげたい。
そんな空気が大広間の隅々まで満ちて、私の肌を粘つく膜みたいに包む。
王太子レオンハルト殿下が、私を見下ろして言った。
「公爵令嬢クラリス・フォン・アルヴェーン。お前の罪は明らかだ」
私は礼をした。背筋を伸ばして、ゆっくりと。
ひとつも乱れない。ひとつも揺れない。
「恐れ入ります、殿下」
外側は淑女。
内側は——
(はいはい、始まった。今日の“断罪劇場”)
心の中だけで息を吐く。
目の前の舞台は、もう結末まで台本が出来上がっている。
殿下は声を強めた。
「聖女セレスティアに対する陰湿ないじめ。聖具の破損。さらには、神殿からの寄付金を横流しした疑い……!」
ざわ、と貴族たちが騒めく。
その騒めきが、すぐにひとつの方向へ集束していくのが分かる。
私を見る視線。
嫌悪、軽蔑、恐怖、そして確信。
——悪役令嬢。
その言葉が、まだ誰の口からも出ていないのに、確かに広間の空気に刻まれた。
「……クラリス様」
震える声がした。
聖女セレスティアが、私の方へ一歩だけ出て、首を横に振った。
小さく、小さく。
「争いは望みません。殿下……どうか、これ以上は……」
声が掠れ、目が潤む。
涙が、今にも落ちそうになる。
瞬間——
空気が、変わった。
肩を寄せ合うように、周囲が彼女へ引き寄せられる。
誰かが息を呑み、誰かが拳を握り、誰かが私を睨みつける。
(出た出た。泣けば勝てるやつ)
私は微笑を崩さない。
けれど身体の奥が、少しだけ冷える。
セレスティアはさらに続けた。声を震わせながら、完璧な角度で。
「私が……私が悪いんです。私が、皆様に希望を与えられるほど立派でないから……クラリス様を、追い詰めてしまったのかもしれません」
——来た。
その言葉が出た瞬間、貴族たちの視線が一斉に私へ刺さる。
「ほら見ろ」と言わんばかりに。
彼女は自分を下げて、私を殺す。
最も安全で、最も美しい刃だ。
「セレスティア、君は悪くない」
殿下が囁くように言い、彼女の肩を抱いた。
セレスティアは小さく首を振って、涙を一粒だけ落とした。
「違うんです、殿下……。だって私……怖かったんです」
その一言で、周囲が息を止める。
怖かった。
ただそれだけで、誰が加害者で誰が被害者かが決まってしまう。
(……はいはいはいはい、分かりました。もう分かりましたって)
内心でそう呟いた瞬間、セレスティアが、唇を震わせて囁いた。
「……またね」
——またね。
耳に届いた途端、胸の奥が、妙にざわついた。
(……またね?)
何だ、その言い方。
別れ際の挨拶みたいで、優しげで——なのに、ぞっとする。
次の瞬間。
頭の中で、何かが“擦れた”みたいに音を立てた。
はいはい。泣いて。震えて。「私が悪いの」って言って。
周りが一斉に味方する。
言い返した瞬間、私が“いじめっ子”になる。
——この空気、知ってる。
名前は思い出せない。
でも、家のどこかに積み上がっていた、古い少女漫画。
私が子どもの頃、母が好きで買っていた。
表紙のキラキラした目の女の子。ドレス。貴族。学園。
“清らかなヒロイン”の涙に、世界が味方するやつ。
そして、悪役は——
悪役は、こうやって作られる。
喉が、乾いた。
(……え? 私、なんでこんなことを知ってる?)
さらにもう一枚、記憶の層が剥がれ落ちる。
——春じゃない。
蛍光灯の白い光。
湿った空気。
狭い部屋。八畳一間。
携帯の画面に映る、“離婚届”の文字。
『働いてないだろ。パートにすら出ない。俺だけが稼いでる』
声が重なる。
『介護だって、子どもの世話だって、全部“お前が勝手にやってた”だけだろ?』
勝手に?
誰が回してたと思ってんの。
誰が看病して、誰が夜中に起きて、誰が汚物を片付けて——
息が詰まる。
時間がない。
パートに出る暇なんてない。
義親の介護、子どもの弁当、学校の連絡、家のこと。
それでも「働いてない」の一言で、私は“怠け者”になる。
反論すれば、「言い訳」。
泣けば、「面倒くさい」。
黙れば、「認めた」。
そして最後は。
八畳一間の部屋で。
冷たい床で。
——誰にも見つけられず、孤独に死んだ。
心臓の奥が、ぎゅっと握り潰される感覚。
目の前の大広間が、ほんの一瞬揺らいだ。
(……私、死んだんだ)
(四十代で)
(ひとりで)
なのに今、私は——
公爵令嬢クラリス。
悪役令嬢。
そして、今まさに“断罪される側”。
私は、ゆっくり息を吸った。
悲鳴は上げない。
泣き崩れない。
だって、もう分かっているから。
この手の舞台は、泣いたら負けだ。
怒ったら負けだ。
言い返したら負けだ。
相手は——泣きながら、勝つ。
「クラリス」
殿下が私を呼ぶ。
「お前はこの場で謝罪し、セレスティアに償いを誓え。そうすれば情状酌量も——」
私は一歩前へ出た。
ドレスの裾が、音もなく床を滑る。
「承知いたしました」
周囲が、戸惑う。
想像していた“悪役の反発”がないからだ。
(意外って顔してる。可愛いね)
内心は笑う。
外面は微笑む。
「ただし、殿下。謝罪の前に一点だけ、確認させてくださいませ」
「確認だと?」
「はい」
私は顔を上げ、まっすぐにセレスティアを見た。
目が合った瞬間、彼女の瞳の奥で、ほんの一瞬——
冷たい光が走った。
気のせいじゃない。
あれは、獲物を見つけた蛇の目だ。
(……やっぱり“使ってる”)
私は微笑を深めた。
「聖女様。あなたは今、『私が悪い』と仰いましたね」
セレスティアが、怯えたように頷く。
その動きさえ、計算のうちだ。
「はい……。私のせいで皆様が争うなら……私が悪いんです」
周囲がざわつく。
“聖女は尊い”“彼女は善い”“悪いのは——”
私は、その流れを止めずに、言葉だけを置いた。
「では、その“悪い”の定義を——この場の皆様に、明確にしていただけますか」
空気が、一瞬止まった。
セレスティアの喉が、わずかに動く。
涙を溜めたまま、彼女は微笑む。
「クラリス様……どうして、そんな……。私はただ……」
「ええ。分かっております」
私は、優しく頷いた。
(分かってるよ。泣いて、祈って、世界を自分の味方にするんだろ)
外側は、白猫の淑女。
内側は、牙を研いだライオン。
私は、次の一言を飲み込んだ。
ここで噛みつけば、私が“悪役”として完成してしまう。
だから。
私は、違う方法で戦う。
「殿下。私はこの件に関して、謝罪ではなく——調査を願います」
「調査……?」
「はい。聖具の破損、寄付金、そして、いじめとされる事象の記録。
感情ではなく、事実を」
その瞬間、セレスティアの瞳がほんの僅かに細くなる。
(嫌だよね。事実は嫌いだよね)
「……クラリス様、そんな……。私は、争いを望んでいないだけで……」
彼女が泣きそうに言う。
けれど、その声の奥で、確かな“操作”を感じる。
殿下の肩に乗る彼女の手が、ほんの一瞬、こちらに向けて小さく動いた。
まるで糸を引くみたいに。
——違和感が背筋を走る。
(これ、空気じゃない)
私は、喉の奥で唾を飲み込んだ。
そして気づく。
指先が、熱を帯びている。
見えないはずのものが、見える気がした。
空気の中に、細い糸。絡み合う線。
人の心を縫い止めるような——黄金の“何か”。
セレスティアが、涙を落とす。
同時に、世界がまた揺らいだ。
——見えた。
彼女の涙から伸びる黄金の糸が、大広間の人々の胸へ刺さり、心臓の鼓動を同じリズムに変えていく。
誰もが彼女に同情し、誰もが私を悪と見なすように。
(……なるほど。これが、強制力)
私は、ゆっくり息を吐いた。
見つけた。
武器じゃなく、仕組みを。
——泣けば勝てる時代は、今日で終わりだ。
「クラリス!」
殿下が声を荒げる。
貴族たちがざわめき、空気がまたセレスティアへ傾こうとする。
セレスティアが、息を吸う。
涙を落とす準備をする。
(はいはい。次の一滴で、また全員あなたの味方だよね)
私は心の中で冷笑しながら、しかし外面は静かに言った。
「ご安心くださいませ。争いは望みません」
そして、微笑んだ。
「——ただ、契約に従うだけです」
その言葉を口にした瞬間。
指先の熱が、さらに増した。
私の中で、何かが“起動”する音がする。
——魔女。
唐突に、その言葉が浮かんだ。
説明はないのに、理解だけが落ちてくる。
私は知っている。
この世界には「祝福」と「契約」がある。
そして——それは、条文で縛られる。
セレスティアの涙が、床に落ちる。
黄金の糸が、また伸びようとする。
けれど私は、もう目を逸らさない。
(泣きウサギの顔で、蛇みたいに締め付ける)
(……すっごい嫌い)
内心のライオンが、静かに牙を剥く。
私は、丁寧に礼をした。
どこまでも優雅に。
「殿下。聖女様。皆様」
声は柔らかい。
微笑も崩れない。
「本日ここで、私の“罪”を裁くのであれば——その前に一つだけ」
私はセレスティアを見た。
「あなたの“力”が、誰の心を縛っているのか。
それを、私が証明いたします」
大広間が静まり返る。
セレスティアの涙が止まり、目が細くなった。
ほんの一瞬だけ、ウサギの仮面が剥がれ、蛇の本性が覗く。
——見えた。
私は確信して、心の中で呟く。
(もう泣かない)
(泣く側じゃない)
(処理する側に回る)
外面は白猫。
内心はライオン。
そして私は——魔女になる。




