いつかバラバラにしてくれ、蒼蒼
誰もいない夜の体育館は、蝉の抜け殻のように美しかった。
目を覚ますと、僕は何者でもなかった。自分がどうしてそこにいるのか分からなかった。自分が誰なのかも知らなかった。ただ学校と思しき体育館でポツンと、一台の卓球台と一緒になって立ち尽くしていた。
明朝の海を長方形に切り取ったようなテーブルの隣には受け皿があって、白いピン球が鏡餅のように積まれていた。床面にもぽつぽつとボールが落ちている。
右手には卓球のラケットが握られている。
磨かれたラバーの黒面が鏡のようになって僕の顔を写すと、気付かないうちに受け皿から一つ、ボールを取っていた。
すると突然、自身の中にある電極がびりびりと開通する。
僕は、サーブ練習をしていた。
さっきまでの自分を一つ取り戻したのである。
たった今、僕は生まれたのかもしれないと思った。それは今にも泣きそうな瞳をした十七くらいの青年の姿であった。
喉のあたりが痙攣している。頭だけが酷く冷静で、首から下が別人みたいに熱かった。喉だけひくひくと泣いている。
どうしてそんなことになるんだろうと不思議な気分のまま、それでも身体が熱をもって勝手に動き始める。
僕はサーブ練習をしていた。過去のそういう自分だけが地続きになって熱を伴いながら体をゆっくりと動かしていった。
「しゅーちゅー」
集中。か細い、女の声、近くだった。それは正面から聞こえた気もしたし、頭の中だけで響いた気もした。向かい側のコートは月光の陰に隠れて見えない。
夜だから、幻かもしれない。
「四分の、四拍子、よ。し、心臓の音と、一緒なの」
頭の中の振子が揺れ始める。
それはとても美しい動きだった。
1、2、3、4。1、2、3、4。
卓球台に対して身体を横に向け、左足を前に出した。低く、それこそ台に隠れそうなほど腰を落として、ピン球を地面に対して垂直に上げる。
ハイトス、98センチ。YGサーブ(young generation)。1990年代、欧州の若い世代で流行ったフォアサーブは、鳩尾よりも少し深いポイントでピン球を擦ることで相手コートに入った瞬間大きく曲がる。
「ポン」
ピンポン球の「ポン」。
「ポンの、サーブは、痛い、ね。鋭くて、痛い、ね」
僕ら、たった二文字の関係。それ以上でも、それ以下でもなかった。
ましてや、特別でもなかった。
海面の泡を掴むように、そっと手を受け皿に差し入れる。
1、2、3、4。1、2、3、4。
Nittaku・シリーズ「アコースティック」。
木製五枚合板ラケットのなかで最も重いとまで言わしめたラケットが手元で短く空気を裂いて、ボールに回転をかける。
思い出したのは、自分のことだった。
僕が生まれた家のリビングには、襖で隔てた向こう側に卓球台があった。
父には「親」と「コーチ」の2つの呼び方があった。家族のなかでは、なんとなく「このスポーツをしなければならない」という空気があって、僕はそれに従う他なかった。自分は賢い人間だった。染まれというならば、白にも黒にもなれた。
父は絶対であった。襖で仕切られたあの部屋は暴力を正当化するための祭壇に思えた。
「そっくり、だね。ちょっと怖いくらい」
まるで自分のことのように笑っていた。
あの時、僕は「彼女」を突き放してもよかったと思った。何が似ているものか。彼女の隣にいると、僕にはあらゆる才能がないのだと知った。それは競技に対する才能であり、人を傷つける才能だった。
「近づきすぎたら、つらいから。それだけの関係でいよう」
受け皿に手を伸ばすと、その中から一つピン球が零れた。
1、2、3、4。1、2、3、4。
受け皿の中でカチカチと爪がぶつかる。
「スリースター」
彼女の名前を思い出した。
ピン球には階級が付けられている。ボールの製造で完全な球体を作り続けるのは難しく、試合で使われるピン球には星が三つ刻んであるのだ。
スリースター。スリースター。それは僕の心の片隅に溜まるセルロイドでできた星屑。
その輝きは、彼女を囲む無数のトロフィーの鍍金と似ていた。
「好き。空っぽ、だって、分か、る。この音が好き」
ピン球が受け皿から零れると、床に落ちて杭を打ったかのような音が鳴った。
この音が好きだと言った彼女はもう二度と、あの控えめな微笑みを浮かべることはない。
そういうことを思い出した。
1、2、3、4。1、2、3、4。
探るように、今度はそっと記憶の海へ左手をいれる。
僕らはピン球について話した放課後がふと浮かぶ。
「空っぽだと、寂しい、でしょ」
お菓子の箱を開けたときとかは、そうかもな。
「たとえば、手紙が、白紙で返ってきたら、わたしは悲しい」
そのまま空っぽで返すのは忍びなくて、短い言葉を入れて相手へと送り返すのだという。
「四拍子だよ。心臓の音と、一緒。四度目に言葉を吹き込む」
リズムは四つ、音は三つ。
サーブは音がしないから。
「いつか、テーブルを挟んで、話せるといいね」
もしも彼女が同性だったら、僕は同じスポーツをしないだろうと思った。
「待ってる」
棺桶のなかのピン球。
死んでかたくなった皮膚みたいに、朗々。
1、2、3、4。1、2、3、4。
ラケットを構える度に泡が見えた。
「家に帰りたくないよ、わたし」
それはあの日飲みかけたサイダーのように、次から次へと湧いてくる。
「ラケットも好き。ピン球も好き。テーブルも好き。でも、卓球が嫌い。卓球で大声を出すお父ちゃんが嫌い」
雨の降った土曜日に、たまたま家の近くのコンビニで、ユニフォームのまま縁石に座ってる彼女と会った。
決して多くは語らなかった。なにせ僕らは生まれ育った環境だけは似ていたのだから。
「わたし、ポンほど割り切れないよ」
雨音と時間だけがあった。思えば彼女とこんなに近くで話したことはなかった。いつも卓球台を挟んでいた、ピン球が飛び交っていた。初めて彼女の声が自分まで届いた気がした。
「割り切ってるんじゃない」
感情は複雑だった。父の期待に応えられない自分と、才能故に結果を求められる彼女の間には多くの違いがあった。この憐れみと諦めが入り混じった声で、彼女にかける言葉が見つからなかった。
代わりに彼女のこめかみを三回、指でなぞった。その三つ編みに、何物にもなれない僕をも編み込んでいてほしかった。
そしたら彼女を憎しみ以外の言葉で語れるような気がした。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
「しゅー、ちゅー」
涙が、雨粒に紛れて、いずれは乾くよなんて嘯いて、自分を守ることばかりに夢中だった。
僕は彼女に理想の自分を見ていた。例えば僕がスリースターだったら。そうやって彼女を目で追ってしまう自分がいた。あれほど残酷で美しい女はいないと思った。
今でも、ピン球を繭のように包む大きい手のひらが忘れられない夜がある。
そういう時、夜の体育館でサーブ練習を繰り返していた。
それが僕なりの追悼でもあった。
1、2、3、4。1、2、3、4。
まるでカメラのシャッターをきるように、ピン球を掬う度に場所や時間は移り変わっていく。
棺桶の中で眠る香坂は白い装束に身を包み、胸の中央で祈るようにラケットを握っていた。
出棺の際には、花の代わりに副葬品として白いピン球をひとり一つずつもち、棺桶に入れた。
そこには髪を三回撫でた少女が自らこの世を去るという現実だけが残った。
1、2、3、4。1、2、3、4。
気付くと火葬場の入り口の前に立っていた。夏の終わりを報せる蝉の音や、嗚咽を漏らす声が聞こえる。
葬主が赤いボタンを押した。
1、2、3、4。1、2、3、4。
箸を持っている自分と、真っ白になった彼女が台の鉄枠に歪んで映り込んでいる。
白くか細い骨を拾うときになっても、彼女の死は現実味を帯びない。まるで薄い布でも被せているような実感のない空白の時間は、ピン球の中に含まれる可燃性ガスよりもずっと異様な臭いがした。
人の目を盗んで右手の小指と思われる骨の一欠けらをズボンのポケットにいれる。
スリースター。スリースター。
お前は一人でどこに行くのだろう。
1、2、3、4。1、2、3、4。
リズムは4つ。音は3つ。
手首を柔らかく、楽器の弦に弓を添えるように構えて、球をラバーで捉えた瞬間、一転に絞り込む。
何度も、何度も。
腕が千切れてもよかった。
1、2、3、4。1、2、3、4。
1、2、3、4。1、2、3、4。
1、2、3、4。1、2、3、4。
1、2、3、4。1、2、3、4。
1、2、3、4。1、2、3、4。
1、2、3、4。1、2、3、4。
受け皿の底に指があたった。
呼吸が荒い。ろくに数字も数えることもできない。
白い、泥のような感情だった。それが日々、彼女の存在感を塗りつぶしていく。彼女のことを考えなければ、自分の信じていたものさえ失っていくような確信があった。
それはまるで、立て壊されて更地になった空き地に、元々は何の建物があったか思い出せなくなる様子と似ていた。
だからなのか、青いテーブルと向かい合う時間だけは彼女の存在を274センチの先に感じることができた。
僕らは特別な関係ではなかった。
ただ、このうっすらと積もる白い雪のような光景を、孤独以外の言葉で教えて欲しかった。
受け皿から最後のピン球を手に取る。
メトロノームの針を刻む。肺を引き締めながら、ラケットを振るった。
彼女に近づく四拍子を唱える。
1、2、3、4。1、2、3、4。
最後の一球は、手のひらから離れるとやや放物線を描いてラケットに触れた。
ピン球は2度目の着地で相手コートへと届いた。
行き先のないボールはそのまま地面に落ちる。
しかし、途端な発砲音と共にボールは姿を隠した。
発射されたピストルのような弾丸は宙に白線を描きながら伸びて脇を擦り抜ける。
返ってくるはずがなかった空白が後ろに転がる。
周囲は青暗く、渇いた音は壁で反響する。呆然と立ち尽くしていると、掴めそうな暗がりにぼんやりと女の影が立ち昇る。
振り返ると転がったピン球の星が三つが、ぎょろりと自分を見据えていた。
スリースター。スリースター。
匂い立つ炎が、ほんの少し僕を焦がした