バーサスアルコーズ
逃げたい。
誰かこの背中に羽でも翅でもいいから埋め込んでくれないだろうか。
「逃げなかったことだけは褒めてやるよ。ノッシュ・レイドット。」
「今も逃げたくて仕方ないよ。」
ユーシィの少しだけ口角が上がったその顔は、ノッシュをただの獲物としか見ていない。
「まあ、なんでもいいさ。俺は賢者としてじゃなく、人としてお前をぶちのめしたいんだからな。」
「どうでもいいけど、俺能力者じゃないぞ……?」
「そしてその姿を見てクルーニャも俺のことを……。」
一応の抵抗を試みたノッシュだったが、ユーシィは何やら妄想状態に入っているようで、こちらの声は届かないようだ。
「全然聞いてねえ。」
「さて、と。ルギに手を出されちゃ俺としても不本意なんでな。」
ユーシィは指を一度鳴らす。一瞬だけ、目の色に茶色が混じったようにも見えた。
そして、このためだけに作られた特設ステージ、いわば競技リングは半透明な壁によって覆われる。ルギの物体生成が囲むものと大差はないが、この壁は四方の頂点に土の塊が固定されていた。
賢者といえど、ルギのように無条件で壁を作ることはできないのだろうか。そんな疑問をノッシュが抱いていると、周りの声がほとんど聞こえてこないことに気づく。
空間を遮断して、邪魔を入れないだけではなく、音まで遮っていたのか。
「これでよし。」
「……ルギには勝てないのか?」
ルギだけを問題視していたことが少しだけ気になったノッシュは、音が遮られた今なら何を聞いても、誰も聞こえないのではないかと思っていた。
「さらっと嫌味か、お前は。俺らは束になったってあいつには勝てねえよ。ま、あいつが本気になったのなんてほどんど見たことはないがな。」
「ほとんどって、見たことあるのかよ。」
気になっていたのは、ここだ。
この話で、全員がルギには勝てないと言う。そして、本気になったのをほとんど見たことがない、と。
ほとんど、ということは……一度はその姿を目にしているということではないのだろうか。
それでも、ルギはそういう話を自分からしない。寧ろ、そんな好戦的であるとも思えない。正直、状況から言えばどうでもいい問いだったのだが、ユーシィは気にする様子もなく、頬をかいて答えた。
「まあ、そりゃあ。」
だが、どう見ても、その表情はもう二度と見たくなんかないと言いたげだった。
「俺だって、あいつだけは怒らせたくない。」
「は?」
「あんなの、人間じゃねえよ。いや、人間の手にした力じゃねえって方が正しいか。」
「意味がわからん。」
そもそも、力の持たぬ奴に説明しているという自覚があるのだろうかと、ノッシュがため息をつく。きっと、能力者ではないことを疑ってくれてはいないのだろう。
「いいぜ、俺に勝ったら納得いくまで説明してやるよ。」
「負けてくれる気があるのか?」
「そんなわけないだろ。俺としては昨日邪魔が入ったこと根に持ってんだからな。」
「邪魔したの、俺じゃないんだけど。」
それはきっと、ユーシィの方がわかっているはずなのだが、いつの間にか路地裏に放り込んだ犯人までノッシュにされている。
「俺はクルーニャと仲良くしてる男は許さん。」
「待て待て。ルギとかデオルダはどうなんだよ。」
「ルギにはルベルがいるだろ。助手はそういうタイプには見えないし。」
「そういうとこはちゃんと見てんのな。」
変に納得してしまう。コイツは、クルーニャが関わっていれば冷静でいられるし、視野も広くなる。それなのに、それなのになぜ? こういうことになっているとはどういうことなんだ。
「さあ、始めようぜ。ルールはどちらかが降参するまでだ。」
降参するまで。ノッシュが勝つための絶対条件は、如何にしてあいつの口を開かせるかにある。殴り合いで勝てるとは欠片も思っていない。
だからと言って、簡単に自分の口を開く気もなかった。
「壁は?」
「もしも外の賢者が壊しに来たらそれはそれだな。」
「もしもって、ルギが壊しに来るとは考えないのか?」
ノッシュとしては、ルギにさっさと壁を壊しに来て欲しいわけで、そこを全くと言っていいほど考えていないユーシィが何か罠を張っているのではないかと考え始めたくらいだった。だが、ユーシィは一拍考えただけで、何か納得したようだ。
「なるほど。そこらへんはやっぱり知らねえのな。まあ、ルギがそういうこと話すとも思えねえし。」
「そこらへん?」
「物体生成ってのは、防御に特化しすぎてんだよ。」
「!!」
初めて聞いた話だったが、思い当たる節がないわけではない。今、自分の手に握られているキャリースだ。キャリースはルギが護身用にと、ノッシュに与えたものだが、基本的に盾として使うものだ。
ヘンテコ四人組の時もだ。ルギは確かにブレスレットをしていたのにも関わらず、一人を蹴り飛ばしたのだ。それに対してクルーニャは、即座にブレスレットに手を当てていた。すぐにでも、力を使えるように、と。
これだけで、どこか、納得できてしまう。
「つまり、この壁がある限り、ルギには手出しできねえって考えていいわけだ。残念だったな。」
「あ、そういうことか。勝算ないんだから、あの土の塊をどうにかすればいいのか。」
ユーシィは得意気にしていたが、ノッシュとしては逆にやるべきことをはっきりさせられたのでどこかスッキリしていた。
勝つためにはルギの介入が不可欠。だからこそ、ユーシィも壁を作った。だったら、壊せばいいのだ。
「何?!」
「え。」
「貴様、この短時間で俺の能力を見破ったのか!?」
「え、え?」
ノッシュは何度もユーシィの顔を見ながら疑問の声を上げた。状況がわからない。
「俺の壁があの土の塊によって保たれているということを見破るとは……なんという洞察力。なるほど、少し甘く見ていたようだ。これでは最初から全力でいかねば申し訳ないな。」
「嘘だろ……。」
コイツはあんなにわかりやすいものを、気づかないとでも思っていたのだろうか。気づかない方がバカだ。
「じゃあ、遠慮なく……行かせてもらう!!」
声と同時に顔の近くまで持ち上げられていたユーシィのブレスレットが光り、ノッシュへと放たれる。
ルギやクルーニャの鮮やかな色とは違い、重みのある黒に近い茶色だ。
「砂岩生成発動。」
「?!」
声の出ない驚きがノッシュにはあった。ユーシィのブレスレットの外側、宙に浮く十個くらいの物体。
「何を驚いた顔をしている? これが俺の生成物だ。」
「石?」
「まあ、厳密には砂岩っていう括りだな。」
「浮いてるよな。」
「まあ、浮いてるな。」
「……なんで?」
別にこれといって疑問に思ったわけでもないのだが、ノッシュにとっては、少し考える時間が必要だった。やることは決まったとは言え、時間が足りなすぎる。
「それを聞くな。ほら、さっさとお前も発動くらいしろ。それくらいは待ってやる。」
「だから、さっきから言ってるだろ。」
「何を。」
「俺が能力者じゃないって。」
「……は?」
ユーシィは素っ頓狂な声を上げた。心の底から驚いているのだろう。だからこそ、ノッシュには一つの確信できることがあった。
「やっぱり聞いてなかったのか。」
「能力者じゃない?」
「周りの観客と何にも変わらんただの人間だ。」
肩をすくめてみせる。これだけでこの茶番が綺麗さっぱりなかったことになるとは思えない。ユーシィ・ミンダジューンが俺を逃がすはずはない。それでも、時間は少し稼げそうだ。
「……ただの、ヒット?」
「ヒットじゃ意味変わるだろ。」
「ただのヒットが俺のクルーニャを……強奪未遂?」
「待て待て待て。なんかおかしいぞ。」
混乱しているのか、ユーシィがボソボソと呟く言葉は、つなげて聞いていると意味が全く違って聞こえてしまう。
「わけがわからん。」
「それは俺が言いたい。」
「だが、一つだけ言えることがある。」
ユーシィは人差し指をビシッとノッシュに突きつけた。ノッシュとしてはこれ以上何を言われても驚かない自信があった。もう、何でも来い。
「お前は俺の敵だ。それは変わらん。昨日からな。」
「はあ……?」
「そして、今知った。能力者じゃないような奴……力のないやつにクルーニャを渡すわけにはいかんな。」
「力がないやつ」ユーシィの言った言葉にノッシュは何も言わなかった。
「力があるやつ」だけが言う言葉。この世で一番……憎むべきもの。
「問答無用で……ん?」
ユーシィは言葉を止めた。今まで不安げに笑いながらこちらを見ていたはずの医者は正反対の表情をしていたからだ。
「どうした? さっきまでのヘラヘラした顔が吹き飛んでるぜ?」
何か地雷を踏んだかとユーシィは様子を見ていたが、ノッシュは目を伏せた。
「別に。俺もとりあえずは死なない程度に頑張ることにするよ。」
「ふうん?」
なんとも読めないやつだと思いながら、昨日の続きをやるには好都合だと感じた。邪魔が入ってはしまったが、なんとか一対一の場に持ち込むことができているのだ。何を恐れることがあろうか。
負ける確率は、無に等しい。
「砂岩発射!!」
ユーシィが左腕を突き出すと、ブレスレットの周りに浮いていた岩が三つ、真っ直ぐノッシュに向かって放たれた。
「頼むから一回で壊れないでくれよ……キャリース。」
祈るのはスティスに、ではなく、キャリースに。今頼りになるのは、これだけなのだと、ノッシュはスイッチにかけていた指を一番端まで動かす。最大出力では、きっと一時間ももたないとルギには言われたが、一時間なんて自分の体力がもたない。
直線的に向かってくる岩に対し、ノッシュは左へ飛んでやりすごす。岩とは言え、賢者の能力だ。直線上に飛ぶだけではないはずなのだが、それを探る前からキャリースを使うわけにはいかない。
「ほう、探りを入れたいのか。なら、その行動は……正解だ。」
ユーシィが笑うが、ノッシュにしてみればただまっすぐ飛んできた岩を横に避けただけだ。あの表情になる理由がわからない。
わからないことに時間をかけてはいられないと、自分を過ぎ去っていた岩を見るために、後ろを振り返ると、いつの間にか自分に向かってきている岩と目が合った。
「っ?!」
一瞬、思考も動きも止まってしまうノッシュ。だが、その右手の機械は止まらなかった。その存在は小さく光ってノッシュを現実へと引き戻し、右手を持ち上げさせる。
ノッシュの前に、直径三十センチほどの半透明の壁が現れ、岩を全て弾き飛ばす。もちろん、その帯びているのは綺麗な橙色である。
「なんだ、それは。」
「キャリース……。」
自分でも、キャリースの存在感に助けられてばかりだと再認識させられた。数日前の、あの時だって、危機を知らせ、守ってくれたのは、キャリースという機械だった。
「……相変わらずネーミングセンスはねえんだな。ルギのやつ。」
ごまかすつもりだったのだが、ユーシィはキャリースの製作者がルギであることを突き止めてしまう。そして、物体生成だとわかると、新たな獲物を見つけたように笑いながら口を開いた。
「物体生成か、いいだろう。」
そして、ユーシィの近くに先程の岩が集まっていく。
「操れるってやつか……?」
「そうだ。まあ、精密とはいかないが……標的を設定するくらいはできるぜ。限度がこの数だってだけだ。」
あの岩は何があろうと自分を狙ってくるとは……困ったものだ。粉々にしようと、次から次へと生成されてはノッシュ以前にキャリースがもたないだろう。その前に、粉々にする手段がない。
「さあ、わかったところで数を増やしてやろう。」
ユーシィは左腕をノッシュへと向けた。どうにも遊び半分で相手をするつもりらしい。ノッシュとしては、解決策がない今、ただ回避することに専念するしかないようだ。
「千本ノックかよ……。」
ノッシュも右手のキャリースを握り直す。機械の内側で小さく光る欠片から暖かさを感じた気がして力を込める。
やれるとこまでやってやる。
状況だからじゃない。俺だって少しはやり返さなければ……気がすまない。
「さあ、スタートだ!!」
ユーシィの声に合わせて砂岩は突き刺さるように飛び出した。
読んでいただきありがとうございます。
ようやく戦い始めたような感じです。
ほぼノッシュはとばっちりを受けただけのような気がしますが。
お祭りどころの騒ぎではなくなってしまいましたが、もう少しこの茶番にお付き合いください。
またよろしくお願いします。