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多治見翔一の苦悩 【SABAKI】外伝

作者: 吉幸 晶


     【TEGATA】



 六月、七月の梅雨は空梅雨に終わり、各地で晴天が続き気温も夏日が十日以上も続いた。気象庁は平年を十日も早まる、七月十日には梅雨明けを伝えた。その後八月の上旬までは晴天が続き、恒例の雨不足を、新聞やテレビの天気予報が伝え始めた矢先、日本全国で天候が大きく荒れ出した。

 世間では盆休みに入り、夏のレジャーが中心の観光地は、書入れ時の繁盛期を迎えたが、それに合わせたように雨が降り始めた。

 降り始めは曇天の中で小雨程度であったが、時よりゲリラ豪雨となり、山や河川への雨量は、各自治体で設定している、安全基準値を大きく上回る事も度々有った。

 政府は河川の氾濫や地すべりなどの自然災害での、非常事態宣言を八月二十九日に発令して、各自治体へ、速やかに国民の安全確保の優先を指示した。

 天気は曇天と荒天を繰り返し続け、九月に入った頃には、大雨の影響で、危惧していた通り、河川の氾濫や土砂崩れなどが全国の広範囲で起こり、毎日のようにテレビのニュースで河川の水が住宅を襲い、住人が避難する姿を映し出した。

 天気予報では、必死の呼びかけが続けられた。それに平行して、天候不順による農作物への被害も出始め、秋以降の野菜の高騰が予想された。


 その長雨は、そのまま九月中旬にまで及んだ。関東地方では、観測史上でもっとも長い二十六日連続の雨天となり、天候不順は十月に入っても続いていた。

 水害は長雨だけでは終らず、時期遅れの台風が立て続けに発生しては、太平洋沿岸を直撃した。当然、先の長雨が効き、土砂崩れが多発して、多くの住民が自宅を追われた。河川の氾濫と土砂崩れによる犠牲者は、太平洋沿岸で百人を越え、避難者は千人を上回った。


 東京都内で、土砂崩れや河川の氾濫などが起こりそうな場所の、住人の非難の誘導や避難場所の設置、留守宅への空き巣の警備など、多治見を始め生活安全部の署員と職員までが、九月の公休を返上してその対応に追われた。

 十月も終わりに近付くと、やっと天候も落ち着きだした。すると今度は、晴天が日本の空を支配し、気温も平年を上回る二十度台が続くようになった。

 この異常気象に、地球の終末を唱える宗教団体が現れた。

 政府は不安を煽る行為だと、その教祖と教団へ厳重注意をしたが、一部のマスコミがその宗教団体を擁護する放送をすると、世界の終末に同調する者が、SNSで政府を非難し炎上し、政府は国民の安全よりも火消しに時間を費やした。

 一方、多治見達生活安全部では、避難場所から自宅へ戻った住民からの、空き巣の被害届けが予想以上に多く、火事場泥棒という非人道的なコソ泥達への怒りが、捜査員達の気を高めた。

 犯人への憤りを高める捜査員を抑えるかのように、多治見は被害者に寄り添いながら対応をするようにと、捜査会議の度に言い続け、その甲斐があってか、被害者から、災害と空き巣被害を悲観した自殺者を出す事無く、少しずつだが、平静な生活を取り戻しつつあった。


 多治見自身も、十一月に入り、妻の美佐江と娘の奈美の一周忌を無事に済ませて、私的にも一区切り付けたところでもあった。

 長雨が(もたら)した災難を乗り越え、都民が何とか通常の生活に戻りだしたのは、十一月も半ばに差し掛かった頃であった。

 半月振りに公休が取れ、自宅の掃除に溜まっている洗濯物、食糧の買出しなどに追われていた。その日の午後、三時過ぎにコーヒーを淹れて、居間のソファに腰を降ろした。一口コーヒーを啜る。

「美味くない――」と呟き、テレビ脇のカレンダーに目が向いた。

「早いな。もう五ヶ月か……」

 【TEGATA】が事故に遭い、入院して五ヶ月が経っていた。

 思い返せば、【SABAKI】を五六(いつむ)へ引継ぎ『奉行』となって、四ヶ月が経とうとしている。

 多治見は『奉行』として【TEGATA】へ、そろそろ先手組組頭を【FUMI】へ引継ぎ、重荷を下ろさせたいと思っていた。

 マグカップをテーブルに置くと、『葬』のスマートフォンを手にし【FUMI】へ電話を掛けた。

「今、大丈夫かい?」電話に出た【FUMI】に聞く。

「はい。大丈夫です。何かお急ぎでしょうか?」

「【TEGATA】の見舞いに行こうと思ってね。」

「ありがとうございます。しかし私にやっと会って貰えるようになったところです。『奉行』にお会いするのは、大変難しいと思います。」と、やんわりと断りを入れた。

「大丈夫。【TEGATA】は、この時期に僕が行く事の意味を理解して、拒まない筈だ。先手組組頭として。」

 多治見は心配する【FUMI】に断言した。

「では【TEGATA】にお伝えいたします。」

「日時は任せる。連絡を待っています」

「御意」

 沈んだ【FUMI】の声が答え、通話は終った。


 見舞いの日は十一月の終わりであった。天候は相変わらず、晴天と雨天が数日置きに繰り返していた。

 見舞いの当日は朝から曇天で、時より本降りの雨が、降ったり止んだりしていた。その中を、多治見は【TEGATA】が入院している病院を訪れた。

 病院の待合室で【FUMI】と落ち合った。人が少なく空いている席を選んで、多治見が座ると、その隣に【FUMI】も習って腰を降ろした。

「【TEGATA】はどうしている?」座るとすぐに多治見は訊いた。

「相変わらずです。」と俯いて答えた。

「『奉行』が亡くなった事や、僕が『奉行』になった事は?」

「まだ伝えていません――。でも警視庁テロの事は、テレビで観て知っていると思います。」

「そうだね。面会はできるのかな?」

「少しお待ちいただければ、『奉行』が見えていると伝えてみます。」

「頼む。」



 【FUMI】の案内で、【TEGATA】の病室が有る階の面会スペースに入った。平日の午後三時という、面会には少し早い時間帯の所為か、面会スペースには多治見達以外に人影は無く、窓から外の景色を見る格好で、車椅子に乗った、入口に背を向けた、ちひろだけがいた。

「久し振りだね。」

 多治見はちひろの背中へ声を掛けた。

「本当に、ご無沙汰してしまったわ。ごめんなさい。」

「気にする事ではないさ。」

「今日も天気は曇天ね。私の心を映しているみたいだわ。」

「確かに気が滅入る空だ」

 多治見は入口で立ち止まると、ちひろと距離を取って話しを始めた。

「君が入院してから今日まで、色々な事が起きて、色々な事が変わった。」

「『お奉行』……。とても残念です。」

「そうだね。僕以上に、ショックを受けたと思う」

「そうかしら?私は、貴方の方が落ち込んでいると思ったわ。そんな時に、隣に居られない。私はその方が辛かった。」

「ありがとう。でも――」

「そうそう。上司も亡くなったのよね。あの上司よりは、ずっと近くに居られるのに。私には高く厚い壁ができてしまったわ。同じ世界に居るのに、途方も無く遠い距離が、できてしまった気がする。」

 ちひろの両肩が、僅かに震えているのが見えた。

「その距離を作ったのは君自身だよ」

 突き離すように、冷淡な言葉を敢えて選んだ。

「死にたい……。どうして、こんな姿になっても生きているのかしら……」

 ちひろは多治見へ背を向けたまま、涙で言葉を詰まらせた。

「君の命には運転手の――、彼の命も含まれている。そんな事を言ったり、考えたりしては」

「判っているのよ。そんなこと。判っているの。部下の命の犠牲で生き残ったって。」

「違うよ。犠牲なんかじゃない」

「それじゃ何よ!」

 背を向けたまま、ちひろは苛立ちを多治見へぶつけた。

「ごめんなさい。【SABAKI】――いいえ『奉行』の所為では無いし、部下の所為でも、あのトレーラーの運転手の所為でも無いと判っているの。頭では理解できているのよ。でもね。心が拒絶するの――。私が生きている事を否定するの。」

 ちひろが左手で顔を覆ったのが判った。


「新しい【SABAKI】も加わり、二度の仕置きを済ませた。」

 咽び泣くちひろに多治見は話し掛けた。

「そうね……。私も、いつまでも【TEGATA】でいられないわね。仲村ちひろに戻らなくちゃ」

「そうだよ。戻って婚約者の杜氏さんと、酒蔵継いで……、生きて行くんだ」

 多治見の声が上ずった。両手は硬くこぶしを握り震えている。

「駄目じゃない。私に引導を渡しに来たのに、私に優しく――」

「すまない。」

「馬鹿ね。切る時は一気に切るのが大事なの。もう貴方は『お奉行』なんだから……。寺社奉行所を守る為に、貴方は鬼にならなくちゃ」

 今度は多治見が声を殺していた。

「【FUMI】。いるんでしょ?」

 ちひろは振り向かずに、【FUMI】を呼んだ。

「はい。」と小さく返事をすると、多治見の背後から中へ入ってきた。

「貴方へ【TEGATA】を引き継ぐ。部屋の金庫から書類を持って来てちょうだい。」

「書類……ですか?」

「えぇ。古臭い、表面に達筆で『先手組組頭心得』と書いてあるわ。見れば判る。それが組頭の(あかし)。それに沿って、【FUMI】に引き継ぐわ」

「承知……いたしました。」

「まったく、二人が鬼にならずにどうするの?私が駄々を捏ねて居座ったら、二人で仕置きするのよ。」

「僕は、君を殺せない」

「私もです。」

「私は、二人に殺してもらいたいわ。この醜い私をこの世から消して欲しい。実家へ戻ってもお荷物でしかないのよ。彼だって、醜い上に子供も産めない女を嫁にするなんて……ありあないもの。」

「子供も産めないって?」【FUMI】が心配顔を向けた。

「こんな体だもの、抱きたくなるなんて――」

「それは君一人で決める事ではなくて、夫婦で決めることだろ」

「そうだけど――」

 そう言い掛けた時、面会スペースに幼児を連れた父親が、入院中の妻と三人で入ってきた。それに気付いたちひろが、急いで病室に戻ろうと多治見の方を向いた。

 入院着の右袖は肩から膨らみが無く、電動の車椅子の動きに揺れていた。すれ違う時に、「髪の毛はウィッグなの」と顔を伏せて小声で言った。

 廊下に出て左に曲がるとき、その髪に隠された、顔半分に負っている火傷が一瞬見えた。

「失礼します」と【FUMI】が多治見に断り、ちひろの車椅子を追いかけて行く。思っていた以上のちひろの状態に、多治見はただ呆然とした。


 朝から降っていた雨は上がり、久し振りに夕焼けが病室の中を、オレンジ色に染めていた。

 多治見はその夕陽に背中を押され、ちひろの病室を訪ねた。ドアをノックすると、【FUMI】が出て来た。

「『お奉行』。まだいらしたのですか?」

「あぁ。考え事をしていた。すまないが、一言だけ伝えたい」

「どうぞ。入って」

 多治見が来たのを悟って、中に招き入れた。

「【FUMI】。二人にして」

「では、何か飲み物を買ってきます」

 【FUMI】が出て行くと、ちひろはウィッグを外し、入院着の上着の前を開けて見せた。左半身に負った火傷の全てを多治見へ晒した。

「本当は歩けるはずなのに、足が思うように動かないの。医者に言わせると、火傷と右腕の切断から来る精神的なものだとか。こんな女でも、幸せになれると思う?」

「判らない。でも、生きていて欲しい」

「貴方を送った帰りだっただけに、貴方は私に負い目を感じている。」

「初めはそう思ったが、お奉行から、君の為にその考えは持たないようにといわれた。」

「それでも、この姿を見ると、貴方の責任だと思うでしょ」

「さっきまでは、正直そう思っていた。でも長い時間考えて、君の全てを見て、やっと答えが出た。」

「どんな?」

「妻や娘、親友に上司、そして仲間。僕の周りで、僅かこの一年足らずで失った者達だ。今度は誰を失うのか、怖くて押さえられない自分がいた。いっそのこと、僕が死ねば良いのだと思う自分もそこにいた。早く死にたいと強く請う自分がいた。さっき君と話していて、その負の自分の言う通りに、ここの屋上から飛び降りる覚悟をした。」

 ちひろは悲しげな顔を、静かに語る多治見へ向けて、話しをじっと聞いている。

「しかし踏み止まって、最後に一言だけ君に謝ろうとここに来たが、君のその姿を見て、簡単に死んではならないと思った。僕の周りで死んで行った人達の為に、僕はもっと苦しまなければならないのだと決心した。憎しみや嫉みや恨みを全て受け取り、僕の生きる使命が終ったときに、全てを地獄へ持って行く。それが殺し屋になった、僕なりの皆への供養だと」

「私の裸も、まだ役に立つのね。」

「あぁ。とても魅力的だよ。」

「今度ね。皮膚を移植するの。元の美貌には戻らないけど、今よりは綺麗になれる。私の事は心配しないで。その代わり【FUMI】や寺社奉行所を守って、導いて欲しい。」

「約束する。安心して、これからの君の人生を謳歌して欲しい」

「ありがとう。そうするわ。」

「さっき君は、曇天の空を君の心を映していると言ったけど、僕は、荒天の空は僕の心の描写だと思い込んでいた。」

「責任の重さの所為よ。」

「そう思うよ。では失礼する。」

「ちょっとだけ……」

 ちひろの目が多治見を引き止めた。

「最後にお願い……」

 多治見はちひろに近付き、ちひろの唇に自分の唇を重ねた。

「ありがとう。これで自分の道を歩けるわ」

「僕もだよ。では。」右手を挙げて、病室を出て行った。


 多治見が病室を出て暫くしてから、ちひろの両親と婚約者が見舞いにやってきた。





       警視総監、新藤


「いつもの鰻を用意するが、今日はどうかね?」

 警視総監の新藤から、登庁一番に内線が掛かってきた。

「承知いたしました。伺わせていただきます。」

 今日の予定を見て、昼前後が空いているのを確認して答え、受話器を置いた。

「総監ですか?」

 たまたま書類を持ってきた、三係の木村文子巡査部長が、多治見に顔を近付け小声で聞いた。

「あぁ。毎月はきつくなって偶数月の終わりにして貰った。前回は十二月で、とてもゆっくり昼飯など食べている時間は無かったし、さすがに今月は断れない。」

「お忍びデートみたいですね」

「そんなに良いものじゃないさ」

「では私ではいかがでしょうか?」

 一層顔を近付け囁いた。


 一度大きく深呼吸をし「僕はね――」と言いかける。

「冗談です。時期尚早でした。改めます。」と、木村は持ってきた書類を書類ケースに入れて、課長室から出て行った。

「――たく。」と大きく息を吐きながらクビを振った。


 昼になると多治見は、約束通りに警視総監室を尋ねた。

「悪いね。良く来てくれた。仕事は大丈夫だった?」

 矢継ぎ早に言葉を連射してきた。

「はっ。仕事に支障が起きないようにしてまいりました。」

「そうかい。ではゆっくりと、鰻を味わおうか。さぁ。こっちに」

 おいでおいでの早い手の動きが、ソファへ急き立てた。ほとんど二人が同時に席に付き「冷めないうちに食べて」と満面の笑顔を多治見へ向けた。

「では、遠慮無く頂戴いたします。」

 多治見が蓋を開けると、ゆったりと微かに登る湯気に、蒲焼の香りが連れ立って、テーブルの上に広がった。

「美味そうですね」と思わず多治見の声が出た。

「そうでしょ。天然物だからね。さぁ早く食べて」

 新藤は多治見が一口食べるまで、嬉しそうに眺め「とても美味しいです」と、多治見が舌鼓を打つと、それが合図のように、新藤も蓋を取り食べ始めた。


「多治見君はサイドビジネスをしているのかね?」

 鰻重も残すところ三分の一程になり、鰻と白米のゴールデンバランスで味わい愉しもうと口へ運んだ時、新藤の唐突な質問に合い、驚いて無念にもそのまま飲み込んだ。

「国家公務員は、バイトを含みサイドビジネスは禁止かと――」

 言い終えて、鰻の肝の入ったお吸い物を一口啜った。

「すまい。言い方が悪かったようです。」

 新藤はそう詫びてから「正確には『裏稼業』です」と繋ぎ、多治見の目を覗き込んだ。

「裏稼業……ですか?」

 脇の下に一筋の汗が流れた。

「自分は不器用ですので、ふたつの仕事をする――。二束の草鞋は履けそうにもありませんが」

 新藤の視線から逸らすこと無く、平静を装って答えた。

「そうかな?僕は君ならやっていても不思議は無いと思っていますよ」

 探る言葉のあとで、大きく口を開けて鰻と白米を頬張った。

 多治見は新藤のその問いに、「そうですか?」と腕を組み、首を捻って「例えばどのような稼業でしょうか?」と問いで返した。

 新藤は何度かモグモグと咀嚼し、吸い物を一口啜って、ゴクリと音を立てて飲み込んだ。

「そうだな、例えば小料理店とかジャズ喫茶なんて店のオーナー。なんかどうかな?」

「一人身になりまして一年ほど経ちますが、やっと自分でも食べられる物が、作れるようになってきたところです。とてもお金を頂戴できるような食べ物の提供など、正直、不可能です。」

「そうかなぁ」

「やれば詐欺罪で逮捕されますよ」と笑いながら答え、鰻をつまんで食べた。

「詐欺罪――か。」

「はい」と鰻を食べながら返事をして、白米を口に入れた。

「僕はできると思うのだがね」と、鰻重と多治見を交互に見ながら、何か言いたげな態度を崩さなかった。

「どうして裏稼業に拘られるのですか?」

 多治見が仕方なく、触りたくない話題に触れて訊いた。

「実はね――」

 多治見のその言葉を待っていたかのように、新藤は鰻重をテーブルに置いて、身を乗り出した。

「岩本さんのパソコンの履歴を見ていたら、寄付を募るページが多くてさ、何となくだけど、公務員の給料だけではなくて、他にも収入が有ったのかと思ってね。そうなると、サイドビジネスじゃないかと――」

「総監。岩本前総監が、寄付のために服務規程に違反するとは思えませんが」

 もう鰻どころの話しではなくなった。

「そうだろう。ではどうしてそんな履歴が残っていたのか――。不思議じゃないか?」

「自分にはそのような話しをされませんでしたので、知っておられるとすれば、総監の様なクラスの方々かと思いますが」

「そうだよね。心当たりの人には聞いてみたけど、やはり誰も知らないと言う。」

「では宝くじでも当ったのではないですか?」

「それなら自分の物でしょ。寄付は――」

「忘年会の景品で貰った物でしたら、賞金の半分くらい寄付する気を起きたとしても」

「それは言えるね。」

 多治見は内心ホッとした。

「金額が少ないので、ネット上で色々と見て周ったとすれば、多くの履歴が残っていても、不思議は無いかと思いますが」

「そうか。いやー。君に聞いて良かったよ。納得行く答えが見えた。これで変な詮索もしなくて済む。ありがとう」

 新藤がテーブルに両手を着いて、頭を深く下げた。

「総監、止してください。」

 慌てて新藤の手を取った。

「そう?」新藤はテーブルに置いた鰻重を持ち、残っている鰻とご飯を食べ始めた。多治見も一安心して、残りを食べ始めたが、さっきほど味を愉しめる余裕は無かった。


「そうそう。君の参事官への昇級が決まったから。四月一日(いっぴ)から、移動で参事官室に入ってもらうよ。」

 鰻重を完食して、お茶を飲みながら新藤が言った。

「総監。本気だったのですか?」

 思わず大きな声になった。

「本気も本気だよ。僕の後は君に警視総監をしてもらうつもりだよ。嫌だなどとは言わせないから。良いね」

「しかし。キャリアでは無いので」

「その事は気にしなくて良いから」

「しかし――」

「参事官でひとつ手柄を立てて貰えば、警視長になれるように手は回してある。前にも言ったでしょ、警視庁と警視庁に関る都政は、すでに岩本派でまとめたと。もう誰も異議を唱える事も邪魔をする者も、現れる事は無いのだよ。」

「それでは、岩本さんの意思という上手い言葉で、岩本さんに好意を持っている人を巧みに操り、岩本さんの名の下で、警視庁を占拠しているようですが?」

「それに問題があるのかな?」

「人事を押し通して、反対勢力の全排除による独裁警察など有ってはならないと思います。」

「邪魔者がいない。これ以上にやり易い事は無いよ。」

「確かに横槍や、部署間にある壁で、捜査に支障が無くなる事は、良い事だと思いますが、万が一、間違った方へ進んだ時に、誰が止めるのですか?」

「君は僕の考えに反対なの?」

「正直、抑止力が無いのは反対です。」

 怪訝そうに向けた新藤の目を、正面から受けて、確固たる信念で返して続けた。

「例え所轄の事務や交番勤務になっても構いません。総監のお考えには賛同出来かねます。」

「多治見君。僕は警視総監だ。警視庁のトップだ。いくら君が有名で岩本の意思を継ぐ者だとしても、僕の命令は絶対だ。君には、万にひとつも逃げ場などないんだ。だから――」

「それでも、独裁など許せる訳ありませんよ。」

「独裁と思うからいけない。理想の警察だと思えば良いじゃないか」

「それは総監の驕りではないでしょうか。捜査員が動き易い警視庁には魅力を感じますが、独裁となりますと――、やはり危険過ぎて、偏った警察を理想だとは言えませんし、独裁ゆえに、クーデターが起こり得ません。」

「わかった。僕もね。以前に君へ言った手前、どうしたものかと悩んでいたんだ。」

 突如、強硬な姿勢を崩した新藤に、多治見は唖然とした。

「どういう事でしょうか?」

「実はね。僕も君と同じ考えに至ってね。」

 多治見の意を得ない顔を見て「色々と考えてね。このままでは、君の言う独裁警察になってしまう。と行き着いた。でも今更、固めた周りを一年足らずで変えると、警視総監の権威と威信に疑いを持たれる。色々と悩んでいたら、君の参事官への移動通知が来てしまった。正直怖くなって、密かに反対勢力を探した。でも、僕の周りには、反対勢力など誰もいなかった。とても危険な状態だと、初めて気が付いた。」

 新藤の演技ではなく、心底困り果てている状態が見て取れた。

「唯一の反対勢力が君だ。」

「では私は現状のままで――」

「いいや。それは駄目だ。」

「どうしてですか?」

「君には予定通りに、警視総監になってもらい、この人事を少しずつ解体して元の警視庁に戻して欲しい。元の、と言っても前の縦しかない職制や捜査権では無く、そういった壁を壊して、警察官が警察官として、本来の職務ができる。理想的な警視庁に――。」

 言い掛けて、新藤は天井へ視線を向けて、何か考え始めた。

「君はさっき、クーデターが起こると言ったが、何かその兆候を知っているのかね?」

「総監が先ほど、反対勢力は私だけと仰いましたが、警視庁の権力を握ろうと画策している人は、確実にいるようです。」

「えっ。それは本当かい?」

「そのような噂は耳にいたしましたが」

「いったい、誰かね?」

 多治見は話して良いものか、言い淀み沈黙した。

「誰なのかね。」と、新藤は珍しく威圧感をかけてきた。

 少し考えて「福井副総監です」と告げた。


 先日多治見は、新藤警視総監無きあとの、警視庁の人事について、副総監の福井が刑事部長の松島へ話していたのを、たまたま聞いてしまった。その時、まとまっているように見えるは上辺だけで、本音は誰もが皆、自分が最短で一番になるチャンスを、待っているだけなのだと思った。


「福井は私を追い出して、警視総監の座に着く気なのか。そうなれば、僕が担いだ君は良くて所轄の署長へ飛ばされ、岩本さんの派閥は完全に崩壊するかも知れん――。岩本さんに会わす顔が無くなる。」

「そうやって元の警視庁に戻るのも、有りではないですか?」

「いいやそれでは困るのだよ。だったら君は、参事官として福井の陰謀を暴いて欲しい。そうすれば君を副総監に推せる。私の退官と共に警視総監に着任も可能だよ。」

「それは――。」と多治見が難色を現すと、「クリーンな警視庁の為だよ」と丸め込もうと必死になった。

(なるほど。確固たる自分の立場が、危うくなりそうで怖いのか)

「わかりました。参事官になって副総監を見張りましょう」

「やって貰える?本当?ありがとう!ありがとう!」

 新藤は多治見の手を取り、何度も頭を下げた。

「ただし参事官までですので、それ以降は所轄の刑事に戻していただけませんか?」

「そんな。それじゃ」

「岩本前警視総監は、本気で私を買っていたのではなく、新藤警視総監の行く道を、それとなく指されていたのではないでしょうか?」

「僕の?」

「そうです。」

「進む方向を?」

「はい。クリーンで捜査員が動き易い警視庁を目指すようにと。」

「僕にできるかな?」

「出来ますとも。岩本前警視総監が後継者と選ばれたのです。きっとできます。」

「君も手伝ってくれるのかな?まさか裏切るなんて?」

「私を信じてください。警視総監が岩本さんの意思を継ぐ限り、私はお供させていただきます。」

「ありがとう!警視庁内で信じられるのは君だけだ。」

 新藤はそう言いながら、多治見をハグした。


 それから多治見は、落ち着きを取り戻した新藤と少し話しをして、昼休みが終わると共に、警視総監室を辞去した。

 休憩室の椅子に座ると、深く長い溜息を吐く。そこに木村文子巡査部長が、コーヒーを淹れて持って来た。

「ありがとう。助かるよ」

「かなりヘビーな内容のようですね」

 聞き取り方を間違うと、危ない話しに聞こえてくる。

「そんなことは無いさ。ただ、やはり警視総監だからね。変な事は言えないし、言葉を選んで話さないと失礼に当る。」

 一口コーヒーを飲む。

「そうですか。私でしたら、いつでも愚痴をお聞きしますが」

「ありがとう。その時はそうさせて貰うよ」

「本当ですか?期待しても良いですか?」

 木村巡査部長の声が明るく問うてきた。

「君ね――」

「大人のアレですか。」と、両肩を落として休憩室を出て行く。

「コーヒーありがとう。席に戻って仕事をしましょう」

 多治見は落ち込んだ背中へ、声を掛けた。


(どこも疲れる。新宿南署の時が、一番自分らしかったな)


 再びコーヒーを口元へ運んだ。






       (はぶり)


 参事官の職に已む無く就き、数日が過ぎた四月の中旬。世間には新入生や新社会人といった『新』の者が溢れていた。当然、多治見も新しい職制と肩書き、仕事の内容などで辟易としていた。

 『超』が付くほど多忙な毎日を過ごしている中、今月初めて公休が取れた朝の事。いつもの癖で目が覚めたが、二度寝を決め込んで枕を直した時であった。『葬』のスマートフォンが鳴り、多治見の眠りを妨げた。

 蒲団の中から、暫く恨めしそうに眺めていたが、諦めてスマートフォンを手に取り出た。

「休みのところすまんな。」

 聞き覚えのある、低音の声が今日の始まりを告げた。

「どうして公休(やすみ)だとおわかりに?」

「知ろうと思えば、知床にある小さなスーパーの、今日の特売品も知る事はできる。どうせ、気侭な一人身、二度寝をと考えていた程度であろう」

「私より深読みですね。」

「君には借りがあるからな。今後は読まれる前に読まなければ、『上様』としての威厳を保つ事ができない。」

「ふー」

 多治見は大きなため息を吐くと、蒲団に起き上がり顔を両手でパンパンと叩いた。

「おはようございます。ご用件は?」

「朝から暗い話しで申し訳ないが――」

「気になさらず。『上様』と愉しい話しができるとは、思っておりませんので」

「神奈川県鮎川市にある、折り込み求人情報紙を発行している会社の『アドバンストキャスト』を探ってくれ」

 多治見は神奈川の地図を思い描くと(確か五六の、海老名の隣にあった市だったな)と位置を把握した。

「御意。急ぎ当らせます。」

「頼む」

「ところで上様は、そういった情報をどこから――」

 言いかけた多治見の脳裏に【HANZOU】の顔が浮かんだ。


 言葉の選び方や言い回し、顔付きや何気ない仕草からも、その人となりを表すことは微塵も見せない。それに、面長の温厚な顔に豊かな表情を浮かばせるが、目の奥の心は決して覗かせない。お庭番衆を束ねる【HANZOU】の顔が、一瞬浮かび消えた。


「【HANZOU】ですね」

「そうだ。【HANZOU】の部下は日本全国を網羅している。年に一、二度、各奉行所の目明し組の情報と被る事は有るがな」

「かなり大きな組織なのですね」

 『上様』は多治見のその問いには、敢えて答えなかった。

「では、あとは頼む」

「御意」

 通話は切れた。多治見はそのまま【JITTE】へ、『上様』から聞いた内容をメールした。


 その後、公休をいつも通りに、家の掃除と着る物の洗濯、日用品や食料の買い物と、特に独身者に有効な使い方をして、午後五時、少し早いが夕食の支度に入ると、【JITTE】から返信が来た。


《今朝のアドバンストキャストの件ですが、簡単に調べましたが、ブラック企業の頂点にあるような会社でした。

引き続き詳細を調べまして、後日、ご報告いたします。》


「やはりそうか」と呟く。


《悪いが急ぎ当って欲しい。恐らく新入社員の命を守る仕置きとなりそうだ。》


《御意》


「今まで何人、弱い者を殺してきたのか――」

 多治見は首を横に振りながら、ため息を吐いた。


 翌日から多治見は、再び雑多な日を過ごした。参事官とはいえ、結局は生活安全部部長の石川警視長の補佐役。石川の雑務の殆どを受ける事になり、その上、自分の仕事もとなると、ゆっくりと昼食も摂れない。ほとんど毎日、コンビニで買ったサンドウィッチかおにぎりを、自席で食べるのが昼食の定番となっていた。

 普段通りに自席でシャケのおにぎりを頬張り、書類に目を通していると、【JITTE】からアドバンストキャストの進捗の報告が来た。


《『お奉行』が心配されておりました通り、アドバンストキャストは新卒中途の、新入社員の敵でした。

パワハラ・セクハラ何でも有りで、ハローワークからの雇用関係の助成金目的で、入社した社員殆どが、勤続一年から一年二ヶ月程度で辞職しています。正確には不当解雇です。

現在の勤続対象の社員数は三名、部下がマンツーマンで保護監視を始めました。またこれは。会社ぐるみの犯行と思われます。》


 薄っすらとわかってはいたが、報告を読んで心が痛んだ。


《早い対応、ご苦労様。

一週間以内に情報をまとめ【SABAKI】へ連絡。三人の対象社員を守る為に、采配をするよう進めてください。》


《彼等の命。私達が守って見せます。》



 多治見が指示して僅か四日後に、【JITTE】から三役へメールが送られた。


《四月二十日金曜日午後九時半より、西池袋公園近くのマンション司の三○六号室で、三役会を行います。

詳細はその時にお話しいたします。》


「大型連休中の仕置きになるか」

 多治見は昨年、善波が引き起こしたテロを思い出していた。

「時間が経つのは早いな。善波の事など、もう誰も覚えてはいないだろうな」

 岩本と上神宮の顔を思い描き、胸に手を当て亡き二人を偲んだ。


 三役会は時間通りに行われた。

 三人が揃うと、まず【JITTE】が、今回の仕置きの説明を二人の組頭へ始めた。

「今回は会社ぐるみの犯罪です。咎人は四人。大掛かりな仕置きとなります。」そう口火を切り続けた。

「その会社ですが、神奈川県鮎川市で、折り込み求人広告を発行している、株式会社アドバンストキャストと言います。社長は大山圭樹(けいき)、五十八歳で営業部長を兼務しています。ナンバーツーは経理部長の下糟屋(しもかすや)司朗、五十三歳。この二人が指示を出し、営業課長の北根民男(きたねたみお)、四十八歳が実行しています。今回の調査で偶然入手しました録音があります。」

 【JITTE】がICレコーダーを取り出し再生をした。


『お前な!何を呑気にやってんだよ!』

「これは課長の北根です。」

『そんなに悠長にしているんならよ!お前の親や兄弟の(たま)を取ってやろうか!そうでもしなけりゃ、やる気を起こさねぇんだろ!』

「酷いな!まるでヤクザだな」

 【SABAKI】が露骨に吐き捨てた。

「これは社員が外回りから戻って来た時に、北根が大声を出していたので、怖くなって録音したそうです。同僚社員を護れるのならと、コピーさせてくれました。」

「声紋は?」

「客を装って電話をして取った物と合わせて、本人との結果が出ています。

「では『沙汰』を待たずとも『死罪』になるのかな?」

「【SABAKI】それは有りません。あくまでも罪状を決めるのは『評定所』です。先んじてはなりませんよ」

 【TEGATA】が慎重に言葉を選んで諭す。

「そうでした。済みません。今の発言は取り消します。」

 【SABAKI】が自ら侘びを入れたところで、【JITTE】が話しを続けた。

「これを持ってハローワークへ行ったようですが、ハローワークでは、会社の教育の一環だろうから、パワハラとは受け取れない。と言って帰したようです。」

「でもその後に自殺を選んだとしたら、ハローワークの存在は何だ?」

 【SABAKI】がハローワークの担当者の対応へ憤りを見せた。

「そこが難しいところで」

「何が?」と【TEGATA】。

 眉間に皺を寄せて【JITTE】が「求人情報紙の会社なので、労働基準法だけでは無く、法律に沿っているのが当然で、ハローワークでは会社の教育方法の一環と答えるのが、多方面に波風を立てない最良の対処方と思っているようです。」

「それが役所の仕事なの……。でも建て前上はですよね。」

「そうだよ。本音はハローワークが、助成金を払っている先がブラックだったなんて言えないから揉み消す。いかにも役所がしそうな事だ。」

「【JITTE】は、僕以上に、かなり不満気ですね?」

「当たり前じゃないか!『家族の命を取る』なんて言われてみなよ。何年もその道で仕事をしている、ベテランなら多少は喝を入れているとも取れるけど、相手は去年の新卒で、不況のせいで大学を卒業しても職が無くて、半年間、ずっと就活してきて、百を越える履歴書を書いて送り、何十もの面接のあとにやっと入れた。彼にとっては、生まれて始めての社会――。会社勤めなんだ。右も左も判らない世界だからと、入社して三週間の中の数日は、北根が同行していたらしいけど、仕事のやりかたなどの説明は殆ど無くて、ただ『数多くアポを取って面会して仕事を貰え』と、呪文のように言い続けるだけだったそうです。おまけに自宅に帰ってからも毎晩のように電話が掛かってきて、怒鳴り続けられたら、自殺を選んでもしょうがない。」

 【JITTE】の剣幕に【SABAKI】と【TEGATA】は少したじろいだ。

「ひょっとして【JITTE】にも同じ経験が?」【SABAKI】が問う。

 興奮気味だった自分にハッとして、我に戻ると「ごめん。実は僕が高卒で入った会社に似ていてね。部下から話しを聞いていて、腹が立ってどうしようも無かった。」

「本当に会社ぐるみで、犯行が行われているのですね」

 【SABAKI】が呆れ口調で言う。

「それともう一人、営業の成瀬正治(なるせまさはる)、三十五歳も片棒を担いでいます。最初は成瀬も大山達のターゲットかと思い、警護の監視をしておりましたが、この三日間で成瀬も大山の側の人間とわかりました。従って、今回守る社員は、小金塚拓実(こがねづかたくみ)石田春哉(はるや)、共に昨年大学を卒業して入社した社員です。」

「成瀬はどうして大山の側になったのですか?」【SABAKI】が訊く。

「昨年の十月に中途採用で入社する際に、試用期間六ヶ月を三ヶ月にする代わり、新人の教育係を兼任するという条件で、今年の二月に正社員になり同時に主任となりました。それ以降、北根の指示通りに、入社一年近い社員へのパワハラを始めた次第です。」

「大山達はどうして、そんな条件を提示したのかな?」

「【SABAKI】質問ばかりでは先に進みませんよ」

 昨年末に、先代組頭の仲村ちひろより、【TEGATA】のコードネームと組頭を引き継いだ【FUMI】が、【TEGATA】として【SABAKI】へ注意した。

「わかっているけど、ひとつひとつ疑問を解いていった方が、遠回りに見えて、意外と近道だったりします――。きっと。」

「仕方ないですね。【SABAKI】が納得行くようにしましょう――。成瀬には、妻とこの四月に小学四年生になった息子がいます。妻のさとみは近所のコンビニでパートとして働いていますが、生活が苦しく早く正社員になって、生活を安定させたかったと、成瀬から僕の部下が聞きだしています。」

「前の会社を辞めた理由は?」

「上司からのパワハラだそうです。」

「パワハラで辞めたのに、会社が変わったらそっち側の人間になるなんて、最低ね。」

 【TEGATA】が憤慨して言った。

「一概には言えないんだ。」

「どうして?」

「当時の上司は四十過ぎの独身で、成瀬の妻のさとみに横恋慕してね、成瀬が居ない時間に自宅へ電話して、成瀬がヘマをしたと言い、クビにしたくなかったらその方法も有る。と呼び出した。そしてよくある小説の如く、ホテルを強要したんだ。」

「酷い奴だな。」

「しかし妻のさとみが元警察官だと知ると、成瀬をいじめ始めて、(つい)には昨年の八月、辞職に追い込んだ。」

「そんな事できるの?」

「その上司が社長の息子だったらできるでしょ」

 【SABAKI】が良くあるパターンついでと、【JITTE】の代わりに答えた。『本当?』という目を【JITTE】へ向けると、小さく二度頷いて肯定した。

「でも奥さんが元警察官なら、何とかできそうな気もするけど」

 三人がそれぞれ目を合わせると、「『お奉行』に聞いてみようか?」

と【SABAKI】が言う。それに合わせ【TEGATA】がスマートフォンを取り出し電話を掛けた。


「はい」と多治見が答えた。

「【TEGATA】ですが、今よろしいでしょうか?」

「手短になら」

「お忙しいところ申し訳ありません。今度の咎人の家族に元警察官がいるのですが――」

「元警察官?どこの署かな?」

 多治見の質問に困り、スマートフォンを【JITTE】へ手渡すと、受け取った【JITTE】はスピーカーに変えた。

「【JITTE】です。『お奉行』の古巣の新宿南署で警務部の事務方だったようです」

「えっ!本当かい?名前は?」

「成瀬さとみ――。旧姓は愛甲さとみです。」

「愛甲君か。彼女が咎人?」

「正確には咎人は亭主です。」

「彼女の旦那は、中堅どころの出版会社に勤めていた筈。結婚式にも呼ばれて会ったけど、悪に走るような人間では無いと記憶しているけど?」

「しかし今は――」

「何故?」多治見は疑問を言葉に出した。

「確か息子がいたよね。以前、年賀状を貰ったよ」

「昨年の夏に出版会社を辞職に追い込まれ、十月に例の会社に入っております。」

「成瀬だったね。悪いけど咎人に間違いが無いのであれば、僕の知人と思わずに、公平にジャッジしてください。」

「御意。」

 本業が忙しいのか、多治見はそう伝えると通話を切った。

「では来週火曜日までに、成瀬を含めた咎人、四人の刑を決める情報を揃えてください。」

 【SABAKI】が【JITTE】へ言う。

「承知。で、次はいつにします?」

「夜八時以降であれば、僕は合わせますよ」

「私も夜七時以降でしたら大丈夫です。」

「では来週水曜日。同じ時間にしましょう。」

「わかりました。仕置き組全員呼び出します。」

「全員?」

「だって咎人四人ですよ。仕置き組は全員で五人しかいません。自然に全員参加になります。」

「でしたら、場所は広くした方が良いですね。場所は追って連絡します。」

【SABAKI】と【TEGATA】が「承知」と答えた。





       【JITTE】


 【JITTE】は一人、アドバンストキャストの駐車場の傍らで、成瀬が出てくるのを待っていた。夜八時半を過ぎ頃にであった。目当ての成瀬が通用口から出てきて、そのまま愛車である、ライトブルーのジムニーに乗り込むと、イグニッションキーを回しエンジンを掛けた。それを見て【JITTE】は、ジムニーに近付くと運転席の窓を軽くノックした。

「どなたですか?」

 成瀬は窓を下げて聞いた。

「お帰りのところすみません。以前こちらにいて、自殺した者の遺族です。」

 その一言を聞き、成瀬は表情を暗くして俯き黙り込んだ。

「少しお話しを伺えませんでしょうか?」

「……」

 そのひとことに、成瀬は返事をせず両手で顔を覆った。

 【JITTE】は傍らでじっと待っていた。

 やがて成瀬は顔を上げて【JITTE】を見ると、「ここではまずいので、乗ってください。」と助手席のドアを開けた。

「ありがとうございます」と礼を言い、助手席へ乗り込むと、成瀬は無言で車を発車させた。



《明日、四月二十六日水曜日午後九時半より、采配を行います。

場所は西池袋公園近くにある近藤ビルの二階小会議室。

尚、ビル内の防犯カメラには、違う映像を流しますので安心してください。

参加メンバー

仕置き組全員、先手組【TEGATA】と【FUMI】。目明し組は私と【MEBOSHI】

以上、遅れる事の無きよう。お願いします》


 先日の約束通り、【JITTE】が采配の時間と場所を、『奉行』と参加者全員へ一斉送信してきた。


 采配当日、時間通りに全員が揃い、采配を始める前に【TEGATA】から、先手組の新しい副組頭になった【FUMI】の紹介があった。

「あら可愛い()ね」と【ABURI】が早くも触手を伸ばすと「男なら見境なしか」と【ZANN】が弄った。

「あくまで本命は『お奉行』一筋。でもちょっとなら、大人の世界へ入れてあげても良いじゃない」

「充分大人です!変な気は起こさないように!」

 【TEGATA】が【ABURI】へ先制した。

「では【FUMI】一言」と【SABAKI】がアブノーマルな世界を終らせた。

「【FUMI】です。二十八歳になります。『葬』には五年お世話になっています。頭の【TEGATA】に付いて勉強いたしますので、よろしくお願いします。」

「僕は仕置き組の頭で【SABAKI】です。順番に」と仕置き組のメンバーへ手を向けた。

「歓迎します。【NAGARE】です。」

「【ZANN】だ。足をひっぱるな」

「【TATAKI】です。」

「【ABURI】よ。いつでも教えてあげるから、遠慮なく連絡して」

 【TEGATA】がハエを追い払うように手を振った。

「先手組組頭の【JITTE】です。一緒に悪と戦いましょう」

「先手組副頭の【MEBOSHI】です。僕も『葬』暦は五年です。よろしくお願いします」

「全員の紹介が済んだので、采配に入ろうか」と【SABAKI】が采配の開始を宣言した。


「では再度今回の咎人を説明します。」

 【JITTE】がそう言うと【MEBOSHI】がいつものホワイトボードを入れて来て、【JITTE】が貼られた写真を一人ずつ説明した。

「まず初めに訂正させていただきます。咎人となっていた成瀬ですが、先日の音声の提供者とわかり、直に成瀬と会って話しを聞きました。」


 成瀬は北根から、正社員にした理由のひとつとして、入社一年を過ぎた者へ、精神的な暴力を振り続けたり、無償の残業を自主的にさせたりして、最終的に自己退職へ持ってゆくことだといわれていた。

 ある日の夕方、同期入社の二人へのパワハラを強要されて、夜十一時を回った時刻に、北根の目の前から一人へ電話をした。

 成瀬の知りうる罵詈雑言を浴びせ電話を切ったが、「それで辞めると思うのか?」と、手にしていたファイルで数回頭を叩かれ、北根が手本を見せると言い、自分のカバンからサバイバルナイフを取り出すと、ニヤニヤしながらもう一人へ電話を掛けた。

 内容は完全に脅しであった。横でサバイバルナイフを弄びながら威嚇する北根を見て、成瀬も恐怖した。そして北根にばれないように録音したのであった。


「ですので、成瀬は『流罪』で、社長兼営業部長の大山圭樹。経理部長の下糟屋司朗。営業課長の北根民男の、三人による会社ぐるみでの悪行は、確固たる証拠と証言も掴みましたので、『死罪』で問題は無いかと思います。」

「ちょっと待て!」

 【ZANN】が声を上げた。

「お前が勝手に罪状を決めるな。そんな権限は、【SABAKI】すら持っていないはずだ」

「でも証拠が――」

「何を急いでいるのか、聞かせて貰えないかな」

 一番の古株で年長でもある【NAGARE】が、急く【JITTE】を止めて訊いた。

「三年前に、アドバンストキャストに勤めていて、帰りに自殺した若者の遺品の携帯に入っていた、ブラック企業を曝き出す証拠です。」

 【JITTE】は【NAGARE】の問いには答えず、証拠の説明をした。

「証拠があるのに警察は動かないの?」

 【TEGATA】が疑問を口にした。

「母親との二人暮しで、母親がこういった物に疎くて、私の部下が偶然見つけました。警察よりも先に『葬』が入手したなら、罰するのは我々『葬』ですよね。」

「まさか【JITTE】はその人と、面識があるのでは?」

「……」【NAGARE】の問いに黙ったまま俯いた。

「そう言う事か。」

 【NAGARE】は【JITTE】の表情で全てを理解した。

「僕の従弟です。」

 観念した様子で【JITTE】が口を開いた。

「自殺したとは聞いていました。しかしこんな事で死を選んだなんて思っていなかった。部下から名前を聞いた時、愕然としました。それで叔母さんに頼んで、遺品を見せて貰っていたら、携帯を見つけて、何かあったらと藁にも縋る思いで、中を調べたらこの音声が残っていました。」

 【JITTE】が先日と同じICレコーダーを取り出し再生した。

「スーツのポケットから録ったようなので、録音状態はあまり良くはありませんが、会話や周りの情景は辛うじて判断できます。」


 しばらくガサガサと雑音が続いていた。雑音の中で微かに何か聞こえた。

「君ね。一体、いつまでいるつもりなんだよ。」

 北根の声であった。

「いつまでと――」

「もうとっくに辞めろと宣告しているだろ!」

「いつですか?」

「事故を起こして、車を取り上げた時点で、営業できないんだから、それぐらい気付けよ!」

「でも、バスを乗り継いで営業していました」

「馬鹿か!交通費を――。しかも現金を使って取ってきたってよ、内容の確認ミスで無償にしてたら、意味無いだろが!」

「でも自分なりに――」

「テメェの事などどうでも良いんだよ!」

 ドアが閉まる音が入った。

「まだやっているのか?」

 下糟屋の声が割って入って来た。

「部長、課長が僕に辞めろと」

「北根君さぁ。もっと判り易くしてやならいと、いかんよ」

 紙を捲る音が微かに聞こえた。

「これにさ、俺が言う通りに書くんだよ」

 テーブルの上を指で叩いているのか、トントンと小さな音がした。

「なんと書けば」

「まず辞表と書け!早く書けよ。」

「でも僕は、辞める気はありません。」

「だからテメェはもう要らねぇんだ。さっさと書けよ!」

「君さ、北根が大人しくしているうちに、書いて出て行った方が、君と君の家族の為だよ」

「わかったら早く書けよ!」

 少しの沈黙の後、鼻を啜る音と、机の上をボールペンが動く音が聞こえた。

「辞表の次は、一身上の都合で退職します。だ。早くしろよ!」

「もう良いな。任せたよ」

「はい。」

 少ししてドアが閉まる音が聞こえた。

「そのあとは一ヶ月前の日付だよ。今日じゃねぇって!」

 紙を取り上げる音と「そんじゃ、保険証置いて帰んな。もう来なくて良いから」と、突き放す声が同時に録音されていた。


「彼はペーパードライバーで、入社するまで自動車の運転など、ほとんど経験が無かったのです。それなのに、車で移動している最中に電話をしてきて、アポが少ない。行動に無駄が多い。面会者が少ない。今の倍動け。など重圧ばかり掛けられていたと、叔母から聞きました。事故を起こしても、不思議じゃない精神状態だった。録音の言う事故も、人身などでは無く、電柱に擦った程度の物損事故でした。それと、内容の確認ミスと有ったのは―」

 【JITTE】の説明は続いた。その内容は、自殺する三日程前のこと、従弟宛てに電話で注文が有り、内容を書いた書面を、相手先へFAXで送った。本来はFAXで返送された書面が注文書となり、印刷に回すのだが、担当者が外出先から、締め切り時間まで戻れないので、この電話で聞いた内容で問題は無いから、注文扱いで良いと言ってきた。従兄弟は新規の注文と喜び、自分が書いた書面を印刷へ回した。

 その週末の日曜日の朝刊に、折り込まれた求人報告が載ると、内容が全く違うものだと、担当者から北根に電話が入った。

 従兄弟は記載ミスだと、休日に呼び出され、説明をしたが一切認められず、北根から手厳しく怒られた。

 担当者にFAXした原稿をを再度見て貰ったところ、『君が電話で話した内容と、全然違うだろ』と担当者は怒り出し、お詫びに行こうとしたところ、『お前はもう良い。俺一人で行く。ただし損害は、お前か親に取って貰うから。覚悟しとけよ』と、北根が一人で出掛けて行った。

「アドバンストキャストでは、たまに有る事の様ですが、決まってそれが北根の知人だそうです。」

 涙声になって話し続ける【JITTE】に【SABAKI】が言う。

「【JITTE】の無念は僕達が引き受ける。今回の仕置きは【MEBOSHI】が仕切る。【JITTE】、今回は休みだ」

 【SABAKI】に言われ、【JITTE】は大きく首を横に何度も振った。

「掟だよ。」

「【SABAKI】。今回だけ、目を瞑って――」

「僕の時もそうだった。掟は守らないと。」

「【JITTE】。僕と同じ古株なら――、君なら判っているだろう。」

 【NAGARE】が心情を汲み取りながら言う。

「君の前では、これ以上采配は出来ないから、もう帰りなさい。」

「……判りました。後のこと、よろしくお願いします。【MEBOSHI】、【YOBUKO】にここへ来るように言うから――あとを、頼むよ。」

「しょ……承知」


 【JITTE】が退室してから、【SABAKI】が『お奉行』へ電話をした。

 多治見は既に、【JITTE】からの情報を『評定所』へ出していた。恐らくそれを、【HANZOU】が裏を取ったのに違いなく、『上様』と『評定所』から、三人の罪人の『死罪』と成瀬の『流罪』の沙汰は、多治見の手元には既に届いていた。

「三人は『死罪』。成瀬は『流罪』で更生を待とう。あとは【SABAKI】に任せる。」

 そう告げると電話を切った。


「『評定所』から三人の『死罪』と成瀬の『流罪』の沙汰が出ました。仕置きの采配に移ります。」

「三人とも私が()る」と【ZANN】が、息も凍るような冷たい声で言った。

「君がいくら怒りを抑えていても、それは無理だよ」

「なぜだ!」

「君以上に僕の憤怒は抑えきれないからだ。」

 その時、初めて全員が、【SABAKI】の表情に恐怖を覚えた。

 【YOBUKO】が来るまで休憩を取るように【NAGARE】が提案して、全員が落ち着き、冷静に采配が出来るのを待つことにした。



 【YOBUKO】が【JITTE】に呼ばれ着いたのは、それから三十分後のことであった。【MEBOSHI】がすぐさま事情を説明して、仕置き組と先手組へ挨拶を交わすと、采配が再開された。


 【TEGATA】と【MEBOSHI】は、先手組、目明し組の作業分担を再確認して、裁きの時に間に合わせるように、大急ぎで段取りをし、作業を始める指示を出した。

 一方仕置きは、成瀬正治については、【TATAKI】が『流罪』として拉致し、『死罪』の大山圭樹は【SABAKI】が、下糟屋司朗は【ZANN】に、そして実行犯の北根民男は【ABURI】が担当と決まった。

「今回僕は、北根のサバイバルナイフを獲物にする。【ZANN】もそうしないか?」

「何を企んでいる?」

 問われた【ZANN】だけではなく、その場にいた全員が【SABAKI】を見た。

「北根が大山と下糟屋を刺殺して、焼身自殺した。という態が自然かと思ってね。」

「でしたら遺書は私が用意いたします」

 【TEGATA】が当然のように言う。

「どうやって?まさか北根に書かせるの?」と【ABURI】が真面目に聞く。

「自殺で仕置きをする時には、遺書を用意するのは先手組の仕事で、代々【TEGATA】が書いています。」

 【NAGARE】と【ZANN】、【TATAKI】は黙って頷いたが、他の者は話しが見えずにいた。それに気付き「副頭の時代に筆跡のコピーを練習して習得し、【TEGATA】が認めなければ、組頭にはなれても【TEGATA】のコードネームは継げません。」と言葉を足した。

「つまり【TEGATA】は他人の筆跡を真似できると?」

「はい。それが副頭の、【FUMI】の名の由来です。ただし長文はボロが出易くなります。予めご承知置きください。」

「判った。では【TEGATA】。北根の遺書を用意してください。」

「承知」

「でも成瀬が行方不明だと、成瀬の仕業と思われるのでは?」

 遠慮勝ちに【YOBUKO】が質問をした。

「遺書で殺す相手の、大山と下糟屋に成瀬の名を書いてもらえませんか?」

「【SABAKI】、先程もお話しいたしましたが、長文になると偽装がばれ易くなります」

「では三人、と人数を入れたらどうかな?」【NAGARE】が助言する。

「それであれば、大丈夫かと。」

「拉致後、成瀬には、北根から殺されそうになったから逃げるのだと、催眠療法を取りましょう。」

「【TATAKI】良い案だよ。そうすれば全てが繋がる。」

「ではサポートはどうしますか?」と、話しがまとまると【TEGATA】が問うた。

「【TATAKI】は【NAGARE】が。【ZANN】と【ABURI】は僕がします。」

「では【SABAKI】には私が付こう。」

 珍しく、【ZANN】自ら手を挙げた。


 仕置きの担当が決まると、刑場と裁きの時に移った。

 毎週日曜日に出す印刷物の仕上りを確認する為、木曜日の夜十一時に、三人だけが揃って待っているとの情報を得ていて、性急だが明日の木曜夜十時、アドバンストキャスト社内が刑場と決まった。

 よって彼等三人は、明日の午後十一時前には、命の火が消える事になった。


 采配が終ると、翌日の仕置きの為、各自が急ぎ帰路についた。その中、見慣れた白いBMWが、夜中の首都高速の池袋ランプにほど近い市道脇に、ハザードを点けて停まっていた。

「『お奉行』が選ばれた【SABAKI】のことで報告があります。」

 白木が多治見へ電話を掛け、そう切り出した。

「私も同意したので、とても言いづらいのですが――」

「【SABAKI】に何か問題でも?」

「えぇ……。」少し間を取り「彼は仲間意識が強すぎるようです。」と告げた。

「仲間を大事にし過ぎると?」

「はい。今回の仕置きですが、【JITTE】がやたらと『死罪』と言うので、【JITTE】を問い詰めました。すると被害者の中に【JITTE】の従弟がいたのです。」

「本当かい?それでは――」

「【SABAKI】がすぐに、今回の仕置きから外したのですが、罪人へ向ける【SABAKI】の『怒り方』が尋常では無く」

「暴走しそう。ですか?」

「と言うより、怒りに任せて仕置きをするのでは――と」

「そうですか。だとすると、【SABAKI】が言う事を聞くのは、私と【NAGARE】だけです。私は一緒に居れないので、【NAGARE】には任期を延長してでも、『葬』にいて貰わなければなりませんね。」

「私は構いませんが、【ZANN】が黙っていないでしょうね。」

「確かに。これが最後の仕置きになると思っていただけに、【NAGARE】は残すが【ZANN】は辞めさせると言っても――。頭が痛いな。」

「『前奉行』の意思も有るのでしょうが……」

「この際、【NAGARE】が『奉行』になってはどうかな?」

「ご冗談を!」

「駄目かな」

「駄目ですよ。」

「では【ZANN】も残す事になる。」

「『お奉行』が選んだ【SABAKI】ですよ。」

「意地悪を言わないで欲しいな」

「いっそ【ZANN】を養女にしたらどうです?」

「……【NAGARE】。」

「失言でした。では【ZANN】の事は直接『お奉行』からお伝えください。」

「ひょっとして愉しんでいる?」

「滅相もありません。少し、昔の【SABAKI】の真似をしただけで」

「そんなに『お奉行』を困らせていたかな?」

「『御意に』」

 通話が切れた。

「仕方ない、一度仕置き組全員を集めて、任期について話し合いを持つしかないな。奉行――。私はあなたをそんなに困らせていたのでしょうか?だとしたら、遅蒔きながら深く反省して、心からお詫びいたします。」

 多治見は胸の前で手を組んで天を仰ぎ、深いため息を吐いた。





       【SABAKI】



 神奈川県鮎川市恩室。鮎川市街地の近くに位置し、高地には大きな企業の建屋を筆頭に、小さいながらも工業団地もある。それらに隣接するように、大型のショッピングセンターや量販店なども建ち並び、昼間は人の通りの多い所である。

 両側を山に挟まれた低地の中央には、大山山系より小川が流れ、その小川を取り巻くように田畑が続いている。

 アドバンストキャストは低地だが、県道に面しているコンビニの跡地を借りて、そのまま建物を社屋としていた。

 元がコンビニなので、駐車場は広く、営業車と社員の通勤用の自家用車が、白線で仕切られ行儀良く並び、見た目的には中古車店の様相だが、唯一『求人紙印刷・発行 株式会社アドバンストキャスト』の看板が出ていて、コンビニや中古車店とは違うと判別ができた。

 工業団地も近く、昼間はそれなりにトラックや商業用のバンなど交通量も有り、時より渋滞もするのだが、夜も九時を過ぎると、人通りは元より、県道を走る車輌の交通量も激減して、ちらほらと立つ外灯が、寂しげに外灯の足下だけを照らし、県道に面していても、コンビが成り立たなかった理由を、明らかにしているようであった。


 アドバンストキャストを監視できる高台に、【MEBOSHI】は車を停車させ、双眼鏡を覗き込んでいた。

「自家用車が四台になった。建屋の中の様子は判るかい?」

 【YOBUKO】へ問い合せる。

「ちょっと待ってください。」

 そう言いながらノートパソコンを操作して、予め社内にセットしたカメラを操作し調べる。

「咎人三人と成瀬だけです。」

「承知」

 そう返事をすると、スマホを捜査して一同へ指示を出した。


《刑場を確保しました。予定通り、成瀬が先に出て来る筈です。【TATAKI】お願いします。》


《承知》


 【MEBOSHI】の所から、一台の車が、ライトを消して刑場の駐車場に入って行くのが見えた。

 裏側の通用口近くに停まると、三人の人影が降りて、社屋へ消えた。それから少し経って、成瀬であろう、ひとつの人影が来た車に乗り込んだ。


「成瀬さんだね。」

「はい。」

「悪いけど、暫く身柄を拘束させて貰いますよ。」

「はい。」

「貴方なら、すぐに家族の元に帰れますよ。」

「よろしくお願いします。」

 深く頭を下げた。それを見て【TATAKI】が睡眠薬を飲ませ、目隠しとヘッドホンをあてながら「寝ているうちに宿舎に着きます。家族の為に、早く更生してください。」と成瀬へ告げると、成瀬は黙って頷き、身をシートに預けた。

「こちらは終った。今から移動する」

 【TEGATA】へ部下の運転手が報告した。

「了解。気を付けてください。」

 一言だけ返すと「各班、現状は?」と、仕置き組を逃がす三台へ聞いた。

「【SABAKI】班。待機場所にて待機中」

「【ZANN】班。同じく」

「【ABURI】班も同じく」

「了解。時間が来たら、打ち合わせ通りに。」

「承知」と三人が同時に応えた。


 社屋に大山、下糟屋、北根の三人だけになった事を確認して、【SABAKI】は灯りの点く部屋の様子を見て中に入った。

「これが北根のカバンだな――」

 【SABAKI】はカバンの中を物色すると、サバイバルナイフを取り出し、二階にある社長室へ向かった。


 大山は入口に背を向けて、何処かと電話をしていた。【SABAKI】はそっと社長室に入り、電話が終るまでソファに座って待つことにした。

 電話は大山の上の者なのか、始終、大山が頭を下げていた。三分ほどでやっと電話から開放されると、大山が大きな溜息を吐いた。

「お疲れのところ失礼します」

 行き成り声を掛けられ、大山は驚きの余り声を失った。

「だ……誰だ」とやっとの思いで聞く。

「『葬儀の葬』と書いて『はぶり』と読みます――。殺し屋ですよ」

 【SABAKI】は乾いた声で、笑みを浮かべながら応えた。

「そんな。会長からは――」

「そちらとは関係ありませんよ。あんたがクビにして、自殺を選んだ若者達の恨みを晴らす為にきました。」

「――!」

「大変残念ですが、彼らほど苦しむ時間は与えられません。数秒で終わってしまいます。」

 【SABAKI】はそう言いながら、驚きで身動きが取れない大山のうしろに周ると、持っていたサバイバルナイフを逆手に持ち替え、大山の胸に深く突き刺した。

「どうだ。(たま)とられる気分は?」

 抜くと辺りに血が飛び散り、錆びた鉄に似た臭いが、社長室を占拠した。

 (うめ)く大山を見下ろして、「少しは苦しむ時間が持てたかい?でもね、お前達が自殺へ追い込んだ者達は、もっと長い時間、悩み苦しみ続けたんだ。」

 大山は苦しみの中で、【SABAKI】の顔を凝視したまま絶命した。


 その頃、下糟屋と北根は一階の会議室でビールを飲んでいた。

「成瀬には北根の代わりは無理そうだな」

「はい。もっと性根が座っていると思ったんですがね。」

「消すか?」

「それも良いんじゃないですか?あいつの女房は、まだ若いらしいですよ。」

「俺の好みか?」

「やっちまいますか?成瀬の目の前で」

「北根も好きだな――。ふふふ」

 その時、入口の方で何か音がした。

「うん?まさか成瀬が残ってんのか?」

 そう言うと北根は立ち上がり、会議室を出て行く。それと同時に、社長室から内線が掛かってきた。下糟屋が出るが無言で切れた。

 下糟屋は缶ビールを手に持ったまま、大山に呼ばれたと思い込み社長室へ向かった。廊下に出ても「そうか。成瀬の女房か――。興奮するな。人の女房か――」声に出して、妄想を飛ばしていた。

 社長室に来ると、机にうつ伏せで倒れている大山が目に入った。下糟屋は慌てて近寄る。

 扉の影にいた【SABAKI】は、下糟屋の後を着けて来た【ZANN】へ、北根のサバイバルナイフを手渡した。

「意外と重いな」

「北根が二人を殺して灯油を被って自殺……。そういった態だから」

「判っている。」と【SABAKI】から下糟屋へ視線を移し「ジジイが妄想で興奮か?」と、大山の容態を確認しようとしていた下糟屋へ声を掛けた。

 下糟屋は驚き振り返り【ZANN】を見る。

「なんだ。女か?」と【ZANN】の小柄だが抜群のプロポーションと、何より美貌にニヤついた。

「女で悪いか?」

「いいや。丁度抱きたかった所だ。」と、大山を放置して【ZANN】に近寄ってきた。

「そうかい。でもテメエに抱かれるのはゴメンだ」

 【ZANN】は持っていたサバイバルナイフを、下糟屋の顎の下辺りから脳へ向かって突き刺した。

「くだらない男だ。虫唾が走る。」

「ご苦労。先に出てください。」

 そう言いながら、通用口へ手を指した。

「『承知』」【ZANN】が社長室から出て行くと、【SABAKI】は声を出して北根を呼んだ。


 入口で、倒れた傘立てを治していた北根は、社長に呼ばれたと勘違いをして、入口から走って階段を登って来た。その勢いのまま社長室に入ると、中の惨状を目にして止った。

「いっ……いったい……。」

 入口で立ち(すく)み、下糟屋のクビに刺さっている物が、自分のサバイバルナイフと気が付くと、北根は急いで下糟屋に近付き、刺さっているサバイバルナイフを抜き取った。

「良い事を教えてあげるわ。」

 いきなり声を掛けられ、驚いて立ち上がりながら振り向く。

 目の前に筋肉質の大男がニコニコして立っていた。

「やたらと抜くから、出血が多くなるのよ」

「テメエは!」

 北根の問いより早く、【ABURI】は北根の後ろに回り、持っていたサバイバルナイフを叩き落とすと、太い腕を首に巻き付けた。

「このままゆっくり締め上げるわ。」

「ぐっ……」

「暴れない方が、苦しくないのよ」

 北根は【ABURI】の長身の為に、爪先立ち状態で、暴れられる状態ではない事を悟った。

「どうだい。(たま)を取られる心境は?さっき大山から答えを聞きそびれてね、教えて貰えないかな?」

「うぐ……うぐ」

「そうか、そのままでは話せないね。でもお前達に、自殺に追い込まれた若者達は、ちゃんと答えていたのに、お前達は聞こうとしなかったよね。」

 【SABAKI】の目を見て北根が失禁した。

「あら。お漏らししちゃったの?悪い子。大事なモノ取っちゃおうかしら」

 北根は【ABURI】の腕の中で、涙を流し始めた。

「お前のその涙と、彼等が流した涙はまったく違う物だ。」

 北根の意識が遠退いて行くのが、【SABAKI】と【ABURI】には判った。

「あなたが気を失ったら、生きたまま火を点けてあげるわ。苦しんで、苦しんで、貴方達が自殺に追い込んだ人達の苦しみを、少しでも知ることね。」

 【ABURI】の言葉の最後の方は、北根には聞こえなかった。気を失い、体が軽い痙攣を始めていた。

「【SABAKI】。殺るから出て行って。燃え易い物ばかりだから、火はあっと言う間に広がる。」

「君と一緒に出るさ」

「仕置きの言う事を聞かないのはルール違反よ。『お奉行』へ言いつけるから」

「しょうがない。『お奉行』に叱られても、こいつらは――。若者の未来を弄んだこいつらだけは、絶対に許せない。」

「わかった。じゃ良い?」

 【ABURI】が会社にあったポリタンクを運んできて、持ち上げると蓋を取り、気絶している北根に撒いた。

 北根が目を覚ますタイミングで、【ABURI】が指を鳴らす。

 同時に発火して、北根の全身は刹那に炎で覆われた。自分の燃える体を、放心状態で座って見ていたが、熱さに気付いたのか、暴れ出した時には既に遅く、山積みされた紙の束や、カーペットにカーテンなど、火は次々に移れる物を探して、大きな渦を作りだした。

「【SABAKI】。引き時よ」

「わかった。」

 まだ暗い駐車場に、二つの影が現れ、停まっていた車にそれぞれ乗り込むと、車は静かに動き出し、県道から市道へ入り走り去った。

 車が見えなくなってから二分ほどで、建物から火の手が上がり、遠くで消防車のサイレンが響いていた。



 【SABAKI】は車に乗り込むと、『お奉行』への報告のメールを書き始める。


《罪人三人の仕置きは無事終了しました。予定通り北根の所持品のサバイバルナイフで、大山と下糟屋を刺殺。北根は【ABURI】によって焼身自殺を装いました。遺書は【TEGATA】が用意したものを、北根の車に残しました。警察が、北根が二人を殺害後に焼身自殺したように見てくれたら、行方不明の成瀬に嫌疑が掛からなくて良いのですが。

【JITTE】の復帰をお願いします。》


 メールを送って数分で、『お奉行』から返信がきた。


《【ABURI】からクレームが出ている。君の仲間意識の強さは私が買ったところだ。しかし、一人の仲間の為に、多くの仲間を危険に晒す事など有ってはならない。

以後、繰り返すようであれば、君に『葬』を辞めてもらう》


「やっぱり、相当怒っているな。当たり前だよな。反省だ」


《申し訳ございませんでした。以降、采配通りに行い、仲間を守る事を改めて誓います。

今回はご容赦ください。》


《承知した。約束だ。》





       多治見翔一


 大型連休の始まりになる四月二十九日夕刻、浅川琴音は定期演奏会を無事に終えて、他の楽団員と楽屋に戻り、帰り支度をしていた。

「あのぅ。第二バイオリンの浅川さんですよね」

 三十代後半に見える、長身で痩せ型の男が声を掛けてきた。

 浅川は、一見紳士的にスーツを着こなしているその男の目に、女性に対しての性欲が、ギラギラと漲っているのを読み取り「だったら?」と、呆れ顔で問い返した。

 男は胸の内ポケットから、名刺入れを出し「東京で、とある財団のフィルハーモニーの責任者をしております、多治見と申します。折り入ってお話しがありまして」と浅川へ名刺を出した。

 浅川はその名刺を一瞥すると、受け取る事もせずにバイオリンをケースへしまった。

 それを見ていた楽団員が、お互いの顔を見て口角を上げた。

「フレンチに千円」

「私はイタリアンね。」

「それじゃ僕は、シティホテル直行だな」

 声を潜めて、男の次の言葉を予想し合った。

「ここでは何ですので、ホテルのレストランで食事など――」

 帰り支度が済んだ浅川は、男の話しが終る前に楽器ケースとバッグを持つと、出口に向かって歩き出した。

「あ……浅川さん」後を追いかけながら名を呼んだ。

「あんたに興味無いから。さっさと帰りな!」

「少しだけでも」

「同じ苗字でも、まったく違うな!」

「はい?」

「あんたはそっち!」と、楽団員の出入り口とは違う方を指して言い、浅川はそのまま立ち去った。

「綺麗な花には棘が有るのよ」

「彼女の場合は、毒かしら」

「それは失礼だよ。とりあえず、僕の勝ちって事で」

 男を置き去りに、賭けの勝利宣言をして楽屋を出て行った。


 駅に向かって歩いていると、スマートフォンが振動しているのに気付いた。バッグから取り出して「【ZANN】です」と答える。

「今、大丈夫かい?」

「『お奉行』と同姓の男を撃退したところで、少し機嫌が悪いのですが」

「私の親戚かな?」

 多治見は冗談を言ったつもりだったが、「あんな下品なのが親戚だと忠誠心も希薄になりそうだ」と、火に油を注いだ感じになった。

「どうせ任期の事だろう」

「そうだ」

「今は話しをする気にもならない。」

「しかしいつかは――」

「次の仕置きが済むまでは無理だ。」

「わかった。次の仕置きの後に――」

 通話は無残にも途中で切られた。

「美味く逃げられたか。まさか、ずっとこのパターンか?」

 多治見は両手で頭を抱えた。



 五月の大型連休も過ぎた平日、お昼時も過ぎて、一休みできると気を緩めた時に、暖簾をパッと掃って見慣れた顔が現れた。

「まだできるかな?」

「多治見さん!」

「仕舞いかな?」

「何を仰いますか。お客様をただ帰す訳無いですよ」

「済まないね。一杯頼むよ」

「承知しました。」と答えると、暖簾を下ろして戻り、厨房でラーメンを作り出した。

「今日は、この前の件で、お叱りに来られたのですか?」

 麺を茹でながら五六(いつむ)が聞く。

「あれはこの前叱ったろ。あれで終わりだよ」

「本当に、あれで良いのですか?」

「白木さんに奉行を頼んだら断られた。当面、奉行を引き受ける人間はいないし【SABAKI】の変わりもいない。」

「何か甘えそうですよ」

「それは困る。仲間に何か有ってからでは遅いからね。」

「はい。自分もそれが一番辛いですから――。まさか【ZANN】の任期の事ですか?」

「先日あいつには逃げられた。」

 多治見が苦虫を潰したような顔をした。それを見て「『お奉行』らしくありませんね。それとも、らしいのかな?」と、湯気の向こう側で笑って見せた。

「【ZANN】に代わる者がいれば、強行もできるのだけど……」

 世の中の人材不足と同じでは無いが、『葬』でも、人材が不足しているは確かであった。

 辛辣な表情の多治見の前に、食欲をそそる香りを従えて、一杯のラーメンが出て来た。


 五六は、いつものように、ニンニクを入れるのかと思い見ていたが、「今日はこれから人に会うので、ニンニクと餃子はお預けだよ」と笑って、フーフーと息を吹き掛け、冷まして一口頬張った。

「美味い!やっぱラーメンは五六(ごろう)に限るな」

「ありがとうございます。ところで、誰に会われるのですか?」

「これから時間有るかい?」

「はい。スープが切れましたので、午後は休業です。」

「本当かい?都合が良すぎるけど、まぁ良いか。」

 五六が笑いながら、流しの食器の片付けを始めた。

「鮎川の防災の丘公園って知っているかい?」

「はい。だいたいは」

「三時過ぎに、そこへ行くと会えるらしい」

「誰ですか?」

「君は遠くから見ているだけだよ。」

「どうしてですか?」

「魂を抜かれる。から……。かな」と、先程の辛辣な顔は影を潜め、ニコニコしながら言った。



 少年は滑り台の上に立ち、右手を翳して遠くに見える丹沢の山々の、頂の遥か先をじっと見ていた。

「何が見えるんだい?」

 多治見は、真剣に何かを見ている少年に聞いた。

「……」

 しかし少年は多治見の問いには答えず、息も止めて一点を見つめている。

 多治見も滑り台によじ登り、横に並ぶと少年と同じポーズを作った。

 少年が見つめる先をじっと見つめる。が、見えるのは青い空に、幾つか浮いている白い雲だけであった。

「来る」

 少年はそう呟くと、一層に目を凝らして先を睨んだ。

「何が来るのかな?」

 多治見が再び問う。

「……」 

 やはり多治見の問いには答えず、翳していた手に左手を添えて、双眼鏡の様な形を作った。当然、多治見も真似をして、少年の視線の先に合わる。

「来た!」

 少年は嬉しそうに、双眼鏡を覗き込んだまま言った。

 多治見も負けずに『来た』物を、青い空の中で探した。

「まだ見えるの?」

 三度目――、多治見が聞く。

「うん。山の向うの、おにぎりの様な白い雲の上」

 多治見は集中して雲の上を見る。

「見えた!」

 おにぎりの上を、ゆっくり横切るように動く、銀色の点が見えた。

「あれは何?」

「お父さんが乗っている飛行機。もうじき、飛行機雲を引くよ」

 双眼鏡を覗いたままで言う。

「本当だ!白い尾が出て来た!」

 多治見は子供の様にはしゃいでいた。心が躍った。

「どこへ行くんだろう?」

「中国」

「へぇ。凄いな!」

「僕のお父さんはね。銀色の飛行機で、たくさんの荷物を運んでいるんだ。」

「パイロットかい?」

「うん。おじさんは?」

「おじさんは――」言いよどんだ。

「あぁ。見えなくなっちゃった。」

「無事に着くと良いね」

「着くよ。だってお父さんが操縦しているんだもん」

 手を双眼鏡から戻しながら自慢げに言う。

「そうだね。」

 多治見も手を自由にして、少年を見て答える。

「お父さんはね。中国の次はヨーロッパへ行くんだって。その次がアフリカで、次がアメリカ。帰って来るのは、僕が小学校を卒業する頃なんだ。」

「そうなの、寂しいね。」

「大丈夫、お母さんもおばあちゃんもいるから」

 少し寂しそうに、小さな声で呟いた。

「パイロットか。凄いな。」

「僕の自慢なんだ。」

 そう言うと少年は、長い滑り台のローラーをカラカラと鳴らして滑って行った。多治見はS字を描き降りてゆく少年に続いて滑り始めた。

 見た目より、スピードが出て意外と興奮した。下で少年に追いつくと「楽しいけど、おしり痛いね。」と笑顔を向ける。

「おじさん。板が無い時は、靴底で滑るんだよ」

 少年は体育座りの様な格好をして見せた。

「なるほどね。」と大きく頷いた。

「おじさん。僕帰るよ。」

「そう。」

「ちゃんと仕事探して働きなよ。」

 心配顔を多治見へ向けた。

「えっ?」

「リストラされたんだろ。だから平日のこんな時間に、一人で公園にいるんでしょ。僕のお父さんもそうだったから判るんだ。でもね。僕のお父さんは、僕とお母さんとおばあちゃんの為に、一所懸命に仕事探して、やっとパイロットになれたんだよ。だからおじさんも、諦めずに、子供と奥さんの為に仕事探した方が良いよ。」

「ありがとう。そうするよ」

 多治見は笑みを浮かべて頭を掻いた。

「じゃぁね。」

 少年は手を振って、公園の出口へ向かって走って行った。

「良い子じゃないですか」

 【SABAKI】が多治見の横に来て言う。

「あぁ。成瀬の息子は、しっかりした優しい子だな」







                             【SABAKI】完





             平成二十九年十二月三日~平成三十年三月二十五日


これにて多治見の【SABAKI】は完結となります。

長い間、お付き合いをいただきまして、ありがとうございました。

機会がありましたら、寺社奉行所のその後を書きたいと思います。

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