蝶は欠けた夢を見る【コミック2巻発売記念SS】
――欠けた夢を、見ていた。
ぜぇ、はぁ、と。苦しげに繰り返す呼吸は落ち着く気配を見せない。私は足下でヘトヘトになっている二人の友人へと視線を向けた。
「大丈夫? レイカ、イユ」
「ぜぇ……はぁ……だい……じょ……ぶ」
「……む、り」
まだ強がるように返事をするのはレイカで、完全に床に転がって降参しきっているのはイユ。
二人は私の自主練に付き合ってくれたんだけど、私のペースで走っていたらこの有様である。
私はもうすっかり慣れてしまったけれど、彼女たちには少しキツかったみたいだ。自分の努力が身になっていることに喜びたいところだけど、それはそれとして二人が心配だ。
「水持ってくるね」
「……っ、おねがい」
「よろしく~……」
レイカは申し訳ないと思ったのか、自分で立ち上がろうとして足が震えていた。無理をしたら逆に迷惑になると思ったのか、大人しく座り直した。
一方でイユは完全に私に甘える気のようで、寝転がりながら手をひらひらと振っている。
そんな彼女たちの様子に苦笑しながら、私は彼女たちに水を持ってくるために駆け足で水を取りにいく。
蝶妃候補である私たちは日々の訓練が義務づけられている。そして、望む人がいれば自主練のために施設を開放してくれている。
とはいえ、私たちのようにギリギリの時間いっぱいまで訓練に勤しんでいる人はほとんどいない。
私は早く蝶妃になりたいと思っているから一人で努力をすることは苦ではないけれど、こうしてレイカとイユが付き合ってくれるのは嬉しい。
「もうちょっと二人のペースに合わせてあげれば良かったかな……」
でも、それだと自分の訓練にならない。二人は私がどれだけ普段から訓練に力を入れているか知っているから、手を抜いたら抜いたで気を遣わせてしまいそうだ。
まぁ、二人も私と同じぐらい向上心があるのだろうと思おう。頑張ろうとしているなら変に気を遣わないで自然に振る舞った方がいい。
「おまたせー……って、何してるの? 二人とも?」
私が戻ってくると、何故かレイカとイユが向かい合わせで座りながら互いの頬を摘まみ合っていた。
本気で抓り合っていたというよりかはじゃれ合いみたいだったけれど、一体何でそんなことをしているのか。
「おかえり、アユミ」
「おかえりー。別に何でもないよ? ちょっとレイカちゃんとお話してただけだから」
「そうね。ちょっとお話をしてただけよ」
「……ふーん? そうなんだ」
うふふ、あはは。
そう言いながら笑い合う二人は何だか楽しそうだけれど、なんとなく怖さがある気がする。変に踏み込まない方がいいかと思いながら、私は二人に水を手渡した。
「はい、お水」
「ありが……」
「わーい! ありがとー、アユミちゃん!」
すると、レイカが受け取ろうとした水をイユが受け取り、自分で受け取った水をレイカへと手渡した。
何故そんな無駄なことを……? 疑問を覚えながら呆気に取られていると、レイカが笑顔を浮かべたままイユへと視線を向けた。
イユはそんなレイカの視線を気にした様子もなく勢いよく水を飲み始める。するとレイカがすすっとイユに近づいて、彼女の腋へと指を滑らした。するとイユの口から大量に水が零れ落ちる。
「ぷひゃっ!? げほっげほっ! な、何するの!?」
「くだらないことをしないで」
「仕返しにしたってやりすぎでしょ!? あー、水が勿体ない! 服も濡れたー!」
「どうせ汗だくだから」
「なに~っ?」
「いやいや、何してるのさ? 二人とも」
呆れながら二人に言うと、二人は顔を見合わせる。
それから私の顔を見たかと思うと、同時に溜息を零した。何、その二人だけで通じ合ってますって仕草は?
「くだらないのは私たちだったわ」
「そうだね~。これだからアユミちゃんは」
「えっ、なんで私が悪いみたいなことになってるの?」
「気にしないで」
「そうそう、些細なことだから」
「そんなこと言われると逆に気になるんだけど……二人だけで仲良くしないでよ」
私が軽く唇を尖らせながらそう言うと、またしてもレイカとイユは顔を見合わせた。
それから何がおかしいのか、二人は堪えられないと言わんばかりに笑い始める。
「あははは! アユミちゃん、本当におっかしー!」
「……くふ、ふふふっ」
「えーっ、何で二人だけで笑ってるのさ!」
「うふふ……ちょっと張り合ってただけなのよ」
「は? 張り合うって……何を?」
「えー? 内緒だよね、レイカちゃん」
「そうね、イユ。アユミには秘密で」
「えーっ!」
親友といっても過言ではない二人に隠し事をされた。どうして私には秘密なのさ!
そんな不満をぶつけても、二人はただ楽しそうに笑い転げるだけだった。
その秘密が、結局何だったのかを私は知らない。
これは忘れていた記憶。懐かしい思い出。……欠けてしまったものが見せる夢だ。
「……レイカ」
この夢は過ぎ去った記憶。夢には、私の声は届かない。
* * *
――誰と笑い合っていたのか、欠けた夢を見ていた。
ぎゅっと胸を掴めば、痛みが眠気を遠ざけて意識を覚醒させてくれる。
荒くなる呼吸を整えて、ぽっかりと穴が空いてしまった胸を落ち着かせようとする。
この胸を締め付けるものの正体がわからない。うたた寝の間に見た夢もいつの記憶か定かじゃない。
それがどうしようもなく私を不安にさせる。思考に沈んでしまいそうな私を止めてくれたのは、誰よりも敬愛するあの方からの声で。
「大丈夫? レイカ」
「……はい、トワ様。私は大丈夫です」
「そう」
たったそれだけ。紋白の頂点に君臨するトワ様は、私に興味が失せたように視線を逸らした。
それでも私には十分すぎる程の幸運で。雲の上のような方から気にかけてもらえたという事実だけで胸が満たされた。
……満たされている、筈なのに。
「……頑張らないと」
これは、きっと気の迷い。私は今、誰よりも充実している。
蝶妃として覚醒して、誰よりも敬愛するトワ様の側にいられる存在となった。
これ以上に望むことなんてない。だから、どうでもよい夢の話なんて忘れてしまえばいい。
私は喪失感など感じてはいない。何も失っていないのだから。全てはこの手の内に。
欠けた夢は、その輪郭を残すことなく幻のように去って行った。




