朔の前日
新月が間近に迫っている、ぴんとした空気があった。冷たい、昏い、冬の夜のような。それが身を余さず貫いたのは、あの春の箱庭。
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個々人の意思や感情なんていうものを慮る事も無く、世界は昼と夜を交互に塗り潰していく。今日も世界は、眩し過ぎる陽射しをひたりと敷き詰めていた。北国の寒さとはいえ本日は、時節に似つかわしく無い程度の陽気が世界を流れている。それは路地の一角、怪談の一節にでも登場しそうなこの薄暗い木造屋でも例に洩れず。
「…あー…もう春だねぇ…」
暦と照らしてみれば、北日本に位置するこの地方では些か気の早い台詞だ。北向きの古びた窓を開け眼を細める男がぽつり言った言葉は、吹き込む空気に霧散していく。時期外れの陽気に相応しい、だらしの無い表情。元来活気に満ち満ちる事は無い男の表情は輪をかけて脱力し切っている。咥え煙草を揺らし頭を掻く様は、仮にも四十を目前とした、きりとした年輪とはかなりの乖離がある態様を見せている。
数日前に剃ったきりの無精髭、所々寝癖を備えた頭髪。ボタンを二つしか留めていない拠れた白のワイシャツは、形式上、店に出るならそれくらい着ていろと先代に言われただけの装備品。外に出るならばともかくとして、我が家であるこの店舗から出ないというのであれば、男の中では無頓着と面倒に軍配が上がるのだ。
白煙がゆらゆらと、窓の外に吸い込まれていった。
瞼を開いていれど脳は覚醒していない。窓際に立ち珈琲を片手に煙草を数本ふかすのが、もう何年もの朝のルーティンとなっていた。窓外には、何のものだかわからないビルが無慈悲にも景色を覆っている。男の喫煙の功績かどうかは不明だが、黄色に汚れたビルの外壁がその年月をひっそりと語り掛けている。
使い込まれてくすんだ銀の灰皿に、ぽたり。
間一髪で第二次世界大戦の戦火を逃れたこのボロ屋には、現在、「陽彪堂」との看板が丁寧な字体で掲げられていた。
曰く、叔父の友人の書家がサービスで書いてくれただの何だのらしいが、当の叔父、篝屋顕真も今となっては行方知れずである為、真偽は闇の中と言っていいだろう。二年ほど前に「ちょっと出てくる」と言ったきり未だ帰らないのは、別に驚く所では無い。どうやら篝屋の血筋はそういった唯我独尊の螺旋が混じっているようだ。男の父親もそうだったらしい、と顕真がよく言っていたし、何より篝屋鉦吾本人にその気があるのだから、仕方が無い。
この狭い世界に凭れて、間も無く十年が経とうとしていた。
「…んー…今日は仕事はちょいと面倒臭いんだが…」
窓の外(壁)を眺めていた男は、ちらと視線を真逆に向ける。すぐそこに見える磨りガラスの嵌め込まれた木造扉の先。忌む、とまではいかないが、砂粒ほどの興味も無い外界がそこには広がっているだろう。隔てたその先には、何人もの気配は無い。
視線道中のその両脇には、古びて埃を積もらせた本棚が幾重にも横に広がっていた。現代のそれではないであろう、無数の古書達。それらが男を小馬鹿にするように、けらけらくすくすと笑い声を籠らせていた。
「…黙ってろ、燃やしちまうぞ。」
半笑いの男のそれに反応してか、ぴたりと含み笑いは静寂に変わる。右手で跳ねた髪の毛を軽く押さえ付けながら、男は煙草の火を揉み消した。仕方が無いから首元の釦も留めて、男はヒトの仮面を被る。店主机に両手を置いた、店主、篝屋鉦吾は口元を緩めた。
「いらっしゃいませ、お客様。御用件を聞きましょうか?」
その言葉を待っていたように、二十秒の後、扉の向こうに人影が揺らめいていた。
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「本を売りたい…ってことでいいんですかね?」
『…はい。』
店主机の前に佇む女性客は、不安の末の歯噛み顔を見せていた。歳の頃、男より少し下だろうか。ちらりと男が目をやると、その傍ら、彼女の娘であろう女児が、一冊の絵本を大事そうに抱えていた。命より大事な宝物だ、そう言わんばかりの様子と相反して、その煌めく筈の虹彩は生気を失ったように真黒に沈んでいる。
「…にしたって、娘さんが離してくんなきゃあ売るもなにも無いんですがねぇ」
『…っ、それが、様子がおかしいんです。この子…。昨日から…。』
ぼうとした男の声色はともかく、女性は辛うじて声を絞り出している。抱えたハンドバックを握り締める両手すら小刻みに震えるその様は、何か得体の知れない恐怖を目の当たりにしたそれであった。地に目を伏せた女性は、ひとつひとつ記憶をなぞって言葉を探す。
『…この子ったら、一週間前にこの絵本を拾ってきたんです。一緒にお散歩に行って、公園で遊んでたら、これ…捨てられてたみたいで…何がなのかはわからないですけど、大層気に入ったみたいで…。夫は捨てろと言ったんですけど、捨てようとすると、娘が泣き出して…。』
震える声を虚ろに聞きながら男は、その女児の目の前にしゃがみ込んだ。往々にしてこの年頃が見知らぬ壮年男性を前にすると怯えるものではあるが、女児にその気配は無い。否、一切反応を示さない。その一事で確かに、不可解であると思えなくもない。男がひらひらと女児の眼前で手を振ったとしても、同様に。
女児が胸に抱えた本を見遣る。些か汚れているとはいえ、近年発行された女児向けの絵本、のように見える。遥か上にある女性の顔を見上げて、続きを視線で促した。
『でも、その…一昨日くらいから、この子、こんな風になってしまって…ごはんも食べないし…。寝ている間に本を取ろうとしても、離してくれないんです…。大人の私や夫が取ろうとしても、取れないくらいの力で…まるで、娘に何かが取り憑いてしまったみたいで、私、怖くなって…』
「…はぁ。病院なんぞには連れていきました?」
『行きました…でも精神科のお医者様も、何がなんだがわからないと仰って…』
自らの質問が可笑しくて、男はふと笑う。お医者様が何とか出来る事柄であったなら、此方はとうに掃き溜めの浮浪者にでも身をおいていたであろう。右手で頭をくしゃくしゃに掻くと、抑えた筈の寝癖がひょいと朝の姿を取り戻した。
「そんで、なんでウチなんぞに?ただの古本屋には荷が重い、なんて普通は思うと思いますが?」
『……お噂は、伺っています。なにか、理解の出来ない不可思議な事に対応してくれるお店だと…夫は…失礼ながら、胡散臭い、なんて言ってましたが…』
「…はっはっ。そりゃあ旦那さんの仰る事が正しい、てなもんです。こんなくたびれたオジサンのお店なんて、胡散臭さしか無いでしょうよ」
男はしゃがんだままで頬を掻いて、他人事のように笑う。卑下された誤魔化しでもなく、虚勢でもなく。ありのままのその笑いに、女性はひとつ喉を鳴らす。この店の前に立った時から身を包む、形容しがたい違和感。目を細めたその男すら、そんな理解の出来ないモノの一部のような気がして。
『…で、でも…』
「…ですが。」
今にも泣きそうな、不安に駆られた女性の言葉を遮って男は続ける。立ち上がり向き直った男は、ヒトでは理解不能の事象を前にして、うすらと口許を歪めて犬歯を見せる。その様まるで、獲物を見付けた野生の獣の如くに。
寝癖、よれよれと崩れたワイシャツ、髭面。こんなどこにでもいそうな男が、ヒトの皮を被った異物に見える。親としての本能か、女性は思わず、微動だにしない我が子の肩に手を置いていた。
「…奥さんの仰る通り。ここはそういう店です。不思議な事ってのは、案外身近にあったりするもんです。我が子を元に戻したい、ってんなら、少々お子さんをお借りしますよ?」
男は、絵になりそうな綺麗さで笑っていた。
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子を見知らぬ男に預けた女性、香織は、所在無さげに店内を見渡していた。男が店主机の横に用意した丸椅子に浅く座り、それでも気が気じゃないというように忙しなく、右へ左へ視線が泳ぐ。
『なーに、三十分もすりゃ終わります。それまで奥さんは、まぁ気軽に休んでて下さい。あ、商品の本は開いちゃいけないもんです、それ以外ならどうぞ、好きなように寛いでいて下さい』
あまりにも飄々と男が言うものだから、すっかり香織の頭内は混乱してしまっている。娘に起きた常ならざる事態、それを前にして怯むどころか緩みっ放しの店主の男。命より大事な娘の為なら、と腹を括った筈なのに、今では一人ぽつんと残されて澱んだ空気に呑み込まれてしまっていた。
枯れ果てた店内の木造、視界の左右に広がる本棚の群れ。黴臭い空気。幻聴のように聞こえる何かの音。果たしてここは現代日本なのか、そう思えてしまう程に、この世から切り取られたかのような空間。三十余年を真っ当にヒトとして生きてきた香織にとって、此処にある全てが理解の出来ない、異物であった。
『………』
ハンドバッグを握り締める。頭を駆け抜ける種々様々な違和感、嫌悪感をなんとか飲み込んで視線をひとつ。男が先刻娘を引いて入っていった扉は、老朽した店内にら明らかに似つかわしく無い、新品の木目調に色を発していた。
「…はてさて。今回で終わるといいんだが。」
部屋の四隅に立った燭台にはか弱い炎が揺らめいている。ぎし、と音が鳴る古びた机。壁際には古書から現代書まで、ちぐはぐな品揃えの本達がゆうに五十は積まれていた。本の壁、とも言えるそれらは埃を被り、明白に売りに出す物ではない事がわかる。
そんな簡素で、かつ不気味な部屋にて。魂を囚われた女児を机に寝かせ、男はくしくしと頭を搔いた。女児の額、胴、足首には墨画の札が貼られている。粘土の如くに重い、拠れた空気を綺麗に詰めた中で、当の男は家事のひとつでもこなす様な気軽さでいた。
「さぁて。悪りぃが、生贄になってもらうぜお嬢ちゃん。」
小さな、細い腕に抱えられた本に右手を添える。へらりと笑う男は、この部屋に満ちる、現代世界とのちぐはぐさと奇妙な程にマッチしているように見えた。
前髪を垂らし、覗き込む。少女を-いや、男は横たわる少女など見ていない。明朗に言えば、その少女などどうでもいい。用があるのは、〝こちら〟の-
炎が揺らめく。閉じきった筈の部屋に空気の流れが。少女の服も、男の前髪も揺れて遊ぶ。薄ら灯りで照らされた男は、歓喜に歪な口元を晒す。吐き気に苛まれそうな、この世のものとは思えない何か。男はそれに直面して、垂涎して。
薄暗い部屋の中で〝それ〟は、輪郭をぼやかして其処にあった。無意味に無為にゆらめいて、蝋の炎を飲み込もうと揺蕩って。そうして餌を見付けたそれは、少女の抱える絵本に向けて宙を這いずっていく。
落ちる。堕ちる。昏い影。無念の残り滓が啜る。
融ける。喰らう。澱みの更に下。黒に黒を、塗り潰すように。
男は少しだけ、言葉を投げた。男の利己に利用される、憐れな短い命に。貼付した墨札がぱりぱりと音を立て、張り裂けそうだ。その前に。無に帰す可哀想な無垢に、思ってもいない哀悼を。
「…あぁ、お嬢ちゃん。ありがとうよ、俺の為に。精々、達者でなぁ」
ぶわ、と言葉と共に瞬間に吹き上がった風。舞った髪が重力に従う数秒後には、室内はしじまに満たされていた。墨札は綺麗に半分に裂かれ、少女を載せていた机の足も大きくヒビが入ってしまっている。これらに意思があるのなら、此処で何があったか語るのだろうか?
吐きそうな濁った空気でも、男には歓喜のファンファーレ。およそ続いた苦行にも、これにて御仕舞。左様なら、御機嫌良う。かくの如くに男は満足げに笑っていた。右手にひらひらと、幼児向け絵本を扇ぎながら。
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『…あ!ママ!ママいたー!』
『…優美!?ああっ…優美っ…!!』
香織からすれば、その瞬間はあっけなくもあり、悠久でもあり。男が示した三十分きっかりで扉は開き、愛娘はかつての無邪気さで、天使の笑みで駆け寄ってくる。ぐちゃぐちゃに不安だった心を一掃してくれた優美を、香織は力一杯に抱き締める。
『優美っ…よかった…っ…痛い所はない?気分は悪くない…?』
『…?うん、わたしげんきだよ?…ママ、ないてるの?』
母の腕の中で困惑する少女は、それが歓喜の涙だと意味は知らない。恐らく今日の事でさえ、遠くないうちに忘れてしまうだろう。香織からすれば、元気な我が子がいるだけでそれは瑣末なことで。
だから、香織が我が子の無事に思わず昂って。
後に続いた男に尋ねたのは、彼女だけが今も抱える後悔だ。
「いやいや、お待たせしました。早いとこお子さんを返してやりたかったんですが、これが中々手こずりましてねぇ」
『っ…ありがとうございます…ありがとうございますっ…』
駆けた娘の後ろを悠然と出てきたのは、くたびれた服装の店主の男。客前だというのに煙草をくゆらせている様は、感動の親子対面にもさしたる興味は無いよう。それでいてどこか満足そうに目を細めているのだ、掛け違えのような不和にも、香織は気付かない。大粒の涙を零しながら、我が子の確かさを腕の中で何度も味わう。
「いやいや、こちらこそです。お嬢さんがいなかったらどうなってたことか。お礼を言うのはこっちですよ。お陰様で全て終わりました」
『いえっ…本当に…っありがとうございます…!あのっ…一体この子に何があったんでしょう…?』
「……はは。それ、本当に知りたいですかねぇ?」
一段煮詰まった空気が男の足元から垂れ流され始める。男の右手には娘があれほど離さなかった件の絵本がある。ファンシーな表紙のそれを男は団扇のように仰いでいる、その風に乗って、香織は僅かに自我を取戻した。
嘔吐くような嫌悪感の空気が目の前の男から滲んでいる事に気付くのに、少しの時間を要した。皮膚が粟立つ。だというのに、何故自分の問いを取り消せない。香織の後悔をよそに絵本を振る男は、爛々と、親身でも嘲笑でもなく、話を始めた。
「…奥さん、去年末にあった事件とか知ってますかねぇ?ここいらの近所で、事件があったの。」
『っ…はい…とても近所でしたし…その…犠牲になった女の子も…優美と歳が近かったですし…物騒だねって、旦那と話をしていて…』
「でしたら話は早い。この絵本はその子のものです。虐待の末殺された、五歳の女の子のね。」
氷を心臓に押し付けられた感覚に、香織の顔は引き攣った。それに遅れて抑えられない手の震え。腕の中に無邪気な愛娘がいるというのに、それは止まらない。暖の取れない、脊髄神経からの凍えが、香織の全身に回るまで数秒を要しなかった。
「まぁこいつは、その子の親が適当に捨てたもんでしょう。公園で拾った、って言ってましたね。まぁその後に、そいつをお子さんが拾っちまった、と。はっはっ。迂闊に物は拾うな、ってやつですな。」
香織の見開いた、脅えた瞳は事実へのものか、それとも、雄弁に語る男へのものか。喉が震えて声が出ない。違和感ではない、恐怖。それを確かに今、この上でへらへらと笑う目の前の男に感じていた。
『っ……じゃ、あ…なんでこの子はあんな風に…?』
「っはは。それも聞いちゃいますかねぇ。いやいや、存外奥さんは好奇心旺盛ですなぁ。」
香織は声もなく思う。馬鹿、何故止めない。逃げ出さない。震えた喉が勝手に質問を搾るのだ。我が子を連れて逃げ出せ。そんなに明確に香織の頭は叫んでいるのに、体は動いてくれない。人生で最初で最後の、ヒトではない異物に触れた恐怖。
「奥さんみたいなヒトにゃあわからんでしょうが、不可思議なことっつうのは、見えないだけで案外そこらに沢山あります。付喪の神から日陰に蠢く妖、人の念…そういったものに、ちらっと肩先掠めただけですよ、今回の事は。」
春先の足取りで男はかつかつと歩を進め、店主用らしき木机の上にどっかりと腰を掛けた。歌でも歌い出しそうな春先の上機嫌で脚を組み、辛うじて首だけで男の動きを追った香織を魅入るように視線を離さない。
「とりわけ本っつう形は、ヒトの念を取り込み易い。本は人の思い、知識の形式化。叡智の結晶とでも言うんですかね。同じ様に、人の頭の中にあるもんに馴染みやすいんでしょうな。まぁそこらへんは俺も知りませんがね、一応ヒトの形に生まれちまってるもんで。」
朗々と、話は続く。
「…つまり、この絵本にゃあ殺された子の念が詰まってた。そんだけの話です。なんで私だけ。他の子が羨ましい。私も暖かな家庭に生まれたかった…そんな念が、そりゃもうぎっしりと。そんでそれを拾った幸せそうなお子さんに目をつけて、乗っ取っちまおうと。ま、簡単に言うとそんな所です」
犠牲になったという、見も知らぬ女児。親としてふつと湧き出る、幼児への無念、哀悼、憐憫。そんなものを遥かに通り越して、我が娘に起こった未知への、そして視線の先にある異物への畏れが香織を取り囲んでいる。
『っ…なん…でそんな事まで分かるんですか…』
香織がかろうじて絞り出したのは、自己防衛のための否定。彼女からすれば男に食い掛かる意味は無い。ただ聞かされる事を信じたくなくて、創作物でしか見た事のない事が、身に降りかかった事に背を向けたくて。
「っははは。わかるに決まってるでしょう。俺はそういうもんです。それに、こいつを見りゃあ流石に奥さんにもわかりますよ、ほら。」
男は高らかに笑い、絵本を開いて見せた。
最初のページ。森で住む兎の子。優しい父と優しい母に囲まれて、暖かいスープを飲んでいる。今日はキツネくんと遊んだよ、明日はどこに行こうかな。そんな話を微笑んで聞く父と母。なんとものどかな森の家庭の一幕。今日も明日も、楽しいことがいっぱい。微笑ましい陽向の空気。
そのページに、クレヨンで大きく書かれた
『たすけて』
の文字。
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仕事を終えた後の一服は至高のものだ。男はいつも思う。とはいえ先の来客は二ヶ月ぶりのことであり、普段は怠惰に一服を繰り返している事は言うまでもないのだが。
窓外の壁を見ながら、ふと先の親子を思い出していた。あの話を終えてから大層慌てた様子で我が子を抱え、それでも代金を、なんて言うあたりは出来たヒトなのだろうが、丁寧に断った。
なにせ、男は今とても気分がいい。
店主机に置いてある、あの絵本を見て笑う。都合六十数冊とそこそこの数を重ねたが、それも漸く今回で終わりとなったからである。鉛を飲む忍耐に耐え、駆け出したい気持ちに必死に蓋をして、彼女を想った十年間。大切に思うが故、手の届かない所に来た十年間。
「…ここも引き払っちまうか…置いといても黴るだけだろうしなぁ…」
ふか、と吐き出した煙草の煙は輪を作った。そうなると善は急げ、と天使は言うが、いやいや煙草くらいはゆっくり吸わせろ、と悪魔が言う。今はただ、彼女の中の芽吹きを思って、恍惚に浸る時間である。本棚の奴らはどうするかだとか、そういった面倒は数時間後の自分に任せるのだ。
冷めた珈琲ですら、男は美味しく思えた。十年振りの春の箱庭に望郷する。そこで微笑む、老人と少女。己の根源で微笑む彼女らに、もう一度会いに行こう。
「…あぁ、ようやくだな。待たせちまって、悪かったな、要よ。」
咥えた煙草から灰が落ちる。窓の外を眺める男は、季節外れの陽気を寄せ付けない昏さで笑っていた。
そんな男の幸福を邪魔する者がある。蹴飛ばす程の勢いで店の扉をこじ開けて来たのは、一人の女性だった。
『っすー。相変わらず暗い雰囲気の店だなぁ。今日もどうせ客ゼロだろう、お前どうやって生活してんだ?』
「…余計なお世話だっての。お前さん、女ならせめて俺はともかくドア位には優しくしてやってくんねぇか?」
水を差された男は極めて不愉快に眉を顰め、対して女性はげに朗らかに男に歩み寄る。気風のいい話し方といい、それだけで彼女の一端を知れよう、というものだ。そうして彼女は、はち切れん程に詰め込まれたスーパーの袋を店主机にどっかりと置き放った。
『ははは。悪いね、生憎生来私はこんなもんだ。ま、そんな事より鉦吾。今日もメシ作ってやるよ。そこのスーパー特売で、つい買いすぎちゃってさぁ』
「…あーそうかい、そいつはありがとう。お前さんも中々にいい女だからな、三十超えて貰い手がねぇって以外はな。」
『はいはい、そうですね。んじゃあこいつ冷蔵庫に入れて来るから、上がらして貰うよ。』
憮然とした男の言葉をひらりと躱し、短く揃った肩までの髪を翻して彼女は、店舗奥、二階の住居部に続く階段を上がっていった。心底からの溜息、男は目蓋を下げて辟易する。
普段ならその鬱陶しさを数時間は引き摺るのだが、今日は違う。ふた呼吸もすれば、ほら、上機嫌に白煙が窓の外に昇る。長らく共にした此処も、彼女とも、今生の別れ。となれば少しくらい寂寥の気持ち…等、男には粒ひとつ程も無い。
俺の世界は、最初からあそこだけ。あの春の箱庭。十年前のあの日から、神々廻要の、その中にしかないのだから。