第94話 真夜中の来襲
フィオーレ夫人の素晴らしい抱擁から解放された後、俺はロザリーヌの部屋で過ごしていた。
屋敷を抜け出す時を待ちながら、ぼんやりとロザリーヌの母との会話の内容を頭の中で反芻し──時々、あの胸の感触を思い出しつつ──やがてある文言に行き着いた。
「……広っ」
ロザリーヌの部屋は、俺の部屋の何倍も広かった。
何なんだ、この部屋は……。
高い天井に、もはや日本人の一般民家ほどの面積。広過ぎて意識すると落ち着かなくなってくる。
誉れある血統を持つ貴族の生活空間はまるでスイートルーム。リビングすら高級ホテルのエントランスのようで目が痛くなっていた。
ベッドは天蓋付きキングサイズ。こんなの一生出会えること無いと思っていた。
しゃららーんとした豪華なベッドで寝やがって。お嬢様の性格も生意気なら所有物も生意気だ。
「これが本物の貴族の……同じ人間の生活かよ」
貴族と一般市民の身分の格差って、こんなにも理不尽なものと思い知らされた。
人を分ける差とは勉強の量と聞くが、これはそう頷けないっすよ諭吉さん。
あー、居るだけで胃の中がムカムカしてくる。こうなったら好き勝手してやる。
「おりゃっ!」
ベッドに大の字で飛び込みっ。そのままバウンド! おおっ、楽しいなこりゃ。
ついでにシーツに皺を付けてやる。わっはっは、良い気味だ。
「このっ、このっ……お?」
イタズラを止めたのは、訪問を告げるノック音だった。
誰か来たな。こんな時刻に誰だ? フランヴェオか? 夜中にはちょっと会いたくないなあ。
「姉さま……」
訪れたのは天使……いや、まるで天使な男の子、弟のピエルロメオだ。
はい、カワイイ。会いに来てくれて嬉しいぞお。
でも、こんな遅い時間帯に一人で来て、何の用だ?
今にも泣きそうな顔になっている。怖い夢でも見たのか?
「どうしたん……のです?」
「身勝手な僕をお許しください。今夜だけでも姉さまとご一緒に過ごしたいのです」
「ほえっ!?」
悲しい上目遣い。光の小さな粒が揺らめき、日の光を受けた海面のようだ。
天使に見紛う美少年の頼みは、爆発の衝撃じみたパワーがあった。
ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁうぐああああぁぁぁぁ!!
(可愛い……!!)
肌も髪もツヤツヤしてて、やっぱり男の子には見えない。ぶっちぎりに可愛い。
ナデタイ、サワリタイ。
カワイガッテヤリタイ。
リセイガトケソウニナル。
頭の中でピエルロメオへの願望が過り、ぐわんぐわんに反響する。
弟は怪しんでいないんだ。触っても……イイヨネ? ちょっとくらい、ネッッッ???
「姉さま?」
おおっと! いけねえいけねえ。いろんな意味で禁断の域に入るところだった。
ぅおっほん……粗相を見せてはなりませんの。ワタクシはロザリーヌなのですから弟に興奮してはいけないのです。
レトも戻った今、この屋敷に留まっても意味は無い。
寝静まった頃に屋敷を抜け出したい。だから弟の相手をするのは都合が悪いのだが……。
「だめ、でしょうか……?」
顔色を窺う、悲しきピエルロメオの感情の詰まった双眸が問う。
瞬間、サラサラと何かが崩壊した。
──それで、
(嬉し……予想だにしないことになっちまった……! )
断れるはずがなかった。
ピエルロメオの懇願を受け入れ、ロザリーヌのベッドで二人きりで寝床に入ってしまった。
ち、近い……動けば肩が触れ合いそうになる。
相手は男の子なのに胸のドキドキが止まらない。女の子と一緒に寝てる気分だ。
落ち着け、落ち着けよ俺ぇ。
相手は男の子なんだぞ。断じて女の子ではない! この子はただの美少年なんだ。
『──男でも可愛ければいいんじゃないかな?』
自分の中の一面が囁いた。
(お前、何を言って……)
『そうだろ? お前は可愛いなら男の子でもイケるだろ? そうだよな?』
(ちがああああぁぁぁぁうっ!!)
断じて違……わなく……いや、違うっ!
悪食な色欲よ、消え去れい!!
煩悩を消し去っても心臓の鼓動は冷静を取り戻せず、鼻息がすぴーすぴーと荒れる。興奮しているのをピエルロメオに悟られないよう必死に耐える。
(……ん?)
スン、スンと鼻息が聞こえる。ピエルロメオの方だ。
可愛い横顔が歪んでいる。閉じた目蓋からは僅かな光を反射する筋があった。
(泣いている……?)
涙を流していた。
しくしくと泣いている。どうして泣いているんだ?
「姉さま、僕は悲しいです。お家をお発ちになるのは寂しいです。僕は愛する姉さまにずっと居てほしかったです」
泣いていたのは、姉の事。ピエルロメオはロザリーヌの結婚に肯定的じゃなかった。
その事で泣いていたのか……。
あんなお嬢様でも、弟からはこんなに親しまれている。性格の悪いお嬢様だが、家族を愛し愛されていたんだな。
「結婚は反対です……姉さまの望まない結婚は……もっと嫌です……」
ピエルロメオは心の内を悲しみ混じりに吐露する。姉に関して我慢していたことを。
しかし、彼は覚悟を決めた。
「でも、ピエルロメオは耐え忍びます。姉さまが覚悟をお決めになったのですから……」
お、弟……!
「姉さまがいつまでも幸せでありますように──」
弱々しく、それでも気丈となって心の底からロザリーヌの幸福を祈る。それは自分を勇気づけようとする鼓舞でもあった。
いつしかピエルロメオは泣き疲れも手伝ってか眠りに入っていた。
(寝たか……)
陶器のような滑らかさのある頬には、涙の跡が残っている。それが顔の綺麗さを損ねていた。
そっと、割れ物に触れる優しさで涙を拭う。それから気づかれないよう、こっそりと部屋を出た。
「うぅ……うっ……」
走る。奔る。疾駆る。
目の前が水面の揺らめきに歪み、いくつ躓きそうになっても走る。
涙を流しそうになるのを抑え、温かいものが溢れそうになって誤魔化すように足を速める。胸中はピエルロメオへの罪悪感が占めていた。
ごめんなあっ! 騙してごめんなあっ!!
一緒にいたのはお前の姉さんじゃない! ただの一般市民の神様なんだっ!!
あの時、隣に居たのがロザリーヌだったら感動的だったろうに……この事は誰にも言えない秘密にしておこう。
すまない、本当にすまない、とピエルロメオに届かない謝罪を心の中で唱えながら、ひたすらに走り出した。
「……これだけ離れば十分か」
足が悲鳴を上げ始めた時点で走るのを止めて一息つく。涙は既に出し尽くした。
変装用の札を剥がし、踵を返して遠くにある屋敷を見据える。
フィオーレ邸から抜け出せた。これでミッション完了だな。フィンチのアトリエに帰ろう。
……というか、これからロザリーヌはどうする気なんだろうな? 逃げ続けたところで簡単に婚約が破棄にも延期にもなるはずもないだろうに。
まあいいか。あいつはあいつでこれまでのように逃げ隠れしてやり過ごすだろう。いつまでやり過ごすのかは俺の知らぬことだ。
「──キュッ、キュッ」
「お? 来たな」
トテトテと地面を軽く蹴って現れる小さな獣。背中に着替えを巻き付けて駆けるのはレトだ。
脱出した後、荷物を持って合流するように予め指示をしておいた。
これでようやく着替えれる。この胸のスカスカなドレスともおさらばだ。
着替えを済ませて、もう一度屋敷のある方を見つめる。
「……じゃあな」
さらばフィオーレ邸。さらばフィオーレファミリー(当主除く)。ごく短い間だったが楽しませてもらった。
ピエルロメオ、お前の思いと涙は忘れない。それからお母さんの素晴らしい胸の感触も忘れない。
「そんじゃ帰るぞ」
「キュ……キュッ」
「どうした?」
さあ帰ろうとした時、異変は起きた。
レトが耳をピクピク動かし、周りを見回している。何かを感じ取っているようだ。
「ひっ! だ、だれか来てくれぇ……っ!!」
それは待たずして来た。
悲鳴。恐怖を宿し、助けを求める声が轟く。レトの耳に引っかかったのはこれだ。
「なんだ……?」
誰かが襲われている。場所は近い。
妙だな。そこは警備のしっかり行き届いた区域。一般市民が住んでいる区域より安全なはずだ。
変人や暴漢が現れているんでもなかろうに。一体何が起きているんだ?
レトが走り出し、その後を見失わないよう追って通りを走る。
「あ……!?」
前方に人と──何か。
そこには……夜警をしていた騎士と、四足歩行の生き物が脚に噛みついていた。
「うわあぁぁぁぁっ!」
抵抗──されど応戦には出ようとしない──して振り放そうとする騎士。その近くには、もう一人騎士が倒れている。傷を負って意識を失っているのか起き上がる様子は無かった。
襲っている生き物は野良犬でも、そして猛獣でもない。ただの獰猛なだけの生き物とは括れない。
何故なら、それは──この街の中には居ないはずのモンスターだったからだ。
「嘘だろ!?」
信じられない、と思考が言葉に変換された。
なんで街中にモンスターが? どうやって侵入したんだ?
「助けてくれえ……!!」
いやいや、悠長に考えている場合か。原因を調べるのは後だ!
「レト、行くぞ!」
考えるのを一旦止めて動く。早く助けに行かないと、あの騎士がやられる。そこに倒れている奴も死んでないといいんだが……。
「おいっ!!」
『グルアゥッ?』
「こっちだ!」
声を張り上げ、騎士から離そうとモンスターの気を引く作戦に出る。ありがたい事にモンスターは俺達に気付き、意識を移した。
標的を変え、四本の足が地面を蹴る。
来い──!!
突風となるモンスターを迎え撃とうと、武器を手にしようとした……のだが。
「……ん? あれ?」
馴染みのある感覚が手に来なかった。
何度繰り返しても空気ばかり掴んで、求めていた手応えは得られない。
心臓がきゅっと締まった。
武器が……ないっ!!
「おぉい! 武器がねえぞ! なんで持ってきてないんだよっ!!」
「キュキィッ!」
吠えて抗議するレト。ワガママ言うな、とでも訴えているのか?
服を運んできておきながらダガーを持ってこなかったらしい。着替えた時点で気付けばよかったあ!
これじゃ戦えないじゃん。はい、オワタ……って、来たあ──!!
『グラアアアアゥッ!!』
跳躍し、モンスターが歪な顔面を大きく裂いて牙を剥ける。
標的は一切の武器を持っていない俺だ。
「うわっ!」
突進からの体当たり。身体がよろめいて、相手を見失う。
次に捉えた時は、モンスターの口が迫っていた。
左手が……ダメだ。間に合わないっ!
「がっ! ぐわああああぁぁぁぁ!!」
痛みが走る。目眩ましを出す前に、いくつもの牙が首元を刺突して穿った。
噛みつかれた……!!
モンスターの顎が噛み付き、より深層に先端を埋める。
「ぐ、ううぅ! う……なーんてな」
『グッ!?』
明らかに驚いた反応があった。
ボン、と白煙が立ち込めて霧散。次の場がはっきりした時には展開がまるっきり変わる。
モンスターが噛みついたのは俺……の上着だ。
はい、残念でした。噛みついているのは本物ではありませーん。俺はこっちにいまーす。
スキル『変わり身』による偽物。いざという時に備えたスキルだ。消費するには勿体ないが割り切ろう。
「ちょっと借りるぞ!」
地面に落ちていたロングソードを拾い、走り向かう。一杯食わされたモンスターもまた迫った。
ダガーと比べると重くて取り回しが悪い。無いよりは断然良いのだが。
「ぉんらああああぁぁぁぁっ!!」
これでもっ、喰らいやがれ──!!
『キャイッ!?』
重めで大ぶりな軌跡を描いた。
高い獣声が響く。リーチの不利なモンスターは斬撃をまともに受け、地面を転がった体はぐでんと力を失って動かなくなった。
倒したか……。
尖端で突き、絶命を確認。しかし、一息ついた次には違和感が浮かび始めた。
妙だ。街中でモンスターに出くわすとは穏やかじゃないな。コイツは何処から侵入してきたんだ?
ただ夜中に街に侵入してきた、と決めつけるのは早い気がする。まだはっきりとしていないが別の要因がある気がする……。
「おい、大丈夫か! 声聞こえるか?」
「うぅ……」
「こいつは僥倖。あんたは取り敢えず仲間を連れて退避して。それから応援を呼んでこい。まだ近くに何匹かうろついてるかも」
「あ……ああ、分かった」
状況に呆然としたまま、それでもなんとか頷いた騎士は、まだ意識のある仲間を引き連れて退散を始めた。
騎士の姿が見えなくなった後、それは起きた。
「殺しちゃったの──?」
危険の臭いが消えない場に相応しくない、純粋さのある少女の声が聞こえる。
それは高所から見下ろしていた。
「あれは……!!」
屋根の上に、少女が立っている。
出た──。
昨夜水の中に引きずり込んだ、異形の少女。フィンチの言っていたマープルという言うヤツだ。
見間違いじゃない。あれだけ捜していた子が現れるとは……!
「フー、フウ……ッ」
マープルは乱れた息遣いを繰り返し、睨んでいる。
興奮している。荒ぶっている。今にも襲い掛からんとしかねない危険な兆候を見せている。
死骸を見て、ターゲットを見定める。それに捉えられた対象に怨恨じみたものを送っていた。
険の極まる、まるで親の仇を見る目だ。
なんで……まさか、モンスターに関係している? コイツを殺したから怒っているのか?
「ま、待て……!」
「オマエ、オマエッ! オマエェェェェ!!」
怒りと憎しみに吠えて、マープルは空中を滑った。
小さな体が地に着地して走る。体格は子供と変わらないが、動きはそれからかけ離れている。悪魔に憑りつかれてでもしなきゃ出来ない。
(やはり、これは……)
襲撃を躱しながら思う。
どう見ても闇夜に映るマープルは人ならざる姿形だが、子供そのものだ。
「レト! コイツは俺に任せろ!」
「キュ?」
マープルに会ってみたかった。そう決めた。
だから、戦わずに終わらせたい。どうにかして抑えないと。
「アッ!? ウアゥッ……!!」
左手からの閃光をまた浴びせる。マープルは眩しい光をまともに喰らった。
目元を抑えて怯む。水中の時は違う、大きな隙だ。
その隙を縫って……マープルを背中から腕で拘束した。
捕まえた──!!
くっ、滑る……水の中にいたからかヌルヌルしてる。しっかり抑えてやらないと──
「ぁぐあぁっ……!?」
激痛が少女を拘束した腕を貫いた。
腕を噛まれている。マープルが拘束を解こうと、噛み千切ってでも抵抗している。
いででっ、すげえ痛い……!
「ウウウウゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
「つぅ……!」
少女の歯が腕に、より深く食い込む。噛む力が強くなるのを、腕に走る鋭い痛みによって知らされた。
どんどん強くなって……噛み千切られそうだ!
かと言って離したら、どうなる? また俺を襲いに来る? それならまだ良い。
だが、逃げたのなら……いつかは知らない誰かを襲うことになる。
だから耐えて、抑えるんだ。離してやるかよぉ!
「痛……俺はっ、お前の敵じゃ……ないっ!」
話し掛けてもマープルの様子は変わらなかった。
落ち着かせよう。コイツに敵じゃないって行動で伝えてやるんだ。
「よしよしっ、良い子だから、な……!」
噛まれていないほうの手で頭を撫でてやる。噛まれながらも撫で続ける。
泣き喚く子供を宥める優しさで。
「フーッ、フー……」
抵抗が弱くなるのを、身をもって感じた。
顎の力が弱まり、暴れていた四肢は力を失っていた。
通じた……?
これは落ち着いた……のか?
慎重に拘束を解いてみる。呆けているのか特に目立った行動はしない。
少しの間の後、マープルが振り向く。その仕草は興奮や殺気が既に消え去っていた。
「……今の、もういっかいやって?」
異形の少女は、暴れていたのが幻なくらいに様子が急転していた。
変わり過ぎていてキョトンとしてしまった。
「ねえ、やってよ」
「あ、おう? これか? これが欲しいのか?」
また頭を撫でる。マープルは自分の頭を撫でられる感触を味わっている。
驚いているような心奪われているような反応。「うにゅ……」とも心地良さそうな声を漏らした。
上手くいった……。
襲ってきた時はモンスターそのもの。でも、今は……ただの子供じゃないか。
自分に襲いかかってきた者の頭を撫でる。そんな奇妙な時間がちょっとだけ続いた。




