第106話 怪物の産声
「落ち着け。やめるんだ」
仮の顔に隠されていた者──シンジの素顔が露になる。
予期せぬ再会だった。この屋敷で会うとは考えつかなかった。
唇を赤く染める血は、その腕に抱え止めた少女に与えられたダメージから生まれたもの。バルガーネを欺いた変装が仇となった。
辛うじて即死を免れた。まだ動けることを自覚したシンジは血に飢えたこの凶爪を拘束する。
誰も傷付けさせない。ビィビィを守り抜く。
なぜバルガーネの屋敷に居たのか、なぜ暴走していたのかは知らないが、この浴び血と矢の刺さった酷い姿。なんであれ放ってはおけない。
『ァ……ガッ……!?』
自分を止める男の呼び掛けにビィビィは硬直。あれだけ奮っていた暴威は嘘のように静まっていた。
この声を聞いたことがある。いったいどこの誰だったか。
優しくて、温かくて、心地よくて……なのに、よく思い出せない。
苦悩する。懊悩する。頭が痛い。
何かが出かかっていて、見え隠れしていて、けれど出てこず混乱が止まない。この男に耳を傾けてはならない時だというのに足が止まってしまう。
コロセ、コロセ。
アノオトコヲ、コロシチャエ。
コロセ────!!!
『ギッ……!!』
それでも動かない。指も足もプルプルと震えているだけ。全身が抑制されているように上手く機能しない。後ろの男のせいだ。
本当にこの男は何者なんだろう。
「それでいいんだ。それで……」
自分の傷を顧みず、シンジはひとまずの安寧の域に。
殺されかけた危機を思いがけない横槍に救われたバルガーネ。目の前で行われる奇妙なやり取りを呆然と見ていたが、これを眺めて立ち尽くすだけで終わらなかった。
唇が裂け白い歯が覗く。欲望だけが剥き出される。
「いいぞ。あの者が抑えている。ただちに収容しろっ!!」
地下の牢獄から逃げ出した特殊なモンスターの動きが封じられている。この好機を逃せない。
命令が下る。シンジとビィビィが囲まれ、刃の並々が円を描いてズラリ。刃を向けられたシンジに更なる焦りが訪れた。
「暴れるのであれば多少は傷付けてもよいっ! そこのお前、しっかり止めておけ」
「本気かよ。この子はお前らのモンじゃねえだろ!!」
怒号と共に睨まれたバルガーネは、しかし揺らぐことなく顔を見て訝しむ。
「貴様は先の……? 脱走したというのか?」
「そんな事はどうでもいいっ。だけどなあ、収容しろってのは聞き捨てならねえな。化けの皮が取れてきたか?」
「耳障りな言い掛かりを……貴様だな? それを逃がしたのは。汚らわしい侵入者め。このバルガーネのコレクションに手を付けるとは重罪にあたるぞ」
侵入者なのは間違いないが、こうも言われると呆れてしまう。隠し通せると思っているのだろうか?
「お前、モンスターを捕まえてんだろ? この屋敷に何匹も何匹も……予想は合ってたみたいだな。この子から聞きゃ色々と分かるはずだ」
「ほう、それが何だと言うのだ? 貴様のような庶民に何ができる? 一人でこのバルガーネを相手取るとは愚かなものよ」
「言っておくが、この事はもう告げ口してやった。もうじき此処に迎えが来るぜ。アンタを捕まえる迎えがなっ!」
じきにテレサがフランヴェオを連れて現れる。その時が破滅の訪れ。
終わりが来ている。しかし、バルガーネは嘲笑を唾棄した。
由々しき問題は無い。あの手この手と違法な手段を用い成り上がった上昇志向は、堕落に肥えた身体に抱えた野望は止まらない。
フィオーレ家を含んだミーミルの貴族どもを足蹴にして自らが頂点に立つ。由緒正しき貴族の血筋を持つ花嫁を手に入れ、家を絶対のものとする。コレクションとして集めていたモンスター達は手駒として飼い慣らすつもりだ。
「ほほう。では……此奴を殺せ。絶対に外に出してはならんぞ」
狂気の色が目に映る。逃がさないという意思が追い詰めようとする。
おい、とバルガーネがシンジ達に指を差す。
周囲にいる者の内、一人が詠唱を行う。魔術を行使する詠唱を。
その矢先にはシンジ達がいる。彼らを標的に定めて編み込まれる。
詠唱の間に場を離れることはできなかった。実際にはシンジ一人で必死になれば逃げることもできただろうが、その選択は愚の骨頂だ。
ビィビィを守る。それがシンジの足枷となる。
瞬間、強い発光が火花を生んだ。
炎の魔術が発動する。花弁が開き、対象であるシンジ達を体内に絡め取る。高熱が彼らを焦がした。
野望を腹に抱えた者達の囲う円の中心でシンジ達は燃える、燃える。
これでもビィビィは苦しむだけ。その身に備わった生命力は高く、熱傷では容易に死に至らない。
「ぐ、ううぅ……! あああぁ……!!」
深刻なのはシンジだ。激しい酸化現象の再現が重度の火傷として彼を蝕む。皮膚が焦げ、血肉が焼かれ、それでもビィビィのことだけを考えていた。
その身から力が失せていく。炎が彼の命を吸い取っていく。
弱い人間だからこそ訪れる。死の時が。
「ビィ、ビィ……」
「なに、あれ……」
買い物に足を運んでいたフィンチが異変に目を留めた。
休息に腰を下ろしていた湖岸の先、湖を挟んだ反対側に見慣れない物体がいつの間にかあった。
物体はかなり巨大なものと判別できる。ウニョウニョと形を変え蠢いていたそれはちょうどバルガーネの屋敷の位置に留まっていた。
また蠢いたかと思うと、建物を浸食し──面積が、体積が増していく。
砂城を壊す過程を眺望するフィンチは、それが現実の出来事と漸く受け入れた。
警鐘が鳴る。非常事態を告げる。
これが異常と割り切れない市民が避難を始めた時には、既に遅かった。
巨大な物体が現れる少し前──
「ア、ア……」
燃ゆる炎の中、ビィビィは見た。自分を守る者を。
一枚の皮同然の朦朧とした意識となりながら、それでもシンジは化け物を見据えていた。
「ビ、ィ……ビ……」
炎に巻き付けられても呼び掛けてくる。自分に与えられた呼び名を。名の無かった自分に初めて与えてくれた名前を。
なおも救おうとした男は意識を閉ざし、事切れた。
男が誰だったのかは、まだわからない。けれど、その人に強く惹きつけられている。
「アァ、アアァ──」
この身を抱いた者は火傷だらけの人形となった。
息が乱れる。ビィビィの表情が悲痛に歪む。なぜだか苦しいのが溢れてくる。知らない──知っているはずなのに──目の前の男が死んでいるのがひどく辛い。
思い出せないけど、カナシイ。思い出せないのがクルシイ。
心はぐちゃぐちゃに、真っ黒に染まる。
ドウシテワタシノタイセツナモノハナクナッチャウノ?
ドウシテコノセカイハワタシヲクルシメルノ?
ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ……!!
「アアアアアアアアァァァァァァァァ────ッ!!!!」
慟哭が世界を震わせた。
運命を揺るがす絶望は呼び水となる。
ズシン、と強い揺れが起きた。
ガタガタと屋敷中に震動が刻まれる。地の怒りの発現と紛う地響きは、しかしこの一点を中心に集中する故意的なもの。
「な……なんだ、これは……!?」
上階が破壊され、天井が剥がされる。各々が仰ぐ先には空の代わりに異形の不定形物が覗かせていた。
『────』
唸り声はなく、圧倒されるだけの迫力が彼らに落とされる。
巨大な物体はビィビィの友として心を許していたもの。シンジがスライムと形容し、アプスを救おうとしていた彼らを払い除けたもの。
彼らはいなくなった友を心配し、川を下り、湖に出て分散し、水路を上り、ここまで来た。
ミツケタ──。
眼無き巨顔がビィビィを見下ろす。
泣いている。苦しんでいる。叫んでいる。
どうしてこうなった? 誰が泣かせた? 誰が傷付けた?
ニンゲンが居る。近くにヒトがそこに立っている。
彼らが傷付けた。あの子を泣かせたんだ。
ゆるせない。ゆるさない。
覗き込むようにしていたスライムの一部が崩れる。悲嘆に吠えるビィビィを掬い取ろうと肉塊をゆっくりと垂らす。規格外のサイズが落とす粘液は災害クラスの規模だ。
「ま、待──!!」
バルガーネの身体がすっぽりと消える。何もかもがスライムに包まれ、かき消された。
粘液の濁流は屋敷を粉微塵に圧壊し呑みこんでいく。
ビィビィも、シンジの遺骸さえも。
屋敷の前にテレサ達は立っていた。
ロザリーヌの兄フランヴェオを連れ、シンジ達の居所に向かったテレサ。バルガーネの悪事を暴こうとした先、正体不明のモンスターの出現に出くわしていた。
テレサ達の前で巨大スライムが暴れ、威勢を張るような豪華な建物が崩れる。自ずとテレサは向かおうとし、フランヴェオが引き止める。
「行くんじゃない。避難をするんだっ!!」
「あそこにはシンジさんが……!!」
「逃げるんだっ!!」
シンジもレトもあの中にいる。フランヴェオの妹も。
テレサ達の前でバルガーネの配下が一目散と破壊される屋敷から避難する。人の波が一旦途絶えた、その奥から──
「ロジー……!?」
フランヴェオは目を疑う。行方不明のロザリーヌが悲鳴を上げ、レトを先導に走っている。
レトのフォローでバルガーネから逃げ隠れ、今度は浸食するスライムを背に必死に逃げる。速度を緩めれば追いつかれてしまいかねない。
「ロジー!!」
「兄様……っ!!」
絆が深いほど空白を長く感じる再会。場違いではあるが姿が見れたことを兄妹は嬉しく思う。
あのウニョウニョとしたものの追跡を振り切ることができれば──
「え?」
暗い影がロザリーヌに重なる。頭上にスライムの手が伸びてきていた。
追いかけっこは終わる。兄の前でスライムの波は無情にもロザリーヌを掻っ攫った。
呑みこまれたビィビィはスライムの中枢に取り込まれていた。
ブヨブヨとした軟体物質の小宇宙。その中央に移された少女に四方八方から無数の声が囁く。
──ネエ。
──ニンゲンッテ、コワイ?
『こわい』
──コワクナイヨ。
──ドウシテコワイノ?
『みんな、わたしをいじめてくるから』
──イイコトモアルヨ。
──ジャア、コワイモノハカイシチャオウ。
──キミノコワイモノヲスベテ。
『……ソウダネ。コワシチャオウネ』
怪物は頷いた。
──ヤメヨウヨ。
──コワシチャエ。コワシチャエ。
──ニンゲン、コワクテオソロシイモノ。
──アレラハボクタチヲウンダモノ。
──アレラハボクタチヲミステタモノ。
──ボクタチワタシタチノ、テキ。
──ヤメテ、ヤメテ。
『……ココニアルモノゼンブ、ハカイシチャエ』
純粋な心は歪む。一方的な敵意に憑かれる。
怪物とスライムは一つになる。ヒトへの憎悪を原動力にして。
体色はよりどす黒いものへ変貌し、体積が膨大する。
外縁部に大木に相当する手足のような器官、触手があらゆる位置から生える。中心部にはドクロを思わせる顔が形成された。
『────────!!!』
重く低い咆哮がミーミルの全域に放たれた。
スライムが新たなカタチを具現する。
巨躯の肉塊、『ジェリースクイドル』はここに産声を上げた。
怨嗟をもって生まれた巨大モンスターの本能は一つ。憎らしいニンゲンを殲滅、美しさと醜さを兼ね備えたこの街を破壊すること。星の数ほどの小さな怨念が敵意を眼下に箱庭に向ける。
ぐんと天を向いて伸び、口と思わせる器官が形成される。
大きく裂くと、口内から何かを吐き出した。
口から空へ向かって吐き出される無数の芥子粒。それはジェリースクイドルが街を進行した道程で巻き込み、またはバルガーネの屋敷の地下牢に捕らわれたもの。体内に吸い取られた大量のモンスターが街の四方八方に飛び散った。
吐き出された異形の数々は路に、家に墜落する。
これだけで数多くの被害が起きたが……その中に死を免れた多数の個体が起き上がった。
殺戮の宴は始まる。断末魔の叫びを飾りに。
美しさと華やかさをもった水の街は破壊と殺戮が蔓延した。
悲鳴が重奏し、ミーミルのあらゆる場所で人が、街がモンスターに蹂躙される。
フィンチは走る。安全な場所を求めて走り出す──いったい何処へ?
ミーミルはどこもモンスターが徘徊し、人が襲われている。あの巨大なモンスターも動き出している。
どこに安全な場所などない。安らげる場所はない。忙しなく動かしている足から力が失せた。
「ひっ……!?」
フィンチに魔の手が迫る。現実離れした絶望に現を抜かし立ち止まっていた間にモンスターが背後に現れたからだ。
殺される──。
意識が自分の死を悟る。はっきりしたとした意識が。
……手応えのある音がしたが、それは自分の命が終わる瞬間ではなかった。
血が飛び散っている。自分の血ではなく黒い血が。
顔を上げてみれば、フィンチを襲おうとしたモンスターが倒れている。
生きている……?
剣だ。剣を握る青年が立っている。彼がフィンチを救ってくれたようだ。
「……」
青年はただ無口。斬ったモンスターの死体を俯瞰し、フィンチには気を遣うこともしてくれない。目もくれず巨大なモンスターの佇立する湖の方向を見る。
氷のような冷たい瞳、モンスターが跋扈しているというのに無感情。何一つ心を揺り動かされていない。しかし、冷めていると決めつけるに難く、曖昧だが優しさがある。
助かったことを感謝したくて相手の静黙に押されてしまうフィンチであった。
変わった雰囲気の男だった。
邪魔だから殺した? そうでもない。金になるから狩った? そうでもない。ひと目では闘うことを求めていないのが感じられて余計に特徴が掴めない。
「貴方は……?」
フィンチの質問に青年は耳を傾けない。あの巨大なものにしか興味がないようで、この後のフィンチの運命はどうでもいいのか立ち去った。
……少し歩いて、青年は溜息をこぼす。
残っていたせいで厄介なことに巻き込まれた、と。
その男は、カルドと呼ばれる男だった。




