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リリー・アンブロスの白くておおきなテディベア

作者: 其場凌

 暗い檻の中に突如、光が差した。重たい瞼を持ち上げたエルヴィンの目に映ったのは、まだ幼い少女の姿。光だと思ったのは、少女の柔らかな金髪で。その眩しさに、エルヴィンは思わず目を細めた。

 まだあどけない少女は碧空の目を輝かせ、

「お父さま、わたし、この子がほしい!」

 隣に立つ父親に、可愛らしくねだる。

「リリー、残念だけどこの子はテディベアじゃないんだよ。よく見てごらん。動いているだろう? ぬいぐるみじゃない。生きている、白熊なんだよ」

 父親に言われて、少女は再びエルヴィンをじっと見た。エルヴィンも、少女を見返した。エルヴィンは動かなかった。最早、動く気力など残っていなかった。呼吸の度、わずかに波打つ毛並みを見て、少女は納得したらしい。

「でも、とってもいい子だわ……」

「今はね。でも、檻から出た途端に暴れだして、リリーなんて一口で丸のみだ」

 少女は一瞬、怯えたように肩を震わせた。

「ほら、ぬいぐるみのお店に連れていってあげるから。テディベアならそこで買えばいい」

 父親に促されて檻から離れた少女が、名残惜しそうに一度だけ振り返る。目が合ったエルヴィンは、掠れた声で呟いた。

「リリー……俺は、君を食べたりしない」

 声が届いたのだろう。少女はハッと足を止めた。父親は少女が立ち止まったことに気づかず先を行く。エルヴィンは少女の目を見つめたまま、さらに言葉を重ねた。

「約束する。だから、俺をここから出してくれねぇか」

 少女はしばらく海と空の混じる青い目を驚きに見開いていたが、やがて強く頷いた後、父親のもとへと走って行った。

 その後、リリーがどうやって父親を説得したのかエルヴィンは知らない。ほどなくして戻ってきた少女とその父親は、サーカスに大金を払い、エルヴィンを買い取ったのだ。

「よかったね、しろくまさん」

 無邪気に笑う少女に、エルヴィンは黙ったまま前足を持ちあげてみせた。「ありがとよ」と礼を言ったつもりで。

 リリーの住む屋敷に連れて来られたエルヴィンは、少女のテディベア・コレクションが収納されている一室に檻ごと入れられた。夜が来るのを待って、エルヴィンは大きな体を起こし、木の檻に前足をかけた。力を入れると、みしりと木の割れる音が部屋の中に響く。人が来て騒ぎになるのはご免だが、早く逃げなければと気持ちは急くばかりで、エルヴィンは気付かなかった。いつの間にか部屋の扉が開き、小さな影が侵入していたことに。

「しろくまさん、眠れないの?」

 眠そうに目をこすりながら、白いテディベアを抱いたリリーが扉口に立っていた。

「悪いな、リリー。俺は行かなくちゃいけない。だからちょっとだけ静かにしててくれよ」

 エルヴィンは声をひそめて言い聞かせる。しかし、六歳の少女が汲み取ったのは、白熊がどこかへ行ってしまうという事実だけだ。

「どうして? どうして行っちゃうの?」

 少女の碧い目にはみるみるうちに涙が溜まって、頬に零れ落ちる。慌てたのはエルヴィンだ。騒がれてほかに人が来てはたまらない。

「わ、待て待て! ちゃんと説明するから、ほら、静かに。……いいか、俺は本当は人間なんだよ。呪いで白熊になってるだけ。だから呪いを解かなきゃなんねぇの」

「のろい?」

 少女にはまだピンとこないようで、涙の乾かない目を大きく瞬きする。

「そう。だから薬を探してんの。こいつが結構手に入りにくいうえに高いんだけどなー。ま、とにかくまずはここから出なくちゃなんねぇってこと。わかったか?」

 呪いを解く方法は二つある。呪術師に頼むか、解薬を使うか。呪術師の数が少ない今では薬を使うのが一般的だ。しかし、そんなことは少女の知ったことではなかった。

「行っちゃうの……?」

 再び顔をゆがませる少女。エルヴィンは慌ててシーっと人差し指を立て、

「頼むから泣くんじゃねぇよ」

 人が来るから、という理由以上に、子供を泣かせることに抵抗がある。少女は幸いにもエルヴィンの言うことを素直に聞いて、ぐっと唇を噛みしめて耐えた。そして、愛くるしい瞳に涙を溜めたまま、

「しろくまさんののろい、といてあげる!」

「へ?」

 突然の言葉に、エルヴィンは己の耳を疑う。

「だってお父さまはお金持ちだし、お友だちもたくさんいるのよ。きっとお薬もすぐに手に入れられるわ! やくそくする。だから、ねぇ、おねがい……わたしと一緒にいて?」

 相手は年端もいかない少女だというのに、その懇願は男心をくすぐるには十分すぎた。少女を安心させるように、ぽん、と前足を頭に乗せて撫でてやる。逃亡は保留だ。チャンスはまた来るだろう、と軽く考えていた。

 リリーの父親が急逝したのは、翌日のことである。


* * *


 十年後。

 リリー・アンブロスは絹張りの椅子に腰掛け、手元の紙に目を通す。背後には彼女の明るい金髪を梳かそうと串を持ったメイドが待ちかまえている。しかしリリーは、今朝、手に入れた資料――昨夜港に着いた船の積み荷のリストに夢中だった。傷一つない細く白い指先が、輸入品の項目一つ一つを丁寧になぞる。その手が不意に止まった。

「見つけた……!」

 声が小さく震える。喜びと、不安で。また紛いものかもしれない。だけど確かめてみないことには始まらない。

「すぐに着替えて港へ行くわ」

 立ち上がったリリーはメイドにそう命じると、時間が惜しいとばかりに自ら寝間着を脱ぎ始める。と、そこへ。

「おい、リリー」

 ガチャリ。なんの前触れもなく開いた扉から、のっそりとした白い巨体が姿を現した。真っ黒なつぶらな瞳が、リリーを見ている。

「きゃぁああああ!! ちょっと勝手に入ってこないでよっエルヴィン! バカ熊!」

 すでに半分ほど脱いでいた寝間着を慌てて胸もとまで引き上げて隠す乙女の気持ちなど、エルヴィンはお構いなしで。

「おいこら、誰がバカ熊だっ」

「着替え中よ!」

「今さら恥ずかしがるようなことか?」

 エルヴィンは幼いころから側にいて、つい数年前までお風呂の中でもベッドの中でもずっと一緒だった。確かに今さらかもしれない。だけど、いくら見た目は白熊とはいえ、もとはただの男なのだ。ぶつぶつと文句を言う白熊がようやく廊下に引っ込んだのを確認して、リリーは深々とため息をついた。

 遺跡を巡る冒険家だったエルヴィンは、あるとき呪いをかけられて白熊になってしまった。サーカスで見世物にされていたのを十年前に買い取ったのがリリーだ。当時十六歳のエルヴィンは、白熊のまま十年の歳月を過ごし、今、二十六歳。

 父親が急死した後、白熊は本当の肉親のように側にいてくれた。リリーのわがままで引き止めたのに、エルヴィンはずっと側にいてくれたのだ。約束どおり。だから今度は、自分が約束を守らなければいけない。

 リリーは白熊の呪いを解く薬を探していた。しかし、今まで手に入れたものはどれも紛いものだった。呪術そのものが廃れつつある今、薬を探すのも容易ではない。最近になって手に入れた有力な情報は、港に着く輸入品の中にあるかもしれないという可能性。そしてようやく、それらしい情報を手に入れた。

 それなのに、身支度を整え、港を目指すリリーの足取りは重い。薬があれば、エルヴィンをもとの人間の姿に戻してあげられるのに。

 もやもやとしたものを抱えたまま港に辿りついたリリーは、商人と話をして愕然とすることになる。

 薬の値段が、あまりにも法外だったのだ。如何にも世間知らずなお嬢様というリリーの風体を見て、商人が値を吊り上げたのである。交渉する余地などなかった。もとより、値切るという選択肢はリリーの頭の中にはない。お金を出せば、大抵のものは苦もなく手に入れてきたのだから。

 しかし、今回ばかりは状況が違う。父はリリーが一生暮らすのに十分な財産を残してくれたが、その管理は後見人に任せてある。リリーが自由にできる金額では、薬の値段には足りない。となると、後見人にお伺いを立てなければいけないわけだが。

 父の遠い親戚に当たる後見人は、父とは似ても似つかない強面で、リリーは彼の事が苦手だった。それに、彼は財産管理に厳しく、お金を渡してくれるとは到底思えない。リリーは話を持ちかける前からすでに諦めていた。

 帰りの馬車の中、そっと息をつきながら、薬を手に入れられなかったことに、どこかほっとしている自分がいることに、気づいていないわけではなかった。


* * *


 その頃のエルヴィンはというと、世話係のメイドを掴まえ、自分はリリーに何か悪いことをしただろうかと首を傾げていた。呆れ顔のメイドは「自分で考えたら?」と冷たい。

「最近は何か探してんのかあっちこっち出掛けてるみてぇだし、心配事でもあんのかね」

 白熊はぽりぽりと頭の後ろをかきながら、年頃の少女の変化に戸惑いを隠せないでいる。

「あら、お嬢様のお探しのものでしたら、きっと薬ですよ」

「薬?」

「年頃の女の子がほしい薬といえば、惚れ薬と決まっていますわ」

 事情をよく知らないメイドは、彼女の憶測と偏見を交えた情報を教えてくれる。エルヴィンはますます考え込む羽目になった。

 アンブロス家へやってきて、少女の泣き落としに負けたあの日から十年。父親が死んで、悲しむ少女を放っておけなくて、彼女の気のすむまで側にいることを決めたのは自分自身。それでも、最初のころは早く呪いを解かなければと焦っていた。それが今やどうだ。屋敷の居心地がよすぎて、庭木の手入れや屋敷の修繕を手掛けながら、すっかり住みついてしまっている。

 それもこれも、リリーが自分を必要としてくれたから。屋敷の皆は最初こそ白熊の姿に恐れを抱いていたが、リリーが懐いていたので、やがて誰も気にとめなくなった。

 父も母もいないリリーが悲しい事を思い出して眠れない時には、エルヴィンは一晩中、自分の今までの冒険譚を話して聞かせた。

 いつからだろう。彼女が寝物語を必要としなくなったのは。

 毛に顔を埋めて泣かなくなったのはいつ?

 着替えの最中に部屋に入ると、怒るようになったのは?

 エルヴィンの気付かない間に、泣き虫だった幼い少女は、可憐な乙女へと成長を遂げていた。

「潮時って、やつかなぁ」

 庭の芝生に座って、白熊はぼんやりと空を仰ぎ見る。夕暮れの迫る空には、もう細い月が出ていた。

 月は、忌まわしい記憶を呼び起こす。


* * *


「わかったぜ、モーニカ! 『月の欠片』は水底にあるんだ」

 青々とした湖畔を指差し、活発そうな赤髪の少年が喜びの声をあげる。

「なるほどねぇ、よく暗号解いたじゃないの。じゃ、ひと泳ぎしてくるかね。あんた泳げないんでしょ? エル」

 無造作に上着を脱ぎ捨てながら振り返ったのは、少年よりも四つ年上の女の相棒だった。

「ここで待ってな」

 言うが早いが、彼女は勢いよく湖に飛び込む。

 しかし、いつまで経っても、彼女が再び水面にあがってくる気配はない。

「モーニカ? おいっ大丈夫なのか!?」

 その時だ。水面が大きく盛りあがったかと思うと、まばゆい光に包まれたモーニカが現れた。ぐったりと横たわり、意識がない様子の彼女は、まるで見えない大きな手に持ち上げられているかのようだった。

 湖畔の縁でどうすることもできない少年の耳に、声が聞こえた。

『この女の命を助けたければ己が罰を受けよ。そして二度とこの湖へ近づかないことを誓え』

 それが『月の欠片』を守る呪術であった。少年は取引の条件を飲み、モーニカの命は助かった。

 しかし、無事に目を覚ましたモーニカは、少年の姿を見ると恐怖に顔を引きつらせ、彼の目の前から逃げ去ったのだ。少年は呆然としたまま、水面に映る己の姿を見た。

 体は真っ白の毛に覆われ、一回り以上大きくなっていた。顔も、体も、今まで自分だと思っていたものはどこにもない。

 そこにいたのは、紛う事なき白熊だった。


* * *


「エルヴィン?」

 少女の声に、白熊はハッと我に返る。

「どうしたの? そんなところでぼうっとして。今朝なにか用があったんじゃないの?」

 白熊姿の自分を恐れず、側に置いてくれた少女が不思議そうな面持ちで側にやってくる。

「あ、ああ。なんでもねぇよ。……そうだ、噴水が完成したから見せようと思って」

 沈みかけの夕陽を背に立ち上がった白熊は、作ったばかりの噴水へと少女を誘う。

 庭の中央の大きな噴水は、白熊自らが地面を掘り、水路を作り、石を運んできて作り上げたものだ。湧き上がる水は、光を受けてピンク色にきらめいていた。大きな水盤に零れ落ちる水の流れは穏やかで、風にさざめく湖畔のように、静かな波紋が広がっていく。

「きれい……」

 水盤の縁に腰かけながら、リリーはほうと息をつく。金の髪が横顔を半分ほど隠して、一瞬、エルヴィンは自分の目を疑った。まるで知らない女みたいで。

「ねぇ、人間に戻りたい?」

 不意打ちの問いとともに顔をあげた少女はエルヴィンのよく知る顔で、密かに安堵する。

「そりゃあ、戻れるんなら戻りてぇよ。まだまだ行きたい場所もたくさんあるしな」

 物心ついた時にはすでに肉親のいなかったエルヴィンは、泥棒紛いの生活でかろうじて日々を生きていた。偶然知り合った冒険者について回るようになり、ようやく人間らしい暮らしができるようになった矢先に、白熊になってしまったのだ。

「この姿だと外に出るのは難しいからなぁ」

 そんな風に嘆いてみるが、エルヴィン自身、本当のところはよくわからない。もとに戻れる日を夢見るだけで、現実には解決しようと何も動いていないのだから。

 だけど、今が頃合いなのかもしれない。

「そうよね……」

 呟いたリリーの視線は、水盤にあった。そこに映る、白い月。

 彼女が惚れ薬を手に入れようとするほど好きな相手がいるのなら、エルヴィンの存在はきっと邪魔だろう。昔のように、泣いて引き止める幼い少女はもうどこにもいない。そのことを少しだけ寂しく思いながら、エルヴィンは密かに屋敷を出て行く決意を固めていた。


* * *


「本当によろしいのですか? お嬢様」

 たくさんのテディベアを箱に収めながら、メイドはいま一度尋ねる。

「ええ、いいの」

 答えるリリーに迷いはない。彼女がこれまで集めてきたテディベア、その数およそ五百体。それをすべて売ってしまおうというのだ。薬を買うお金を手に入れるために。

 古いものから新しいものまで、リリーのテディべア・コレクションはなかなかに良い値段がついた。

 それなのに、

「どうして!?」

「どうしてもこうしても、しょうがないんだよねぇ。薬の値段が上がっちまったんだから。これじゃ足りないって言ってるんだよ」

「嘘! たった一日で倍に値上がりするなんて、そんなバカなことってあるかしら?」

「払えないってんならいいんだよ。次に手に入るのは半年後か、一年後か……。うち以外では取り扱ってないしねぇ」

 商人はにやける口元を隠しもしないで、いやらしく手もみする。要するに、足元を見られているのだ。テディベアを売ってお金を手に入れたとはいえ、リリーの手持ちでは、商人の吊り上げた金額には届かない。

「大地主のアンブロス家なら金はあるだろ?」

「……失礼するわ」

「明日はもっと値上がりしてるかもねぇ」

 背後にせせら笑いが聞こえて、リリーは唇を噛みしめた。

「どうしよう……」

 屋敷に戻って一人落胆するリリーのもとに、白熊がドアをノックし、改まった様子でやってきた。

「どうした? 浮かない顔して。なんかあったのか?」

 顔を見るなり、エルヴィンは怪訝そうに尋ねてくる。昔から、リリーは不安が顔に出てしまうタイプだ。あまり口には出さないけれど、周囲にはすぐにばれてしまう。父親が亡くなったばかりの頃もよく白熊はこうしてリリーの表情を見て、声をかけたり眠れない夜は冒険譚を聞かせてくれたりした。

「……薬が、手に入らなかったの」

 ぽつり、ぽつり、と今日あったことを話す。

「だから、ごめん……」

 最後の言葉は小さすぎて届かなかった。約束を守れなくて、ごめん。

 庭で月を見上げるエルヴィンはとても悲しそうで、寂しそうだった。きっと白熊になった時のことを思い出していたのだろう。

 幼い頃、『月の欠片』を探す冒険譚を話してくれた時も、エルヴィンは悲痛そうな顔をしていた。特に、白熊を見たモーニカが逃げ去っていくシーンで、エルヴィンは決まって泣きそうに顔を歪めた。

 元の姿に戻ったら、エルヴィンは真っ先にモーニカのもとへ行くのだろう。だから、本当はもっと早く、一刻も早く、元の姿に戻してあげないといけないのに。

 そんなリリーの思いなど知らず、白熊は「ひでぇ奴だな。足元見やがって」などと言って白い牙をむき出して見せる。

「そうだ。俺が盗ってきてやろうか?」

 降ってきたのは、思いつきみたいな一言。

「え?」

「だって、親父さんが買ってくれた大事なテディベア売ってまで金作ったのに、そりゃ商人の奴がえげつねぇよ」

 リリーはぎゅっと胸が痛んだ。そうなのだ。あのテディベア・コレクションは、亡き父からの贈り物でもあった。

「それに俺、そろそろここを出て行こうと思ってんだ。最後にそれくらいの恩返しはさせてくれよ」

「え……」

 いつまでも屋敷にいても薬が手に入らなければ意味がない、とエルヴィンは出て行くことを決めていたのかもしれない。

 リリーの表情はどうしたって暗くなる。

「話って、そのこと?」

「まあな。いろいろ世話ンなったよ」

「だったら、だったら……私も、一緒に薬を盗みに行くわ!」

 気付いたら、リリーはそう叫んでいた。

「は!? なに言って……」

「私がやらなくちゃ意味がないもの」

 エルヴィンがここを去るのなら、せめて約束だけは守りたい。半分は意地である。

「えー? 大丈夫かぁ?」

「最後に、一緒に冒険してもいいでしょう?」

「冒険というより泥棒だけどな」

 渋々ながら白熊はいつだって、リリーのお願いにノーとは言わないのだ。


* * *


 暗闇の中、息を殺すと、白熊のぬくもりがすぐ側にあることを意識してしまう。昔は一緒に寝ていたのに、この白い毛に最後に顔を埋めたのは、一体いつだろう。

 例の商人の店に忍び込んでいる真っ最中だというのに、リリーはつい余計なことを考えてしまう。これは彼女にとって、エルヴィンとの最初で最後の冒険なのだ。

 白熊とは思えぬほど素早い動作で、眠る商人の懐から器用に鍵を盗み出してきたエルヴィンは、そのまま店の奥に向かう。奥はたくさんの小瓶が並ぶ棚が、人ひとりかろうじて通れるくらいの間隔で並んでいた。

「こりゃダメだな。俺じゃ棚を倒しちまう」

「私が行くわ」

 入口まで戻ってきたエルヴィンから棚の鍵を受け取り、リリーが力強く頷く。

「気をつけろよ」

 言われたとおり、リリーはゆっくりと慎重に薬の入っている棚まで近づき、鍵を開けた。たくさんの小瓶が並ぶ棚の中を探っていく。ほどなく、目当ての薬が見つかった。やった、と小さく歓喜の声を上げる。

 しかし、上手くいったのはそこまでだった。

「おい、何してる!?」

 聞き覚えのある声に、リリーはびくりと肩を震わせて振り返る。目を覚ました商人が、怒りに満ちた顔でリリーに迫る。

「お前アンブロス家の娘だな! 薬を盗ろうってのか!? この……ッ!」

「あっ……!?」

 掴みかかってくる商人から、逃げようとリリーは身をよじる。それよりも早く、目の前に立ちふさがるのは白い巨体。

「ひぃっ!? く、熊!? なんで、なんでこんなところにッ!」

 突然現れた白熊に腰を抜かした様子の商人は、すでにリリーのことなど見ていない。

「だ、誰か、助けてくれー!!」

「人が来る。早く逃げるぞ」

「エルヴィン、待って。お金は置いて行くわ」

 リリーは硬貨の入った袋を商人の足下に放り投げると、すっきりした顔で言った。

「この薬は、買い盗らせていただくわ。正規の値段で」

「さっさと逃げるぞ」

 呆然としている商人を尻目に、白熊は窓に前足をかける。すでに、表通りの階段を駆け上る数人の足音が聞こえてきていた。

「逃げるって……」

 どこへ、とリリーが尋ね終わる前に、白熊の姿は窓の側から消えていた。

「ええっ!? 二階よここ!」

 慌てて窓際へ駆け寄ったリリーは下を見る。白熊が、平気な顔で前足を広げて待っていた。

「リリー! 飛べ!」

 ごくり、と唾を飲む。薬を握りしめる手は少しだけ震えていたけれど、怖くはなかった。

 窓枠に足をかけ、えいっと一歩外へと踏み出す。頼りない浮遊感は一瞬で、冷たい地面に叩きつけられることもなく、あたたかな白い毛が包みこんでくれる。

「やるじゃん、相棒」

 リリーを抱きかかえたまま走るエルヴィンが、にやっと笑った。


* * *


 屋敷に戻った二人は、使用人たちに気づかれないよう、ついこの間までテディベア・コレクションで埋まっていた部屋にひとまず体を落ち着かせた。

 興奮が収まったところで、リリーが「飲んで」と小瓶を白熊に差し出す。しかし白熊は不思議そうに首を傾げ、

「俺は惚れ薬なんかいらねぇよ」

「え……? 惚れ薬って、なんのこと?」

 リリーもまた白熊の言葉にきょとんと目を丸くする。一体どこからそんな話になったのか、リリーには見当もつかない。

「あれ? 好きなやつに惚れ薬飲ませたかったんじゃねぇの?」

「なっそんなわけないでしょ! ばかエルヴィン……」

 あんまりだわ、と項垂れて、リリーは薬を白熊の胸もとに押しつけた。

「呪いを解く薬よ。これで人間に戻って、どこでも好きなところに行けばいいわ」

 エルヴィンの反応を見るのが怖くて、リリーは顔をそむけたまま続ける。

「約束したでしょ。私が手に入れるって。呪いを解いてあげるって。十年もかかっちゃったけど」

 やっと解放してあげられる。「一緒にいて」と泣き落としたあの夜から十年、白熊はずっと側にいてくれた。

 もう、大丈夫。もう、十分。

 それなのに、

「リリー……なんでそんな顔してンだよ」

 どんな顔をしているのか、自分で鏡を見なくてもわかった。きっと、とても情けない顔。

「……早く呪いを解いて、モーニカに会いに行けばいいじゃない」

「モーニカ? なんで?」

 鈍感なのか、エルヴィンは無神経な問いかけをする。

「だって、人間に戻ったら、冒険に行くんでしょう? そのほうがエルヴィンにはいいことだって、わかってるけど……もう、一緒には暮らせないし。冒険の話をしてる時のエルヴィンはすごく生き生きしてて……でも、」

 いろんな言葉がぐるぐると回って息が苦しい。どうしたらいいのかわからないリリーの視界を不意に、白い毛が覆った。

 ぽすっと白熊は優しく頭を抱きかかえて、

「ばぁか。十年前みたいに、素直にお願いすればいいじゃねーか。行かないでって」

 乱暴な口調で、優しい言葉が降ってくる。

 リリーの頬が、かあっと熱くなった。

「俺はてっきり、お前にはもうおテディベアなんかいらねぇんだと思ってた」

「テディベアは、いらないわ」

 テディベアはすべて売ってしまった。残ったのは、目の前にいる白熊だけ。

 でも、白熊の本当の姿は。

「エルヴィン、人間に戻って」

 白熊のたくましい前足から離れて、リリーは改めてエルヴィンを見上げる。

「ありがとうな」

 大きな口を広げた白熊はにかっと笑って、小瓶の中身を一気に飲み干した。

 呪いが徐々に解けていく。白い毛は消え、体は縮み、大きな口も太い腕もつぶらな目もすべてがもとの姿へ戻っていく。やがて、リリーの目の前に、見たことのない赤髪の青年が現れた。

「おおー、人間だ。すげぇ……」

 青年は自分の手足を見て感嘆する。燃えるような赤い髪、勝気そうな目、日に焼けた肌、がっしりとした肩、引きしまった腰、

「きゃあっ! どうして何も着てないの!?」

 あろうことか、エルヴィンは裸だったのだ。リリーは慌てて体ごとくるっと後ろを向く。

「しょうがないだろ! ……よし、隠したからこれで大丈夫だろ」

 リリーが恐る恐る振り返ると、ソファにかかっていた布を器用に体に巻きつけた青年がいつの間にかすぐ側まで来て、

「リリー、本当にありがとな」

 ぽん、と頭の上に手を乗せるのは、白熊の時と同じ仕草。でも、手のひらの感触は白熊とは違う。人間の、男の人だ。

 妙に気恥ずかしくて、リリーは俯く。しかし、耳の後ろをなぞるようにして頬に降りてきた手が、リリーの顔を優しく上向かせた。

「な、なに……?」

 俯くことを許してもらえず、エルヴィンの真っ直ぐな黒い目とかち合う。見慣れない顔だ。なのに、からかうような、それでいて優しい目には見覚えがある。

「俺と一緒に来るか?」

「え?」

「窓から飛び降りる度胸がありゃあ冒険家としちゃあ合格だ」

「一緒に? 連れて行ってくれるの?」

「うん。だから……」

 途切れた言葉の代わりに、唇が近づく。一瞬ひるみかけたリリーの唇をなだめるように、エルヴィンの指先が撫でた。

 知らない顔。だけど知っている人。不思議な緊張感と安心感に、鼓動が混乱する。

 それでも感じるぬくもりは変わらないから、リリーがゆっくりと目を閉じようとしたとき――見知らぬ青年の顔は突如として見慣れた白熊へと早変わり。

「え、エルヴィン!?」

「なんで戻ってンだよっ」

 白い毛に覆われた自分の体を見下ろし、エルヴィンは叫ぶ。どうやら不完全な薬だったらしい。あまりのことに呆然とする白熊に、リリーはぎゅっと抱きついて、

「こっちのほうがいいわ、私のテディベア」

 頬を撫でる白い毛の慣れた感触に安堵する。

「俺はぬいぐるみじゃねぇんだぞ」

 うなり声を上げる白熊は、おあずけを食らったキスの代わりに、ぽんと、リリーの頭の上に前足を乗せた。

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