SCENE 05
校舎を出ると、レナは周りに誰もいないことを確かめてからさらに話を続けた。
「で、しばらくは頻繁に彼の家へ行くようになった。でもそのあと、連絡が減ったことに気づいた。私は何も言わなかった。むこうは受験生だし、そのせいだと思ってた」
クリーム色のタイルが敷き詰められた静かな中庭では、植えられた数本の木々の葉を時々風が揺らしていて、講義棟の向こうにあるグラウンドからは、部活動中の生徒たちのものだと思われる声が聞こえる。
「で、ある日、センター街で彼を見かけたんだけど──彼は知らない女の子と手をつないで、仲むつまじい様子で歩いてた」
前方を歩くレナが振り返るかもしれないとジャックは思ったのだが、彼女はそうしなかった。
「家に帰ってからの電話越しにではあるけど、さすがに問い詰めたわ。そしたら、“新しいカノジョ”だって。私は知らない間に、彼の恋人じゃなくなってたのよ」
「ようするに──二股?」
気まずそうに彼が訊くと、彼女は振り返って微笑んだ。
「ま、そういうことね」
おそらく彼女も、レイシーがレイモンドとマリオンという女性を見た時と同じような感覚を味わったのだろう。
裏切り。怒り。喪失感。そして、哀しみ。
「でも」とジャックは切りだした。「それでもやっぱり、年上を好きになる?」
レナは意表をつかれた顔をした。「そんなこと、考えたこともなかったわ。そうね、年上の人間が自分をオトナにしてくれる、みたいな幻想を抱いてたんだもの。でも──」
「恋愛に年齢は関係ない?」
「そういうことかしらね」
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二人は学校の前にあるバス停のベンチに並んで腰をおろした。
「で、それは──」
ジャックが質問を最後まで口にするまえにレナは答えた。
「ジェニーのお兄さんよ」
「そのこと、彼女は?」
「知らないと思うわ。彼女の家に遊びに行っても、ほとんど会わないし、私も自分から話すなんてことはしないしね」
「見てみたいな、君が好きになった人」
「やめてよ」
「同級生には興味ないの?」
バスの来る方向を見ていたレナは、彼に向かって微笑んだ。
「あなたとか?」
「僕じゃなくてもいいけど。例えば──」
「ライアンはないわよ」
また先に答えられた。
「彼とは親同士が仲よかったから、小さい頃に遊んでただけ。小学校の高学年になる頃には会わなくなってたわ」
「意識したってことじゃなくて?」
彼女は呆れたように吐息をついた。またバスが来るほうを見る。
「幼馴染との恋なんて、それこそ幻想よ」
それもそうだ、とジャックは思った。
「それに、小さい時だけど、あいつのバカっぽい姿を嫌ってほど見てきたのよ。あいつとキスするところなんて、想像しただけで吐き気がするわ」
「想像したことあるんだ」
口元をゆるめてジャックがそう言うと、彼女はしまったと言わんばかりの顔をした。
「もうやめて、お願いよ。あなたと話してると、どんどんバカなこと言っちゃいそうだわ」
額に手をあてて首を振る彼女を見て、ジャックはまた笑う。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
そこに、バスが来た。センター街へ、そしてジャックやライアンの地元であるウェルス・パディを経由し、ハーバー・パディへと向かうバスだ。ジャックの自宅からは微妙に路線が違っているのだが、まあいいかと彼もそのバスに、レナと一緒に乗った。
バスの座席はほとんど埋まっていた。彼女が空いている窓際の席に座ったので、彼はその傍に立った。そんな彼を見た彼女は、睨むように座れと身振りで示した。
それは、ジャックの癖のようなものだった。いつどこでレイシーが見ているとも限らない。もちろん彼はレイシーのいる地元から引っ越しているし、学校も違うので、見られる確率はそれほどないのだが。
彼は渋々、レナの隣に座った。いくら仲がよくても、バスのように狭い座席に、レイシー以外の女の子と並んで座るというのは落ち着かない。レイシーに誤解を与え、彼女を傷つける可能性が高くなる。別れていても、それに対する恐怖は消えない。
走り出した車内、窓の外を眺めていたレナがふいに切りだした。
「あなたがモテるの、ちょっとわかるわ。やさしいもの」
「悪く言えば、優柔不断」
「まあそうだけど。でも、話し上手で聞き上手」
「話しすぎたって後悔してる?」
彼女は苦笑った。「ちょっとね。で、さっきの話だけど」
「うん?」
「もしかしたら、“年上”への印象を塗り替えたいのかもね」
なるほど、と納得した。「彼はいい人?」
「もちろんよ」と答えると、彼女は微笑んでつけたした。「ジェニーと同じくらい素敵よ」
その言葉に、ジャックも微笑みを返した。
レナが相手を想う時、ジェニーの存在が必ずといっていいほどつきまとうのだろう。彼女の親友という存在が。
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二人は同じ停留場でバスを降りたが、ジャックは歩きださなかった。レナに言う。
「携帯電話貸して」
「どうして?」
「いいから」
彼女は無言のまま、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
それを受け取ったジャックはすぐさま電話帳を開き、ジェニーの名前を探した。そして見つけた。ジェニーの名前と電話番号が表示された携帯電話の画面をレナのほうに向け、そのままコールボタンを押した。
「ちょっと!」
彼女は慌てて電話を奪い取った。
「行ってきなよ。ジェニーの家、そんなに遠くないんだろ?」
レナは呆れ返っている。「こんなに強引だとは思わなかったわ」
ジャックは笑った。
「僕も今、自分の行動に驚いてるところだよ。いいじゃないか。告白しろなんて言ってない。ただ“彼”がいたらラッキー、“彼”がいなかったらアンラッキーってだけの話だ」
彼女がなにか言いかけた瞬間、電話口から声が聞こえた。ジェニーだ。ジャックは話すよう、手振りでレナを促した。
不満そうな顔をしながらも、彼女は向きなおって数歩歩きながら声を潜めてジェニーと話した。ジャックはそのあいだ、バス停の屋根の柱にもたれてレナを待った。
電話を切って溜め息をつくと、レナは彼のほうへと向きなおった。
「行ってくるわ」
「うん」
「ただし──」彼女が通りの向こうを指差す。「条件つきでね」
十分後、レナはジャックに買わせたケーキを持ち、ジェニーの家へと向かった。
他人の恋愛に首を突っ込むなど、どうかしているとしか思えない。
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家に帰ると、ジャックは自室のPCでパーティーへの参加者リストをまとめ、知り合いの印刷会社に電話をかけた。クリスの知り合いで、急な話でも格安で引き受けてくれる。うまくいけば、木曜には出来上がった招待状を受け取れるはずだ。それほど立派なものにするつもりはないが。
下準備が整うと、ソファに寝転んで目を閉じた。この部屋に、再び別れの思い出が刻まれた時のことを思い出す。
もう何度目だろう。三回か、四回か──。何日、何ヶ月経っても、けっきょく同じ結果になる。
眠っているのかいないのか、自分でさえもわからない沈黙を、携帯電話のメール受信音が破った。
起き上がり、テーブルの上の携帯電話を手に取ると、ジャックはまたソファに寝転んで携帯電話を操作した。
メールはレナからだった。件名も本文もないメールには、画像ファイルが添付されていた。ダウンロードボタンを押すと、レナが同級生ではないだろう男と並び、楽しそうに笑っている写真が表示された。
これが、彼女の片想いの相手? つまり、ジェニーのお兄さん? ハンサムだ。大学生と言っていたし、おそらくふたつかみっつ上。ジェニーと同じ黒髪で、目鼻立ちがくっきりしている。見るからにやさしそうで、モテそうだ。
携帯電話に再びメールが届いた。またレナからだ。“オマケ”とだけ書かれたタイトルのメールには、またしてもファイルが添付されている。ジャックは再びダウンロードボタンを押した。そしてそれが表示された。
ジェニーだった。
普段はおろしている肩下まである黒髪を、うしろでひとつにまとめている。彼女はレナが持って行ったケーキを食べているらしく、右手に持ったフォークを口に含んだまま、思いきり口元をゆるめて笑っている。
そういえば二年になってから、ジェニーとほとんど話をしていない。一年の時は彼女とライアン、レナが同じクラスで、ライアンのところに行くたびによく話をしていた。
入学試験の時のことも、まだ憶えている。
まるでリングにあがる直前のボクサー選手のように険しい表情を浮かべて意気込んでいる者。不安でたまらないといった表情でお守りを握りしめ、自身に“大丈夫”と言い聞かせる者。ギリギリまで参考書と睨めっこしたり、単語帳をひたすらめくりながら呪文のように何かをつぶやいている者──。
そんな様々な顔で溢れた試験前の校内でひとりだけ、その場には不自然だろう表情の女の子を見かけた。ガラス戸のついたアルミ製の屋外掲示板の前で、腕時計と正門のほうを交互に見やっていた。彼女が小さく華奢なのはすぐにわかった。膝上丈の黒っぽいロングコートに両手を突っ込み、灰色のマフラーで首を完璧に覆っていた。
なにより気になったのが、彼女の足元だ。マフラーよりもずっと薄い、褪せた色合いの灰色のスニーカー。頬を赤くし、白い息を吐くその姿はまるで、街で恋人を待っているかのようだった。
入学式の時、再会したライアンとレナがなんだかんだと騒ぐその場所に、彼女もいた。思ったよりもずっと小さかった。それが彼女──ジェニーとの出会いだった。
ジャックはしばらく、ジェニーの写真を眺めていた。彼女は普段からほとんどメイクをしていないが、可愛い。性格も明るくて素直。今のレイシーとは真逆だ。
──レイシーはもう、関係ない。
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金曜。ジャックは前日に受け取った招待状入りの白い封筒を、レナと二手に分かれて配っていった。
「チャンスが欲しいなら他言するな」という言葉と共に招待状を渡された男たちは、無駄に熱い意気込みと感謝の気持ちをジャックに示した。まだ感謝するには早いと思うのだが。
掃除の時間になると、ジャックはひとり、古い本の匂いがする図書室に入った。いつもの窓際の席につき、唯一手元に残ったライアンへの招待状入り封筒を指で弄びながら、どう彼に渡そうかと悩む。
詳しいことを聞きたがらない彼にもと、ひとまず招待状を用意したはいいのだが。渡すとすれば今日の放課後までに、ではあるものの──もうじきライアンの掃除当番が終わる。普通に渡すくらいなら、口で伝えるのも変わらない。
そもそも招待状というのも、飛び入りで誰かが乱入してくるのを避けるためのものだ。ライアンは一応主役だし、招待状など渡さなくてもいい気がする。
机に置いた招待状入りの封筒をなかば睨むように見ながら、右手に持ったボールペンを指で回していると、図書室の戸をノックする音が聞こえた。ここは職員室ではないのだが。
答えずにいると、ゆっくりと戸が開き、黒いロングヘアの女の子が顔を出した。
一瞬だが、心臓が、というより全身が反応したのがわかった。
いや、これはあれだ。このあいだレナが送ってきた写真のせいだ。あれのせいで変に意識してるだけ──意識って、なんだ。
「やっぱりここだった」
黒い髪の彼女がそう言い、ジャックはぽかんとした。
知らない顔だ。黒い髪。だが声には聞き覚えがあった。美人だ。だが、背は低くない。ジェニーではない。誰だ。
かたまる彼の姿を見て、彼女は笑った。
「やだ、かたまらないでよ。私よ、私」
すたすたと彼のほうに歩きながら彼女が自分の髪を引っ張ると、黒髪の下から見覚えのあるボブカットのベビーブロンドヘアが姿を現した。
「──レナ?」
「そうよ」黒髪のウィッグをジャックが使っていたテーブルに置くと、彼女はやはり両手で髪を整えた。「驚いた?」
「驚くもなにも──」
朝はあったはずのきつめのメイクがない。印象がまったく違う。なにが起きたのだ。
いまだに呆然としているジャックを見て、彼女は顔をしかめた。
「ちょっと失礼すぎだと思うんだけど」
だが彼はまだ現実に戻れない。「ええと──」
つまり、黒い髪のウィッグをかぶったノーメイクのレナだ。
メイクの力はわかっていた。レイシーもエレンもしていることだ。だが、それは素顔を知っている。レナの素顔ははじめて見た。改めて、メイクの力を思い知らされた気分だ。
「ちょっと、いつまでそうしてる気?」
レナが言った。やっと、ジャックの耳にまともに声が入ってきた。
「ああ、ごめん」
彼女が少々早口で説明する。「メイクはさっきおとしたの。ウィッグは家にあったもの。ママが昔、ヘアカットの練習用に用意したものでね。他に訊きたいことは?」そして机にぴょんと座った。
「よければ理由を教えて頂きたい」
彼のそれは、妙にかしこまった口調になった。これはもう、詐欺レベルだ。
彼女は肩越しに、顎で白い封筒を示した。
「それよ、それ」
「ライアン?」
「そうよ。LHRが終わったら、ジェニーと一緒に準備をするわ。そのあいだ、十五分くらいでいいから、あいつが帰らないよう引き止めておいてほしいんだけど」
「なにする気?」
レナは不敵な笑みを浮かべた。「普通に渡すんじゃ面白くないでしょ。あなたのことだから、きっとギリギリまで渡せずにいるだろうと思って。あげく招待状なんか使わず口で伝えるんじゃないかってね」
エスパーか。
彼女はさっと机からおりた。
「長いこと、ライアンは私の素顔を見てないはずよ。たぶん、今の私を見ても、すぐには気づかない。ちょっとアレンジを加えるしね。それで、彼に告白するわ」
「告白?」思わず声が大きくなった。
「フリよ、フリ。正確にはラブレターに見せかけたそれを渡すわ。封筒に入れてれば、中身がなにかはわからないわけだし」
レナは平然と言っているが、それがコイビト募集中のライアンにとって、どれだけ残酷になるのか。
「できれば人目につかないところがいいから──ここが一番かしら。教室は誰かが残る可能性もあるし。彼をここに連れてきて話をしてて。用意ができたらここに来るから、あなたは廊下に出て。ジェニーに動画機能つきのデジタルカメラを渡してあるから、それで撮ってて欲しいんだけど。音をたてないようにね」
悪魔だ、とジャックは思った。彼女がわくわくしてるのが痛いほど、いや、怖いほどわかる。
「けど、どうやって連れてくれば──」
レナの携帯電話が鳴った。彼女はすぐに電話に出た。
「もしもし? ええ、わかったわ。じゃあね」
それだけ?
「ジェニーからよ」と彼女が言う。「掃除終わったらしいから行くわ。LHRが終わったらすぐにここよ。いい? ここにペンの一本でも置いて、忘れたから取りに行くって言えば大丈夫でしょ」
再び早口でそう言うと、レナはジャックがテーブルの上に置きっぱなしにしていたペンを掴み、封筒からライアンへの招待状を出した。日時と場所を記してある招待状内側の下のほうに自分の名前を走り書きすると、招待状を再び封筒に戻し、それとウィッグを持って図書室を出た。
自分の二倍以上はあるだろう彼女の行動力に少々呆気にとられていたものの、ジャックはすぐに我に返った。自分も教室に戻らなければならない。
レナが言ったとおり、ペンを一本置いたままで図書室を出た。