♯2 始まりの始まり
第二話です。割と早めに書けました。
--意識が開けたらそこは絶景だった。
青々と茂った森を眼下に岩場からは滝が流れ落ち、飛び散る水分に太陽光があたってキラキラと輝く様は実に幻想的だ。
「う、おぉ……。これはすげえ。めちゃくちゃ綺麗じゃん」
『お気に召しましたか主人? それでは向かいましょう』
脳内に響くのはやはり女性の声。凛として歯切れが良い口調は、有能な秘書を思わせた。
「………………」
『? どうかなされましたか主人』
「……無い」
『はい?』
「本が無い! うわァァああああああああああああああああああああ!? どこだ! どこに行った! 出て来ぉぉい!」
『いやですね主人。私ならここにいるじゃありませんか』
「お前じゃねえよ!」
大和古書房の袋が消えている。死んだ。もうダメだ。本が無い人生に価値は無いと素で考えている彼に取ってこれはダイレクトにダメージを与えてきた。
『むっ、それは失礼ですよ主人。私は大魔術師によって書かれた史上最高にして史上最強の魔術書なんです。価値なんか付けられない程のぱーふぇくとぶっくなんです。もはや私の存在は伝説にまでなってるんですよ? それを何ですか。お前じゃねえよって、あなたどれだけ不味い事言ったか分かってますか? 昔は、私を巡って世界を二分する戦争まで起きたんですよ!?』
何やら興奮気味にまくし立てているが、残念ながら今の律には殆ど聞こえていない。彼は、まるで抜け殻のように生気がない澱んだ目で虚空を見つめていた。
「終わりだ……」
『何言ってるんですか! まだ始まってすらいませんよ! 全くもう、しっかりして下さい!』
「ぬぐぁ! 痛ってえ! っんだ今の、何かビリビリしたぞ!」
『活を入れただけです。男の子ならごちゃごちゃ言わない!』
「馬鹿お前。すっげえ痺れたっつーの! 俺がカツになるわ!」
『カツ? それは活に掛けてるんですか? あまり上手くありませんね。五点です。もっと修行して出直してきやがって下さい』
「あっ、うん。流石に今のは自分でも無いと思った。反省します」
『宜しい、それでは参りましょうか』
「ちょ、待て待て待てって!」
先へ先へと行こうとする本を、律は慌てて止めた。この言葉を喋る珍妙な本のペースに巻き込まれてはいけない。さっきからの言動とあの体験から考えるに、このまま行けば壮絶な苦労を強いられる予感が思いっきりするのだ。
『何なんですか。全然話が前に進まないですよ』
本が文句を付けるのを遮って、律は取り敢えず当初からの疑問を投げかけた。
「質問その一。ここはどこだ?」
『先ほど申し上げた通りクレヴィオス王国です』
「そうか、おかしいな。俺が知っている世界地図にはそんな国名は無かったと思うんだが?」
『ええ。ここは主人がいらっしゃった世界とは別位層の次元に存在しますので」
「つまりここは?」
『異世界です』
清々しい。テンポよくはきはきとした受け答えだ。社会に置いてはさぞや重宝されるスキルだろうがそれも、此処この場に置いては逆効果でしかない。それを聞いた律がしばしの思考の後に状況を飲み込み、再び音もなく崩れ落ちたからだ。
『どうしました主人。本の事はもう諦めて下さい。私がいるじゃありませんか』
「……それは可愛い女の子が言う台詞だぞ。確かにお前は綺麗だけど、でも俺はやっぱり人が好きだからなぁ……」
『おっ! さらっと誉めて下さってありがとうございます。その点に関しましては後々解決する予定ですので。それでは第二の質問を』
だんだんと受け応えもおざなりになってきている。早い所終わらせたい感が丸分かりだ。
もしもこいつが本でなく人ならば、実に感情表現が豊かな人物だろう。
「じゃあ質問。お前が俺を主人と呼ぶ理由は何だ?」
『愛です』
『………………………………はい?』
一瞬、思考回路の動作不良が起きたような気がする。何故だろう。最初に聞いたその言葉が人ではなく本からだった事について目から水が流れてくるのは何故だろうか。
『主人が持つ本に対する愛情に惹かれたんです。主人は本を道具として扱わず対等に、もしくはそれ以上に接していました。また、売り物にすらならない私を無条件で引き取って下さいました。他に理由は要りません。私の主人はあなただけなんです』
それは、今までの若干ふざけたような答えとは全く異なった真摯な響きだった。
確かに律に取って本は宝だ。幼い頃内気な性格だった彼はずっと一人だった。そんな彼に様々な物語を提供してくれたのは本だった。
世界を股に掛けた大冒険に、頭を悩ませるようなミステリー、あっと驚くトリック。孤独な心がどれだけ癒やされたか。本は宝だ。そして一番の友達だ。
その気持ちに揺るぎはない。
「でもお前読めないしなぁ……。最強の魔術書とか言ってんだから凄い知識が載ってんだろ? あぁ、残念だよ」
『今なら読めると思いますよ? 何しろ私があなたを選んだんですから、私の知識は全部主人の物です。どうぞ読んでみて下さい』
「え? マジで?」
『マジです。さぁ、私の体の一番深い所までねっとりたっぷり眺め回して下さい。ふふっ』
「どうした? 何か急に卑猥になったなお前。面倒くさいから破って良いか?」
『そんな! 破るなら、ちゃんと責任取って下さいよ!! 薄いんですからね!』
「意味深な事言ってんじゃねえ!」
壮大な景色を背景にして黒い本を相手に叫ぶ一人の少年。今更ながら、彼女(?)の声は律にしか聞こえていないので端から見ればとんでもなくシュールな映像がそこにはあった。
「うおお、本当だ。読める、読める読める読めるぞ!! すげえよ。こんなの見た事も無い! お前、本物の魔術書なんだな!」
『だからそうだと何度も言っているじゃないですか……』
不可解な記号にしか見えなかった文字列がしっかりと意味を成して脳に入ってくる。
魔術の学習。
今まさにそれが行われているのだ。
さらにパラパラと捲りながら目を走らせていけば、ここに書かれている内容が凡そ人間が到達出来ないような知識に溢れているのが分かった。
これを書き起こした人物は間違いなく天才だ。それも、もう二度とこの世に現れる事はないレベルでの天才だと言える。
「そう言えばさ。お前って、その……女……だよな?」
『はい。設定的にはそうなっていますがそれが何か?』
「いや、お前の呼び名だよ。本って呼ぶのも味気ないし《七翠剣の書》って呼ぶのも長いだろ? どう呼べば良い?」
『主人のお好きなように呼んで下さって結構ですよ。何でしたらマイラバーとかどうでしょう?』
「本に対して恋人扱いとかただの変態だろ」
『惜しいですね。恋人ではなくゴムの方です』
「お前は本のくせに変態だな!? どこで仕入れてくんだその知識!」
本は宝。本は親友。ならば、本を恋人にしても何らおかしくないと考えていた自分がかつてはいた。それがこんな奴のせいで汚されていく気がして、急いで頭を地面に打ち付けて自らを戒める。
「それじゃあ翠ってのはどうだ? ジェイドって翡翠の事だろ? 綺麗な名前だと思うんだけど」
『おお! それは良いですね。《七翠剣の書》なんて私のカテゴリー名みたいなもので名前では無いんです。そんなの人間に対して人間と言うのと同じですよ。だからとても嬉しいです!」
素直に喜んでくれているようで、律も自然と笑みがこぼれてくる。どうやら彼自身もこの本を気に入ってきたようだ。
自由自在に喋る本。聞いてて全く飽きない。
「それじゃあ翠。改めて宜しく」
『はい、こちらこそ宜しくお願いします主人』
本と人との信頼関係。紡いでいくのはどんな物語にも勝る物語。
「翠。俺をここに連れてきた目的ってなんかあるのか? 取り敢えず宜しくしたけど、話の流れから命が危ないアクションをするような気がしてならないんだが」
『やだなあ主人。考えすぎですよ。そんな危ないことさせませんって、あははっ』
「そうか? 考えすぎかぁ。あはははっ、だよなあ?」
『そうですよ! ちょっと魔物達と戦争してもらうだけです』