SCENE 39
二人はアライジング・グラウンド記念病院の正面入り口の前でタクシーを降りた。
静かすぎる病院内に足がすくんだのか、レイシーはジャックの手を離し、入り口で立ち止まった。
ジャックはかまわず総合案内のカウンターに行き、キャシーの名前を告げて病室を訊くと、レイシーの手を引いて、言われたとおりに病院内を進んだ。走らないようにと注意されたが、そんな約束はできなかった。他の入院患者がまだ眠っているのは百も承知だが──東の廊下を抜け、早足でC棟へと向かった。
C棟は不気味なほどに静まり返っていた。小さな受付のガラスの仕切りには淡い黄色のロールスクリーンが下ろされていて、クリーム色のフロアに置かれた家具のほとんどはダークブラウンで統一されている。
“患者室 一〇一─三一二 右エレベーターへ”と書かれた黄色い看板が天井から下げられていて、進んで行くと、道案内するように同じ色の看板がいくつかの地点で天井から下げられていることに気づいた。
エレベーターに乗ると、案内に従って五階のボタンを押し、ジャックは彼女に言った。
「落ち着いて」
今も目に涙を浮かべているレイシーの身体は小さくがたがたと震えていた。病院から電話があって一時間も経っていないはずだが、もう目が充血している。
「どうしよう、どうしよう──」
右手に彼女の震えが伝わる。
「大丈夫。君が考えるようなことにはらならない」
ジャックはレイシーの手を強く握った。だが、力を込めたのはそちらだけではない。そこではじめて、自分も動揺していることに気づいた。
大丈夫。大丈夫。
──誰か、大丈夫だと言ってくれ。
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五階に着いたらしく、エレベーターの扉が開いた。廊下を進んで三〇九号室へと向かう。
──三〇六、三〇七、三〇八──。前方から三〇九号室と思われる部屋の戸が開き、女性看護師が出てきた。
ジャックはレイシーの手を離し、看護師へと駆け寄った。
「あの──」
看護師の女性は彼に気づいた。「彼女のお子さん? びっくりしたでしょう。でも大丈夫よ。今医師が診てるけど、彼女は眠ってるわ。詳しいことは医師から説明がありますから」
慎ましく微笑んでそう言うと、看護師はジャックの横を通り過ぎ、レイシーに会釈をして去った。
大丈夫。ただ、そう言われても。
「なんて言ったの?」
気づけば、目に涙を浮かべたままのレイシーは、ジャックのすぐうしろに立っていた。
聞こえなかったので訊ねているのか、聞こえた言葉が本物だと確認したくて訊ねているのか、ジャックにはわからなかった。
レイシーは彼のジャケットの裾を力なく引っ張った。
「なんて言ったの?」
「──大丈夫──って、聞こえた」
彼は自分の言葉に自信がなかった。当然、耳にも。
「ほんとに?」
「なんて聞こえた?」
「よくわからない」
「僕もだ」
二人は数秒、ぽかんとした表情でお互いを見ていた。そのうち、レイシーはジャックの腰に手をまわし、彼の胸に頬を寄せた。
ジャックは意識してはすぐに反応できず、意思あってというよりは身体が勝手に、気づけばといった感じで、両腕で彼女を包みこんだ。それでもどこか気が抜けたような感じで、彼の視線は数分前に自分たちが通ってきた廊下の先を、ただ見つめているだけだった。
大丈夫。大丈夫。
──倒れて病院に運ばれた状態で、“大丈夫”という言葉は、どんな状態を言うのだろう。
命が無事だったら。後遺症が残らないと判断されたら。三ヶ月で退院できる程度なら。数時間後には家に帰れる状態なら。
“大丈夫”という言葉は、意味を持ちすぎる。
「ご家族の方?」
振り返ると、いつのまにか医師らしき男性がうしろに立っていた。
レイシーはジャックから身体を離し、うつむいた。父親であるレイモンドとまともに会えなくなってから、彼女は同じ年代の男性と目を合わせるのが苦手になっている。レイを思い出すからだ。
代わりにジャックが答える。「彼女が娘です。僕は友人」
「そう。ネームプレートに間違いはないかな?」
医師が示した部屋番号の下のネームプレートを見て、彼はうなずいた。
「はい」
「大人はいない?」
「今は僕たちだけです。あとから──二時間くらいすれば、僕の母が来ます」
医師の片眉が上がる。「君の? ──ふむ」
彼の視線に気づき、レイシーはジャックのうしろに隠れるように、少しだけ右に移動した。
彼が続けて言う。「じゃあ、手続きと細かい説明はそちらに任せられるかな?」
察しがよくて助かる。「はい」
「わかりました。では君たちには簡単に説明します。そこに座って」
促されるまま、ジャックとレイシーは病室のドアの反対側にある長椅子に腰をおろした。
片膝を床につくと、医師はうつむくレイシーに向かって微笑んだ。
「まず、彼女は大丈夫。安心して」
また“大丈夫”。「倒れたって聞いたんですけど」
彼がジャックに答える。「そう、バーでね。救急隊員が店員に少し話を聞いたところ、今日はウィスキーを五~六杯ほど飲んでいたそうだ。で、閉店時間が近づき、彼女は帰ろうと立ち上がった。そして倒れた」
ジャックの、医師を見る目に力がこもる。同時に、右手にあるレイシーの手にも力がこもった。
彼は説明を続けた。「店の人がすぐに救急車を呼んで、彼女はここに運ばれた。救急隊員が彼女のハンドバッグを預かっていたので、そこから携帯電話の電話帳を見て、“自宅”として登録されていた番号にこちらから電話した」
ジャックは質問を返した。「原因は? わかりますか?」
「うん、詳しいことは今日の昼、彼女が落ち着いたら検査するつもりだけどね。倒れた原因は貧血」
思わず、呆気にとられた。「──はい?」
「貧血。聞いたことあるだろう。悪化すると癌に発展することもあるが、今の彼女なら薬で改善できる。もちろん、彼女自身も普段から食生活に気を遣う必要があるけどね」
貧血。
彼はさらにつけたした。「あと、睡眠不足。どうやらあまり眠っていない──もしくは眠れていないようだ。化粧でわりと隠してはいるが、目の下にクマができてる。今は点滴で眠っているがね」
ジャックは彼のわかりやすい説明を聞き、理解しながらも、その一方で、別のことを考えていた。
この医師は奇妙だった。娘はレイシーで、自分は友人だとわかっているはずなのに、彼はレイシーではなく、自分に話しているようだった。目を合わせられないというレイシーの心理を読んだのか。エスパーなのか。ドクター・エスパーなのか。
「点滴は二時間程度で終わる」と医師は言った。「彼女は今は眠っているが、じきに目が覚めるだろう。そうすれば、話ができるよ。頃合いをみてこちらからも出向くが、ナースコールで呼びかけてくれてもいい。病室は相部屋だが、今は彼女一人だから、疲れたらベッドを使って。ただし、騒いで起こさないようにね」
そこまで言うと、彼はうつむいたままのレイシーの前へと移動し、両膝をついた。
彼女の身体は一瞬、こわばった。
「驚いただろう。すまないね。スタッフはご家族に連絡をする際、たいしたことじゃなくても、詳しい説明をできないんだ。受け入れかたは人それぞれだし、症状の説明は医師がすることになってる。だから事務的になってしまうんだ。だが、大丈夫だ。心配いらないよ。いくつか質問したいんだが、答えられそうかな?」
彼の口調も表情も、まるで傷ついた十歳の子供をいたわるかのようにやさしかった。
うつむいたまま、レイシーは小さくうなずいた。
「お母さんにアレルギーはある?」 「じゃあ、持病は?」
ふたつの質問とも、彼女は首を横に振ってノーと答えた。
「わかった。それじゃあ、なにか薬を飲んでたことは?」
その質問にレイシーは顔を上げ、医師の目を見た。再び目に涙が浮かぶ。
「──胃薬が、テーブルの上に出しっぱなしになってたことが──」
「そう。お酒はよく飲む?」
「──たぶん。最近は夜中に出てって、朝方帰ってくることも多かった。家では飲まないけど、たぶん──」
「外でお酒を飲んでたんだね」医師は立ち上がった。「ありがとう、もういいよ。中に入って、お母さんについててあげて。ではまたあとで」
立ち去ろうとする彼を、ジャックが呼び止めた。
「あの、ここ、電話は使えますか?」
「ああ、この廊下を出て左に、電話用のボックスがある。そこなら大丈夫だよ。あとは一応、電源は切っておいて」
「わかりました。ありがとうございます」
医師が廊下の奥へと消えると、ジャックはレイシーに声をかけた。
「レイシー、母さんに電話してくる。先に中に入ってて」
だが彼女は首を横に振った。
「わかった。じゃあ一緒に行こう」




