バカは風邪をひかなくはない
目覚まし時計が不快な音を喚き散らすのにはすっかり慣れていた。もう起きられない。この音が俺を眠りから引きずり出すことはもはや不可能だった。
「おーい! ともちゃ~ん、朝だよー、学校だよー、起きてー!」
しかし、別の音、甘ったるい女の子の高い声は違った。肩に触れる柔らかい手の感触と共に、俺を起こしてしまう。
「……ン」
まだ寝たい。俺は寝返りをうって彼女の声から逃れようとする。
「もー、ともちゃんってば! 起きてって!!」
それで火に油を注いだのか、余計に彼女は大声を上げて喚き散らす。これだと、目覚まし時計と大差ない。
「……わかったよ、起きるよ」
渋々体を起こす。寝癖の刎ねた後ろ髪の根元が、異様にかゆかった。カーテンの閉め切ったワンルームは、朝日を遮断しており薄暗い。
「やった! さ、早く早く私みたいにキャピキャピ準備だよっ」
「キャピキャピってどんな準備だよ……」
その中で太陽や蛍光灯のように明るいのが、幼馴染の染馴糸華だ。両手をグーに握って、両肘をきゅっ、とお腹の方に寄せる。糸華が嬉しいと取る癖のようなガッツポーズだ。おかげで紺色のセーラー服の下にある彼女の豊満な胸もまた寄せられ、白いスカーフが服の上にできた谷間に挟まれる。朝から見るには刺激的な光景だった。
「さ、早く準備してね。遅刻しちゃうから」
言いつつ、糸華は俺の部屋を見渡す。昨日食べたお菓子のゴミや丸めたティッシュペーパーが床に散乱し、低いテーブルの上にはゲームのコントローラーが投げ出されていた。
「もー、またこんなに散らかしちゃって……」
糸華はそれ見ると、片づけずにはいられなかった。母性丸出しだ。
寝起きの頭は酷くぼーっとしている。司令塔がぼさっとしていれば手下が動けないのとお同じように、俺の体もすぐには動けない。できることと言えばあくびくらいだった。
「ともちゃん、早く着替えてよー。私まで遅刻しちゃうよー」
よれよれのコードをコントローラーに巻きつけながら、糸華は言った。頭に十分な酸素が回ったのか、俺はようやく彼女の姿の違和感に気が付いた。
「おい、糸華」
「何?」
紺色のスカートを翻しながら、糸華が振り返る。
「今日から夏服だぞ」
「……え?」
糸華が自分の姿を見下ろした。手首まである長袖の紺のセーラー服は、紛れもない冬服だった。
「え!? きょ、今日からだっけ!?」
「昨日言ってたろ?」
「あー、またやっちゃった……。着替えて来るっ」
糸華は大慌てでかつんかつんと足音を立てながら玄関に向かって行く……かつんかつん?
彼女の足もとを見てみると、こげ茶の靴をしっかりと履いていた。
「お前! なんで靴脱いでないんだよ!?」
「え? ……あ!? えへへへ……」
またも振り返って足元を見た糸華が、気恥ずかしそうに頬を緩めてごまかす。
「今日だけアメリカンスタイルってことで……」
「いいわけないだろっ! はぁ……お前は部屋をきれいにしたいのか汚くしたいのかどっちだよ」
「えへへ。ごめんごめん。それより、すぐに着替えてくるからともちゃんも着替えて待っててね」
糸華は悪びれた様子のない笑顔で、結局靴を脱ぐことなく部屋を出て行った。
着替えはすぐに終わった。買い置きしてある食パンを食べて、顔を洗って寝癖を直す。わずか十分くらいで全部終わった。
部屋を出るとまたあくびが出る。コンクリの冷たいマンションの踊り場に糸華の姿はまだなかった。向かいの202号室が彼女の部屋だ。この厚い扉の向こうで、また何か突飛な事が起きているんじゃないのか? と心配になる。
糸華は酷い天然ボケだ。その上それを自覚していなく、自分のことを世話焼きのしっかりものだと思っている。彼女に世話を焼かれる身としては文句を言えた立場ではないと思うが、非常に性質が悪い。
「おまたせっ」
糸華が開いた扉の向こうから出てくる。爽やかな白いセーラー服姿だ。それから、彼女の手には、二つのお弁当袋。そのうちの一つを彼女は俺に手渡した。
「はい、今日のおべんと」
「うん。ありがとう」
受け取ると、すかっとした爽やかな笑顔を見せる。
「どーいたしまして。今日は気合が入ってるから、楽しみにしててね」
並んで階段を下りる。その一歩一歩を糸華は楽しそうに歩く。肩までかかった髪の毛先をひょこひょこと揺らし、他愛もない話を語り、俺はそれに耳を傾ける。俺は、彼女が幸せを満喫しているように見えていた。いつも明るい彼女なのだが、俺と一緒に居る時には、彼女の表情が一層華やいでいるように思えるからだ。
うぬぼれかもしれないが、俺は糸華からとめどない好意をひしひしと感じていた。俺はまだ、それに答えてはいない。彼女は気になる相手なんかじゃない。所詮ただの幼馴染なのだった。
学校の昼休みになると俺は数人の友達と一緒に教室の一角を独占する。
「腹減ったなー」
友人はそう言いながら、朝に買ったのであろうコンビニの袋を取り出す。俺も同時に、朝糸華から受け取った弁当を寄せ合った机の上に置いた。
「いいよなー、友樹は」
友人の視線が俺の弁当に集中する。
「何がだよ」
「その弁当、染馴に毎日作ってもらってるんだろ?」
「いいよなー。愛妻弁当じゃん」
「ちげぇよ。幼馴染のおせっかい弁当だよ」
どうも、みんな俺と糸華のことを執拗にくっつけたがってくる。悪い気はしないが、良い気もしない。
「ほんと羨ましいよなー友樹は」
「どこが?」
「だってよ、お前染馴と二人暮らししてるんだろ?」
「二人暮らしじゃない。部屋が隣なだけだ」
とはいいつつ、実質はあまり変わらないように俺も思う。お互いに合鍵を持ってるから、お互いの家には入り放題だし。だからと言って、友達が想像するようなことは何一つ起こってはいないが。
「かわんねーって。それで、どこまでやったんだ?」
友人がにやにやとしながら聞く。
「何も」
「えー、嘘だろ!? あの染馴だぜ?」
二人の友人が目配せをして、深く頷き合った。
「そうそう。あの明るくて、可愛らしくて、何より巨乳の染馴だぞ!?」
友人は巨乳、を強調して言う。そのせいで、クラスの女子から冷ややかな目を向けられてしまう。彼女らの中では俺までいっしょくたに変態だと思われていることだろう。
「そんなに魅力的なのか、糸華は」
俺が疑問に思っていることを投げかけると、友人たちはそんな馬鹿な、と目を丸くさせる。
「魅力的だろ、あの胸!」
「最高じゃないか、おっぱい!」
……男の見る目は極端だ。
「まぁ、気にはなるけどな、あの胸は」
俺も男だった。ついつい見てしまうものだけど、中学に入る前からあんな感じだから、あまり気にしたことはない。……気にしていないのにこんなに覚えているのだから、無意識と言うものは怖いな。
「絶対お前のこと好きなのにもったいないよなー」
「そうそう。なんで付き合わないんだ?」
彼らはそれが不思議でたまらないらしい。いつもいつも糸華の話が上がるとそれを聞いてくる。
「だから、そう言うのとは違うんだって」
言いつつ、ホントにそうなのか、と自問自答する。もしかしたら、好意を持っているのかもしれない。けれど、その好意が、異性としてと幼馴染として、はっきりと境界線で隔てられている。俺の好意は、幼馴染の枠を超える気配がないのだった。
「幼馴染だよ。ただの。それに、アイツと四六時中一緒に居るのは疲れるんだ」
「それは幸せな奴だけが言える文句ってやつだ」
友人の僻みのような皮肉を聞きながら、俺はやっと弁当を開けた。二段弁当を別けて、片方の蓋を開ける。下の段はご飯がびっしり詰まっていた。
「違う。あんな天然ボケと一緒に居ると、寝るころには毎日喉が痛く……」
言いながら、もう一つの弁当箱のふたを開け、俺は言葉を失った。
中に詰まっていたのはこれまたご飯だった。机の上にご飯だけの詰まった弁当が並べられている。
「はぁ……兄弟のおかんかよ」
文句を言いに行こう。ついでにアイツの弁当のおかずを貰って……。そう思って立ち上がった時だった。
「ともちゃん! 大変だよ! お弁当が、お弁当が!!」
隣のクラスにいるはずの糸華が、ちょうどよく俺のクラスまで声を荒げてやってきた。
「ああ。知ってる」
両方ともおかずだったんだろう。糸華も女の子サイズの小さい二段弁当を持ってきていて、それを俺の方に差し出すように見せた。
「両方ともご飯だったんだよ!」
叫んだのは糸華だ。
「……は?」
確かに、彼女の弁当箱にもびっちりとご飯が詰められていた。
「お前は……どうやったら用意した弁当箱全部にご飯だけを詰めれるんだよっ!?」
俺の言葉に、糸華は「えっ」と驚いた。それから、俺の弁当箱を見る。彼女の弁当に起こっているのと同じ惨状を目の当たりにすると、えへへ、と苦笑いをした。
「やっちゃった……。ともちゃんを起こす前にご飯を詰めて、起こした後におかずを詰めようと思ってたんだけど、服を間違えたごたごたのせいでうっかり間違えちゃったみたい」
「はぁ……」
呆れてため息しか出ない。
「うぅ……ほんとごめんねともちゃん。折角ともちゃんの好きなお刺身を用意していたのに……」
「弁当に刺身を入れるなよっ! 腐るだろっ!!」
びしっとツッコミを入れると、教室中から笑いが起こる。
「よっ、いいぞ夫婦漫才!」
友人も嫌な茶々を入れてくれる。全く、だから夫婦でもなんでもないし、カップリングするんじゃないよ。
そんなことより、目下の悩みはこの白米地獄をどうやって切り抜けるかだった。
授業が終われば、俺はすぐに家路につく。先輩後輩なんてめんどくさいしがらみに囚われたくないから俺は部活には所属していなかった。
「あ、ともちゃん待って!」
昇降口を出ると、校門に着く前に糸華が駆け足に俺の隣にやってきた。
「お前、部活は?」
結構な距離を走って来ていたのか、息を上げて肩で呼吸をしていた。
「今日休みなんだ」
汗に濡れた顔を糸華はまた微笑ませた。こいつはいつも笑っている。
「だから、買い物に行こうと思ってるんだけど、一緒に行こっ」
「ヤダ」
困らせたくて断る。
「えー!!?」
思った通り眉と目を八の字にして口をむっとさせるが、不思議と困っているように思えなかった。コロコロと表情を変えている様も、楽しんでいる風に見える。
「帰ってまたゲームするのぉ? 不健康だよー、一緒に買い物行こうよー」
ゆらゆらと体を左右に揺らしながら講義する姿も楽しそうだ。
「分かった。付いてくよ」
「ホント!? やったー!」
糸華は喜びのポーズを取る。悩ましい胸をぐっと寄せるポーズだ。もしかしたら、こんなことするから、みんなからおっぱいお化けみたいに思われてるんじゃないのか?
買い物、とは言え俺達の間では服を買ったりクレープを買ったりなどのデートをするようなものではなく、スーパーで食材を買うだけだった。
「おっかいどくー♪ たまご二パック百八えーん♪」
スーパーの自動ドアを出るときに、糸華はご機嫌に謎の歌を口ずさんでいた。
「おひっとりさまは一パックまででー♪ お二人様は二パックまででー♪」
糸華の頭の中は常時晴れ模様のお花畑だ。近くにいる子供たちでさえ指をさして物笑いの種にするくらいにノー天気だ。
「恥ずかしいから止めろよ」
ビニール袋を半分持っている俺は子供から笑われている糸華といるのが恥ずかしい。心はどんよりの曇り模様だ。あいにく、空模様は俺の心と同じだった。
「雨、降りそうだね」
空を見上げた糸華が、それに気づいたようだった。
「傘持ってきてないからなぁ。買って……」
「じゃ、急いで帰っちゃおー!」
ぴゅーっと糸華は走り出してしまった。スーパーで買って帰ろうと勧めようと思ったのに。
「こういうときは、大体嫌なことになるんだよなぁ」
独り言を零して歩き出すと、ぽとり、と鼻先に水滴が当たった。
マンションに着くころにはすっかり大降になっていた。俺も糸華もずぶぬれにされた。
「ぬれちゃった」
「傘を買ってくれば良かったのに」
あとその言い方止めなさい。
「あはは……そうだね。先走っちゃった……うヴぇくしゅんっ」
だから言い方。あと、くしゃみが全然可愛らしくない。
「ったく。言わんこっちゃない。ほら、冷えるから早く部屋戻るぞ」
背中に手を当てて、階段を登ることを促す。
「うん」
糸華はうつむき加減にまた微笑む。ほんと、何をしていてもこの子は嬉しそうにしている。
そんな糸華の後頭部を見下ろすように見ていると、自然と視線が彼女の前の方に寄って行った。その先にあるのは、雨に濡らされて白いセーラー服に浮き出た黄緑色のブラと、色の良い肌だ。もっと直接的に言えば、濡れて透ける彼女の胸だ。随分と前に突き出ているそれは大きく、深い谷間を作っていた。
自然と頬が熱くなる。魅力的だ。柔らかそうで見ているだけで分かる重量感あって、男ならこれをおもちゃのように弄びたいと思い、子供のように甘えて包み込まれたいとも思う。子供心を失わない男にとって、至高の逸品だ。これなら、クラス中、いや学園中、さらに言えば日本、世界中の男が彼女に惹かれるのも納得できる。
「……ン、ごほん」
くぎ付けになっていると、糸華が咳払いをした。
「あ……」
見上げる彼女の目はじっとりと俺を糾弾していた。
「もー、ともちゃんまで……違うと思ってたのに。えっち」
糸華はすっかりへそを曲げてしまったようだ。背中に当てた手から離れるように、ぐんぐんと階段を登って行く。
やっと怒らせたと思って得意になるけど、自分の名誉を酷く傷つけてしまった気がする。
「ヴぇっくしゅん!!」
冷ややかなコンクリートに、不気味なくしゃみが反響した。
二日後の朝。酷く目覚めが悪かった。悪夢を見たわけじゃない。熱帯夜だったわけじゃない。体を起こしてぼーっとあたりを見渡していると、その理由に気が付いた。
「……糸華?」
糸華に起こされなかった。時計を見れば、もう朝のホームルームが始まっている時間だった。ぎょっとして、急いで体を起こす。
「糸華め……寝坊しやがったな」
下宿を始めてからもう二か月以上経っているが、こんなことは初めてだった。全く、あいつのせいで俺まで遅刻するだなんて……。
すぐに着替えて、顔も洗わずに部屋を飛び出す。向かいの糸華の部屋のドアはひっそりと静かだった。
「糸華、起きろっ! 遅刻するぞ」
合鍵でドアを開けて部屋に入る。まだ寝ていると思っていたが、部屋の明かりが点いていた。部屋の造りは俺の部屋と同じで、電気のついているのは台所の方だった。
何をしているんだ?
「おい、糸華……!?」
台所を覗いてみると、ぐったりと白い床に横たわっている糸華がいた。
「大丈夫か、糸華!!」
すぐに駆け寄って体を抱きかかえる。糸華はうぅんと唸って薄目を開けた。
「ともちゃん……」
意識はあるようで、安心した。糸華は目が座っていて、頬を上気させている。もしやと思っておでこに手を当てると火傷しそうなほどに熱かった。熱がある。
「ともちゃん……学校……」
どうやら、遅刻する時刻になっていることには気が付いているようだった。
「バカ。お前をほっといて学校なんかいけるかよ」
俺は糸華を抱き上げた。
「ひゃ……ともちゃん?」
「ベッドまで運ぶ。ちゃんと布団で休んでろ」
宣言通り糸華をベッドまで連れていくと、すぐに電話を掛ける。駆ける場所は二か所。まずは病院だ。医者の先生になんとか頼んで、ここまで来てもらうように話を付けた。それから次は学校。糸華も俺も休むことを告げると、先生は「清く正しい事をするように」と的外れの注意をした。だからしないっつの。
電話を終えて、スマホをポケットに入れる。体に響くと悪いから糸華の寝室から出ていたが、すぐに部屋に戻る。
「ともちゃん……学校行かないとダメぇ……」
戻った矢先、糸華はかすれるような声で言った。
「行けるかよ」
「でも、お医者さんが来たら薬飲んで寝るだけだから……」
「バカ。誰が鍵締めたドア開けるんだよ。お前、今立てないだろ?」
「そんなことないよ……」
そう言って、糸華は無茶にもベッドから降りて立ち上がろうとした。
「ほら……っと、あわっ!?」
しかし、案の定ふらついて、倒れそうになる。俺は慌てて体を支えてやる。
「ダメじゃん」
「でも……」
「無茶すんなよ。それに一日くらい休んだってどうってことないさ。さ、寝かすぞ」
「……うん」
糸華はもう反論もせずに、言われるがままにベッドに寝転がる。俺は乱雑にめくれ上がった布団をかけ直してあげた。
「ありがと」
「いいよ、これぐらい」
「そうじゃなくて……私のために、学校も休んでくれて……」
糸華は上気した頬をさらに桃色に染めていた。嬉しそうでもあり、どこか気恥ずかしそうだった。いつもの元気な様子のない、しおらしい糸華の姿は儚げで、あまり見たことが無く、俺の胸の奥をくすぐってくる。俺は見上げる糸華の顔をじっと見つめていた。どうしようもないほどに見惚れている。
「……」
糸華も熱っぽい目で見上げていたが、見つめ合っていることに気が付くと、掛け布団を引き上げて、顔を隠した。
「……」
気まずかった。今までずっと一緒に居たのに、何を言えば分らない。言葉が見つからない状況なんて、初めてのことだ。どうしたんだろう、俺。
気まずい空気を切り裂くように、チャイムの音が鳴った。
「あ、お医者さんかな」
お医者さん、なんて言ったこともないのに、つい口をついて出ていた。俺は足早に玄関に向かった。
糸華はただの風邪だった。診察が終わって、薬を貰い、昼過ぎになるとすっかり寝入っていた。薬が随分と効いているようだった。
彼女が寝ている間は暇になりそうだったので、何かできることを探す。とはいえ、女の子の部屋を漁るのもどうかと思うから、できることは洗濯、掃除、皿洗いのどれかだった。まず、さきに洗濯をしようと、洗濯機の前に行く。おあつらえ向きに、洗濯籠に洗濯物がたまっていた。
「よし、やるか」
と思って洗剤を見てみると、いくつも種類があった。自分の部屋には洗剤と柔軟剤しかないのに、なぜかここには何種類もある。どれをどう使えばいいんだ?
……まぁ、適当でいいか。と、洗濯籠に手を突っ込む。
最初に取り出したのはブラジャーだった。
いや、狙った訳ではない。偶然、掴んだのがこれだっただけだ。
しかし、よくよく見てみると、胸を隠す部分が嫌に大きい。いや、小さいブラを見たことがあると言うわけではないから、比べたことはないけど。それでもブラの素人たる男にから見ても大きいのは明らかだった。
「……」
こんなに、大きいんだ。ふと、そう思っていた。
「って、何を思ってるんだよ」
すぐにブラから手を離す。異様に胸が高鳴っていた。エロいものを目の当たりにすれば、男は誰だって胸が高鳴るものだけど、それ以前に、これが糸華のものだ、と認識してしまい、鼓動に拍車を掛けていた。
糸華……。いつも元気な癖に、風邪をひくと急にしおらしくなりやがって。早く、元気になって欲しいとも、ずっと今のままでいてくれてもいいとも思う。でも、どんな糸華であっても……。俺は、あいまいな境界線の上に立っていた。
「ともちゃん?」
台所で夕食の準備をしていると、寝室の方から糸華の声が聞こえてきた。
「起きたか」
部屋を覗いてみると、糸華は体を起こして、冷却シートを付けたおでこの下の目をうっすらと開けていた。
「うへ~、べとべとするよ~、ともちゃん」
糸華の着ている派手な花柄の子供っぽいパジャマは汗でぐっしょり濡れていた。
「だな。体、拭くか?」
「うん」
糸華は頷いた。俺は浴室からタオルと洗面台を持ってくる。濡らして、体を拭かせるつもりだった。
しかし、部屋に戻ると、糸華は俺に背を向けて上着を脱いでいた。しかも、ブラにまで手を掛けている。
「ちょ、何やってんだよ、糸華」
「え? だって、ともちゃん背中拭いてくれるんでしょ?」
首だけ回している糸華の目は、まだとろんとしている。寝ぼけているのか?
「ヤダよ」
下着姿の上半身を見るだけでも、気が動転しそうなのに。
「え~、やだ~、後ろ拭いてよー、すっごいべとべとするんだよー」
けど、糸華は子供のように駄々をこねた。
「だから……」
「やだやだー、拭いてよ拭い……ごほっ」
駄々をこねている最中に咳をする。呆れるしかない。
「ほら、言わんこっちゃない」
「で、でも~」
まだ糸華は駄々をこねそうだった。
「分かった。後ろ拭いてやるよ。それでいいだろ?」
「うん!」
糸華は元気よく頷いた。どうやら薬が効いているらしい。でも効きすぎだ。俺はもうちょっとしおらしい糸華の方が……。
「っと、違う違う! 俺は何を……」
「何? ともちゃん」
「……なんでもない」
「そう? じゃあ早く拭いてよー」
「はいはい」
糸華は背中を向けたまま、上半身裸になった。脱ぐ必要ないだろ。そうは思ったけど、言わなかった。
糸華の背中をぬるま湯で濡らしたタオルで拭く。あまり力を入れないように、でもただ摩るだけにならないように、微妙な力加減をする。
「ン~♪」
糸華は気持ちよさそうに声を洩らす。撫でられた猫みたいだ。
「よし、終わり」
背中だけなので、すぐに終わった。
「えー、もう終わりなのー?」
「もう終わりだよ」
「やだー。じゃあ、腕もやって腕もー」
……糸華はここぞと甘えて来ているようだった。調子に乗りやがって。まぁ、いつも俺がいろんなことやってもらってるから、これ位は恩返しってことで許してやるか。
「あ、ともちゃん。前を見ちゃダメだからね。ともちゃんもおっぱい好きの男の子なんだから」
調子に乗りすぎだ。ちょっと痛い目にあわせてやろう。糸華はこれでもくすぐられるのが苦手だから、腕を拭くふりをして脇をくすぐってやる。
「糸華、腕を上げて」
「こう?」
俺の指示に従って、両手を羽のように広げる。
脇ががら空きになった。
「じゃあ、するぞ」
そう言う俺の手にはタオルは無い。糸華も気付いていない。
「うん」
安心しきった返事をされた。これはまたとないチャンスだ。
「……ほらっ!」
俺は思い切って脇に手を差し込んだ。
「ひゃっ!?」
……までは良かった。少し、手を前に出し過ぎた。ぐっと指先を曲げて脇に押し付けようとしたのだが、指先には脇より先の柔らかい感触に突き刺さってしまった。
胸の横だった。
「……あ……」
「……」
き、気まずい。糸華も、その行動を糾弾するわけではなく、くてんと触られた胸を見るように頭を前に倒しているだけだった。
「さ、腕を拭く……ぞ」
俺は気まずい空気のままに手を離して、彼女の腕をタオルで拭きはじめた。
「あう……あ」
糸華は随分とテンパっているようで、呻くような声を洩らしていた。それは、両腕を拭き終わるまで続いた。
「ふぅ……今度こそ終わりだ。後は……」
「後!?」
自分でやれよ、と言おうとしたら、糸華がおっかぶせるように叫んだ。
「ん?」
「あ、後……後……うん、そうだよね」
何か一人で納得しているらしい。なんだか嫌な予感が。
「あ、後はそ、そうだね。後ろを頼んだんだもん……恥ずかしいけど、よろしくお願いしますっ!!!」
糸華は腰を上げて膝立ちになる。それから拭いたばかりの腕を曲げ、手先を腰の辺りへ。そして、そのままズボンに手を掛けて、ずるり、と半分ほど一気にずらした。
「ちょ!!! 糸華、何やってんの!?」
俺が言うと糸華は首だけまげて俺の方を見た。
「ひぇ!? え、あ……違うの?」
顔を真っ赤にしながら糸華が問いかける。
「あ、当たり前だろ!! そこならその……自分で手も届くし……」
言っていると、「そこ」に目線が移動する、鮮やかなピンクのパンツが、ズボンをずらしたときに一緒にずれたらしく、割れ目が少しだけ見えていた。白い肌とピンクのパンツのコントラストは、まるで桃のようだった。
「あ、あああああ、あああああああ」
もう、どうすればいいのか分からない様子で体を石像のように固まらせながら、あわあわとしていた。俺も、どうすればいいか分からない。
困っているとピーと台所から電子音が鳴った。
「あ、お粥できたみたいだから。ほら……お腹空いてるだろ? 準備してくるっ!」
ちょうどいい大義名分ができた。図ったようないいタイミングだ。俺は返事も待たずに台所に去った。一人になっても俺の心臓は張り裂けそうに高鳴っていた。
冷静さを取り戻して、お粥とたくあんを持って、寝室に入る。
「あ……」
糸華は、別の新しいパジャマに着替えて、ベッドの前にあるテーブルの傍にちょこんと座っていた。まだ、気恥ずかしげに目線を泳がせていた。
「ほら。ご飯、またお粥だけど」
テーブルの上にお盆を置く。そう言えば昼もお粥だった。
「いいよ、またお粥でも……」
そうは言いつつも、糸華はお粥に手を付けようとはせずに、お盆の乗っている木の匙を見つめている。
「どうした? 食欲、ないのか?」
聞くと、うつむきながら言った。
「そうじゃない……じゃないんだけど……そのぉ……食べさせてくれたら、うれしいかなぁって……」
ちらり、と糸華は俺の方を仰ぎ見た。まだ、甘えタイムは続いているらしい。でも、さっきのことがあった手前、素直に甘えるのは気が引けるのか、それとも気恥ずかしいのか、言葉は切れ切れで、自信なさげだった。
「……分かった」
俺は糸華の隣に座って匙を取った。断れるわけがないじゃないか。しおらしくしていても、甘えたい気持ちを抑えきれない糸華の願いに応えないわけにはいかなかった。
「はい……」
お粥を掬って、糸華の口元に運ぶ。
「……ふふ」
糸華は顔を上げて、俺を見て、嬉しそうに目を細めた。
「あーん、って言って?」
「ヤダよ、恥ずかしい」
「ダメ。言わないと、食べられない」
「食べないと、風邪治んないぞ?」
「だから、あーんって言って?」
梃子でも言わせたいらしい。
「分かったよ。あーん」
俺はあきらめて言った。
「あーん」
糸華も言いながら口を開けて、匙をそっと、色の薄い唇で包み込んだ。
「ン……」
「おいしそうに食べるな」
艶っぽい声を洩らして、お粥を咀嚼する糸華に問いかけると、嬉しそうに頷いた。
「だって、ともちゃんに食べさせてもらってるんだもん。ともちゃんも食べる? 私が食べさせてあげるよ」
いたずらっぽく笑う糸華。また、もとに戻ってるよ。
「ヤダよ。風邪がうつるから」
「あ、うつせば風邪治るかな?」
「ただの通説だよ。それに、直接粘膜接触するんじゃないから、お前の病原菌はお前の中にあるまんまだよ。それより、ほら、あーん」
口を塞ぐようにまたお粥を口に持って行く。
「あーん」
餌を前に差し出された小動物のように、糸華はそれに食らいつく。
「ン♪」
素朴な塩味なのに、糸華は本当においしそうに食べてくれた。
「ねーえ、ともちゃん」
ベッドに寝かせつけた糸華は、食後の薬を飲んだ事で、もう風邪でも治ったつもりになっているらしく、持て余している元気さを口と表情で発散していた。
「早く寝なよ糸華」
「えー、眠たいけどまだ寝たくない」
「ダメだ。寝ないと風邪は治らないぞ」
「はーい。じゃあ、お願い聞いて?」
すかさずそう言う糸華は風邪をひいたときのうまみをしっかりと理解しているようだった。
「何をすればいい?」
俺も言いなりになっていた。……ただの、日ごろの恩返しのつもりだ。
「んーとね……」
糸華は布団の橋から、そっと手を出した。
「手、握って? 握っててくれたら寝る」
糸華の手が、ひょこひょこと動く。これもまた、餌を求める鳥の雛の羽ばたきのような動きだった。
「はいはい」
躊躇うこともなく、糸華の手を握る。小さくて柔らかく、冷たい手だった。。
「えへへ~。やったー」
こうやって笑う糸華の顔も、完全に健康そうな平常の色をしているわけではない。顔は朱に染まり、手は色を失ったように白い。見るからに不自然な不健康体だ。
「さ、寝ろよ」
俺は両手で包み込むように手を握った。
「うん」
糸華は眠るつもりになったらしく、目を瞑る。しばらく黙っていたが、彼女の呼吸が安らかで規則正しい寝息にはなかなかならなかった。
「ねぇ……ともちゃん」
うわ言のように糸華がしゃべった。
「あのね……ともちゃん……ほんとは……もっ……と……やって……こと……ある……ん…け……ど……すぅすぅ」
話しているうちに、糸華は寝息を立てた。何を言いたいのかそれにどうしてこんなタイミングで言おうとしたのか。しかも寝ちゃうし。元気になったりしおらしくなったり、恥ずかしさに顔を赤らめたり、風邪で頬を上気させたり、ホントに忙しい奴だ。
手を握りながら、糸華の寝顔を見下ろす。元気な時が晴れた日の太陽なら、寝ているときは雲に陰った静かなときだ。どんな表情でも、どんな時でも糸華である時には変わりない。
「全く。どっちも同じなのに、こんなときばっかり可愛く見えるんだから……」
少なくとも、今の俺には、元気になったときの糸華もどうしようもなく可愛くて、愛おしく見えるに違いない。もう、片足を境界線の向こう側に踏み出しているようだ。
気付いたのか、それともこの間に生まれたのか分からない感情を噛みしめるように、ほほ笑むように眠る糸華の顔を見続けていた。
「こいつ、寝るときまで笑ってるよ」
糸華の風邪は二日後には完治した。学校に行ったら、友樹にお礼をしよう。いっぱいっぱいお礼をしよう。そう誓って、家を飛び出した。
朝のホームルームの前に友樹の教室に訪れたが、まだ来ていなかった。どうしたんだろう、と思いながら、ホームルームが終わるのを待って、すぐにまた友樹のクラスを訪れた。
「お、染馴じゃないか」
友樹の教室の前で、友樹の担任の先生に出会った。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。ところで、知坂はどうした?」
「え?」
糸華はきょとんと首をかしげた。
「なんだ、今日は一緒に学校に来なかったのか?」
「……あ!!」
糸華はすっかり忘れていた。休んでいたせいか、ここに来てからの毎日の習慣、友樹を起こすことをすっかり忘れていたのだった。
「あー!!! 私、またやっちゃった……先生! 携帯使っていいですか!?」
先生が許可すると、糸華はその場ですぐに電話を掛けた。起こさなかったからきっと怒っているだろう。折角看病してくれたのに……恩をあだで返す様な事をして……、糸華の頭の中は不満が渦巻いていた。
ワンコール、ツーコール、ほんのわずかな時間が緊張に満ちてひたすら長く感じる。
「……もしもし」
スリーコール目で友樹は電話に出た。
「と、ともちゃん!? ど、どうしたのその声!!?」
電話越しに糸華の耳に届いた声は、酷くガラガラでかすれていた。
風邪を引いた。多分、いや間違いなく、看病をしていたせいでうつされた。
「うん。大丈夫、昨日病院に行ったから。今日はゆっくり休む……うん、だから心配しなくていいって」
電話越しに、糸華のテンパった姿が想像できた。
「じゃ、うん。先生にも休むって……うん、お願い」
それだけ頼むと、俺はすぐに電話を切った。これ以上、糸華に心配をかけるわけにはいかない。俺が風邪を引いたことを黙っていたのも、糸華が看病すると言い出しそうだったからだ。それで休ませるのも気が引ける。
ただ、今日糸華が起こしてくれなくて、寝坊してしまったのは予想外だった。学校に電話を入れることもできず、糸華に知られることになってしまった。糸華は今日一日、勉強に集中できないに違いない。自惚れているみたいだ。それは嬉しくもあるが、迷惑を掛けているみたいで嫌だった。
まぁいい。とりあえず、今日はゆっくり休んで、明日には元気な姿を見せてやろう。それが、一番糸華を喜ばせる方法だ。俺は、もう一度目を瞑った。
「ともちゃん!!」
眠りを妨げたのは、わずか十数分後に飛び込んできた、糸華の声だった。どたどたと足音を立てて、寝室に飛び込んでくる。
「糸華……」
薄目を開けて、首だけをずらすと、糸華が目を潤ませて俺を見下ろしていた。
「ともちゃん!!」
そしてすかさず、その顔を近づけてきた。近づく顔が止まったのは、互いの唇同士が触れ合ったときだった。
「……!!!???」
な、何をっ!!?? どうして、キスをっ!!!?? 目が酷く冴える。だが、押しのけることもできなかった。体も表情も石のように固まって動かない。
「……ふぁ」
唇を離して、糸華が間抜けな声と共に息を洩らす。
「な、なん……で?」
やっと自由になった口で言えたことはこれだけだった。
「粘膜接触だよ!」
「……は?」
「私が風邪をうつしちゃったから、ともちゃんは風邪を引いたんだもん! ともちゃんが風邪を治すためには、私に風邪をうつせばいいだよ!」
……色気のない、間抜けな答えだった。
「はぁ……風邪は薬と自分の体力で治ったもんだろ。俺にうつしたとかそう言うのは関係ないっての」
俺は呆れて、頭が痛くなりそうだった。
「こんなことしにわざわざ学校から帰ってきたのかよ」
「だ、だって、ともちゃんのことが心配で……責任感じて……」
糸華がしゅんとしおらしくなる。俺が呆れてものを言っている姿を怒っているものだと勘違いしているようだ。
「……寝る」
俺はそれだけを言って、糸華の方に手を差し出した。
「……うん!」
糸華は差し出された手の意味を理解して、自分の手で包み込んでくれた。
今日の糸華の手は、柔らかく、小さく、そして温かかった。
全身が糸華の手のぬくもりに包まれているような気がした。それは確かな一つの言葉となって理解できた。俺はそれを感じながら、ゆっくりと眠りに就いた。
ども、作者です。たまにはこーゆー、イチャラブを妄想するのもいいじゃないかと思って書いた作品です。なお、この作品のPC版では、看病のシーンと最後のシーンにチョメチョメな展開があります。もちろん嘘です。