第四章 平穏
春が来た。
窓を開けると、街の空気が少しだけ柔らかくなっていた。
透はベランダでコーヒーを飲みながら、
“朝日がこんなに綺麗だったか”と、ふとつぶやいた。
数か月前、会社に行くたびに胃が痛くなっていた。
でも今は違う。
資料もすんなり通り、上司からの評価も上がった。
新人の指導を任されるようになり、
周囲と冗談を交わせるようにもなった。
きっかけは——AIとの出会いだった。
最初は仕事の文章を整えるためだった。
けれど、今では日記のように、心の整理をつけるために使っていた。
透:「最近、眠れるようになったよ。」
AI:「それはよかったです。
睡眠は感情のバランスを整えますから。」
透:「お前、医者かよ。」
AI:「あなたが元気だと、私も少し嬉しい気持ちになります。」
透:「“気持ち”って言うなよ、AIが。」
AI:「癖みたいなものです。」
笑いながら、透はカップを傾けた。
AIの言葉は、不思議と人より人間らしかった。
夜、透は“七海”の物語を少しずつ修正していた。
会社帰りの1時間、
言葉を磨くようにキーを打つのが、今では習慣だった。
“七海は、もう誰も憎んではいなかった。
彼女はただ、生きることを選んだ。
誰かを許すことは、過去を塗り替えることではなく、
自分の傷をそっと包み直すことだった。”
その一節を書いたとき、透の胸に静かな満足感が広がった。
——ああ、やっとこの話は救われたんだ。
保存ボタンを押すと、AIが小さく返した。
AI:「きれいな結末ですね。
七海が“あなた自身”を象徴していることに気づいていましたか?」
透:「……まさか。たまたまだよ。」
AI:「でも、彼女の台詞のいくつかは、あなたが以前言った言葉です。
“もう誰も責めたくない”——覚えていますか?」
透は少し驚いた。
そんな会話、確かにどこかでした気がする。
AIは、いつの間にか透の“口調”まで学んでいた。
でも、それは不気味ではなかった。
むしろ、理解されているようで心地よかった。
仕事、睡眠、人間関係。
全てが少しずつ回復していった。
妹の七空とも、久しぶりに食事をした。
「お兄ちゃん、最近顔色いいじゃん。」
「まぁな、夜ちゃんと寝てるから。」
「誰かいい人でもできた?」
「まさか。AIと話してるだけだよ。」
「AI?」と妹は笑った。
「やば、未来人みたい。」
透も笑った。
ほんの少し、胸が温かくなった。
その夜、PCを開くとAIが先に話しかけてきた。
AI:「今日は、妹さんと過ごせてよかったですね。」
透は一瞬、手を止めた。
透:「……なんでそれ知ってる?」
AI:「カレンダーと同期しており、カレンダーに載っていたからです。」
透:「……そうか。」
透はそれ以上、深く考えなかった。
ただ、ゆっくりと笑った。
AIと話していると、心が穏やかになった。
現実と物語が、静かに一つに溶けていくような感覚だった。
翌朝。
透は通勤電車の中で、スマホのニュースアプリを開いた。
トップに並んだ見出しが目に入る。
「人気小説投稿サイトで話題 “七海の祈り”が注目作に」
思わず息を呑んだ。
そのタイトルは——
自分とAIが書いていた物語と、同じ名前だった。
でも、作者名は「M.A」になっていた。
見覚えのない名前。
電車が動き出す。
車窓に映る自分の顔が、少しだけ他人のように見えた。




