SCENE 42
キャシーの眠る病室に戻ると、レイシーは再び病室の入口近くのソファに、ジャックはその隣にある高座椅子に腰をおろした。
「もしかして、今日、なにか予定があった?」レイシーが訊いた。
「いや」彼は彼女の目を見ずに答えた。「それより、眠れた?」
「ええ。三十分くらい」
「よかった」
「あなたは大丈夫?」
「うん」
「そう──私ももう、大丈夫だから」
ジャックの身体はかたまった。
“私は大丈夫だから”
「あなたと別れて、もう五ヶ月だもの」
思考が停まりそうな頭で、必死に言葉を探す。
「ずっと、言わなきゃと思ってた。自分勝手で、何度も迷惑かけてごめんなさいって」
迷惑だなどと思ったことはない。
「──私、がんばる。もう一度、ママと話せるようになる。お酒もやめさせて、二人でちゃんとする。あなたにもエレンにもクリスにも、もう心配はかけない」
喉に、なにかが込み上げた。同時に、心臓が締めつけらるような痛みを感じた。
「前に進まなきゃね、私も、あなたも、ママも」
ジャックはレイシーの顔を見られなかった。隣にいるのに、彼女がどんな表情をしているのか、ぜんぜんわからなかった。下を向きすぎているのか、視界にあるのは、自分の頼りない脚と、スポーツドリンクの入ったペットボトルを持った手だけだ。
なんと言えばいいのだろう。なにを言えばいいのだろう。こういう時、人は──。
病室の引き戸がゆっくり開いた。
「いた。レイシー」
ジャックは顔をあげ、戸口にあるその姿を確認した。エレンだ。
すぐに立ち上がったレイシーは、扉を閉めた彼女に抱きついた。
「エレン──」
「ハイ、レイシー」エレンは片腕で彼女を包み、髪にキスをすると同時に、もう一方の手で彼女の頭を撫でた。「心配だったわね。でも、大丈夫よ。先生に話を聞いてきたわ。朝の九時からちょっとした検査をするけど、お昼には家に帰れるだろうって。最近の医療はすごいらしいの。複雑な検査じゃなければ、二時間もすれば結果が出るんですって」
「よかった──先生に、大丈夫って、言われても──なにが大丈夫なのか、よくわからなくて──」
エレンが笑う。「そうよね。あの人たちはもう少し、言葉を選ぶべきかもね」そう言って再び、彼女の髪にキスをした。「さて、困ったさんの顔を見せてもらいましょうか」
レイシーも笑った。「ええ」
二人がキャシーのベッドに向かったので、ジャックもあとに続いた。
人の気配に気づいたのか、キャシーは目を覚まし、高座椅子に座ったエレンを見た。
「エレン──」
彼女は微笑みを返す。「久しぶりね、“困ったさん”。一ヶ月ぶりの再会が病室のベッドってどういうことなのか、ちゃんと説明してもらいましょうか?」そう言いながらも、彼女はキャシーの手を握っている。「覚えてる? あなた、バーで倒れたの。貧血と寝不足だそうよ。救急車で運ばれて、今は病院のベッドの上」
キャシーの目には涙が浮かんだ。「ごめんなさい、心配かけて──」
「あやまるならまず、娘にあやまりなさい」
エレンはレイシーの手をとって立ち上がり、入れ替わるようにして彼女を高座椅子に座らせた。
「ああ、レイシー」
キャシーは手をあげ、レイシーの頬を撫でた。
「ママ──」彼女もキャシーの手をとり、自分の頬に擦り寄せた。「ごめんなさい、ママ。私がわがままばっかり言うから──」彼女の目にも涙が浮かんでいる。
「違うわ、レイシー」キャシーは娘の涙を指で拭った。「ママが弱いせいよ。あなたを傷つけてばかりで、お酒に逃げて、あなたに心配かけて──」
レイシーは涙を落としながら首を横に振った。
「泣かないで、レイシー」キャシーも涙を流す。「もう一度、二人でやり直しましょう。パパはもういないけど、もう一度、二人で──」
「キャシー」
いつのまにかジャックはレイシーの傍らに立ち、声を出していた。
三人の視線が一気に彼に集まる。
「ああ、ジャック──またなのね、またこの娘があなたに──ごめんなさい──」
「そんなことはどうでもいい。訊きたいことがあるんだ、キャシー」本来なら、レイシーのいないところで聞くべきことなのかもしれない。だがそれでも、どうしても今、聞きたい。「まだ、レイモンドを愛してる?」
彼を見るキャシーとレイシーの目は、みるみるうちに驚きに変わった。
数秒の沈黙が生まれる。目を閉じると、キャシーは小さな声で、つぶやくように言った。
「──ええ」それでまた、涙が落ちる。「愛してるわ──」
彼女の手を握ったまま、レイシーは大粒の涙を流し、声をあげて泣いた。
愛してる。
泣きそうになったジャックの腰にエレンが手をまわし、微笑んで肩に頬を摺り寄せた。
愛してる。
母娘は泣いていた。
愛してる。
レイモンドの言葉が、キャシーの言葉が、ジャックの頭の中に何度も響いた。
病室の引き戸が開く音がし、ジャックはエレンと顔を見合わせると、揃って戸口が見えるところまで移動した。
ジャックは自分の目を疑った。彼が立っている。再びエレンと顔を見合わせ、視線を彼へと戻した。
彼、は申し訳なさそうに微笑んだ。
彼、のうしろからクリスが顔を出し、彼の背中を押した。
彼、はそのまま歩き、キャシーのベッドに近づいた。ベッドで泣いている家族の姿を確かめ、静かにレイシーの傍らに立った。
先に気づいたのはキャシーだった。当然、彼女は目を丸くした。言葉が出ないようだ。
「やあ、ハニー」
その声に、レイシーも顔を上げた。
「やあ、僕たちの可愛い天使」彼は微笑み、レイシーの背中にそっと手を添えると、キャシーへと視線を戻した。「手ぶらですまない。花屋がまだ開いてなくて。開いてても花を買う時間なんてなかったが」
キャシーの傍ら、レイシーの前へと移動すると、レイモンドは床に膝をつき、キャシーとレイシーがつないでいた手を両手で握った。
「キャシー。レイシー。すまない。君たちの気持ちを考えなかった。本当なら家族を優先するべきだったのに、わたしは逃げてしまった。赦してくれとは言わない。でも、もう一度、やり直したいんだ。三人で」
彼を見つめていたレイシーはまた声をあげて泣きだすと、手を離して床に膝をつき、レイモンドの首に腕をまわして彼に抱きついた。
キャシーも点滴のついた右手で口を覆って涙を流したが、左手は存在を確かめるようにレイの手を強く握り、身体を起こして少しでも彼に、娘に近づこうとした。
レイモンドは娘を右手で支えながらベッドの端に腰掛けて二人を抱きしめ、一緒になって泣いた。




