第41話 蛮勇か、敢勇か
「マヌケが……!」
ロギニが汚らしい笑みを刻み、足を急かす。背後にネメオスライアーを連れて。
シンジの声が微かに聞こえた。理由は知らないが怒鳴り声だった。
そして足元には、血が点々と続いている。闇に慣れたロギニの双眸が夕闇の下でもはっきりと捉えていた。
馬鹿め、と嘲笑が冷たい空気に投じる。
血は女の血だろう。急いで逃げたせいで親切に証拠を残してくれている。童話の兄妹が石を使って道標としたように、一滴一滴の血がシンジ達の潜伏場所への道程を示している。駒の嗅覚に頼る必要も無い。
血と血はやがて距離が短くなる。走るのをやめた証拠だ。
そう遠くない場所に女が居る。という事は……シンジも居る。
逃げ切れなかった……人一人抱えれば逃げ切るはずもない。もしかしたら女を放置して逃げた可能性もあり得なくは無いが。
そうなったらそうなったで女を殺し、シンジをどこまでも追ってやろう。
彼に逃げ場所は存在しない。
「……そこか」
点だった血は線となり、線は進むにつれ幅広になる。一本の樹の根元まで続き、裏側に終着する。
そこから先に血が続いている痕跡は見当たらない。
確信を得たロギニはネメオスライアーを待機させ、一人歩む。
灰色の自顔に妖笑を含ませながら。
姿を見つけたら「見いつけた」と言ってやろう。
恐怖を植え付け、いたぶって惨めな死を与えよう。
シンジが現れて抵抗したらネメオスライアーを呼んで喰い殺させてやる。
隠れんぼは終わり。そして共々に死んでもらう。
ゲームセット。いや、ゲームオーバーだ。
さあ、ご対面――
「………………あ?」
いない……。
ロギニが視線を注いだ樹の陰に映るはずの姿はどこにも無かった。
誰もいない。シンジも女も、奇妙な生き物も……。
注意して見ると血が途中で途切れている。ぷっつりと途切れてそこから何処にも移動した跡が無い。
まるで神隠しにあったようで、ロギニは辺りを見回す。
逃げられた……?
「――誰を探しているんだ? 間抜け」
声が無音を貫く。他の誰でもない、シンジの声だ。
「俺なら此処にいるぞ」
再び聞こえた声は背後から生ずる。ロギニもネメオスライアーも振り返った。
樹の横に立つ人物は、自分達が探した者……シンジの姿があった。
わざわざ姿を見せるとは、遂に頭がトチ狂ったのか――と思いきや、彼の佇まいは何かが変わっていた。
少なくとも前とは違う。自棄とか狂気に憑りつかれた様子は無い。
ネメオスライアーをも視界に入れるその眼は、恐れや絶望が消え去っていた。
怯える様を欲していたロギニは、シンジの変わり映えした雰囲気に面白くないと思ったのか嗜虐的な笑みを失う。
「……女はどうした? どっかに捨てたか」
「フィーリはもう逃げたぜ。ここに居るのは俺一人だ」
逃げた? それは不可能だ。
あの状態で逃走するなど無理に決まっている。人の手を借りなければ逃げる事は出来ない。
よってシンジの嘘。どういうトリックを使ったのか知らないが、今でも女は何処かに必ず潜伏している。ハッタリをかましているとロギニは捉えた。
女を痛め付けてやれないのは残念だが、ロギニの目的はシンジ。放置したのかは知らないがこの際放っておこう。
どのみち女は助からず死ぬだろうから。
しかし……あの様子は何なのか。まるで腹を括っているようではないか。
「これから先は――俺が相手になってやる」
恐れを捨てたシンジは、己の手に握られた刃を向ける。
戦闘態勢に入る彼の姿を見たロギニは瞼を剥き、裂いた口から呆れるような笑い声を溢した。
「知ってるぜ。そういうの蛮勇って言うんだよ」
まさか一人で立ち向かってくるとは予期し得なかった。
意外な行動に笑いさえ声に出してしまう。予想付かなかったのもそうだが、シンジがネメオスライアーと戦って勝てるはずもないからだ。
無謀あり行動。彼の行動は永遠に果たせない。時間を掛けずにネメオスライアーに大敗を喫する。そして……無様な最後を迎える。
目に見えた結果へ至る意味無き行為。だから蛮勇なのだ。
だが、シンジの秘める念は決して揺らがなかった。
「蛮勇かどうか、そんな事はこれから試してみればいい」
「ハァッ! お前に何が出来る? あんな情けねえザマ見せてさあ!」
「……フィーリは、俺の為にあんな状態になってまで守ってくれた。だから次は……俺が救ってみせる」
「あぁ? 何を言ってるんだ?」
誓うようなシンジの言葉の後半はロギニの耳には届かず、首を傾げさせる。
シンジは顔を上げ、熱き想いを宿らせた眼で睨んだ。
「お前達をぶっ飛ばすって言ったんだ――!」
刹那――シンジの輪郭が揺れ動き、彗星となる。
次に異変が起こったのは、ネメオスライアーの体躯が大きく傾いた時だった。
呻き声さえ飛ぶ。ネメオスライアーの咆哮だ。
「は……!?」
ロギニの思考が追い付かなかった。何が起こったのか分からなかった。
気が付いた時、ネメオスライアーが煌めく閃の一撃を受けていた。
今のはクリティカルヒットなどではない。シンジの通常攻撃だ。特に変わり映えのない行動が、現実離れした速さとパワーを含み凄烈なダメージを加える。
些末な攻撃を通さない鎧のような筋肉が、斬撃の痕を身に付けた。
「っ……おりゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
『グルァッ……グッッッ!!?』
汚らわしい血が生み出るよりも前に、シンジが螺旋する角を掴み……なんと投げ飛ばしてみせた。
常人では持ち上げる事も困難な巨躯が投擲物のように飛んでいく。無数の樹がネット代わりに受け止めた。
折れた樹に身を預けたままの有様を前にして、ようやくロギニが現実を認める。
「なんだあのスキルは……!?」
驚愕を滲ませるロギニの双眸には映る。シンジに異変をもたらした要素が。
気付かぬ内にシンジが身に付けた新スキル『ライズアップ』。
モンスターを倒し、フィーリを救いたい意志が結んだこのスキルの効果は『《パラメーター1》、《パラメーター2》の各パラメーターがアップする』。
それも微々たるものではなく、意志の熱量によって増幅する特長があった。
まさしく圧倒的有利な効果を与えるスキル。彼のパラメーターは驚異的なまでに上昇していた。
【体力】はより持久に、【筋力】はより剛強に、【耐久】はより頑強に……残る全てのパラメーターもフィーリに匹敵或いはそれ以上に増大している。
フィーリを守る、という意志を源に。
『グアルァアアアアァァァァァァゥウッ!!!』
ネメオスライアーが起き上がり、シンジと交戦する。
鈍い衝撃が空気を揺るがし、間隙を縫うような刃の流れが閃く。
木の葉や枝幹を塗布するは何れもネメオスライアーの黒血。シンジは一度も手負うことなく猛攻を続けざまに浴びせ、四足の巨体を翻弄する。
獲物を狩る猛禽のごとく躍動は、もはや新米の討伐者の動きではなかった。
斬り裂き、殴り飛ばし、飛び跳ね、駆け抜き。ネメオスライアーを駆逐せんとするその動きはただの一度も無駄が生まれない。
フィーリは戦えない状態にあり、レトは彼女を傍で守っている。
つまりは一切の支援も無い状況に、シンジは毅然と肉薄する。
ネメオスライアーが焦燥に吠え、周囲で疾駆するシンジを叩き捉えようと暴れる――が、反撃のことごとくを躱され、ダガーの新たな軌道を被る。
飛び回る虫を仕留めきれないように、シンジを捉えることの果たせないネメオスライアーは、四方八方から襲う軌跡を受けるだけの肉塊に陥った。
「いつの間にあのスキルを、どうやって……!」
一方的なまでの激戦は少しずつ場を移す。何かから離れるように。
焦りを浮かべるロギニも彼らの後を追った。
――シンジ達が何処へ去った後、途切れた血の場所で。
それまで無色透明だった身体が色付き始めた。




