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HERO  作者: awa
Escaping and moving
35/48

SCENE 35

 運ばれてきたデザートをエレンが一口食べたのを確認し、ジャックは口を開いた。

 「父さん、ワインを一口ちょうだい」

 クリスは肩眉を少し上げただけだったが、エレンとレイモンドは目を丸くして彼を見返した。

 「ジャック、それは──」

 彼はレイの言葉を遮った。「一口だけ。あと三年も先延ばしにするなんてできない。今」

 ジャックは酒を飲んだことがないわけではなかった。中学二年生になったばかりの春、ライアンと一緒に両親のコレクションの中からワインを一本盗み出し、それを飲んだことがある。グラスに半分ほど注いだワインを二人で分けて飲んだだけだが、ライアンの顔が真っ赤になり、仕事から帰ってきたエレンに見つかったあげく、三時間の説教を受けた。それ以来、二人とも酒には手を出していない。

 レイは両手を上げ、目を閉じた。

 「わたしはなにも見てない」

 こんなことを脅しに使うつもりはない。

 クリスが一口ぶんのワインを瓶に注ぐと、その隣でエレンは信じられないといった表情で天を仰いだ。それも気にせずに、クリスは十七歳の息子へとそのグラスを差し出した。

 受け取ると、ジャックは香りを確かめることもせず、一気に喉へと流し込んだ。中学二年生だった時は苦くてまずいとしか思わなかったのに、不思議とおいしいと思った。もう一杯、とか言っている場合ではない。

 「さて」グラスをテーブルに置くと、ジャックはレイモンドに向かって切りだした。「レイシーは元気?」

 彼は開いた目を丸くした。酒の次はこれかと思ったのだろう。気持ちはわからなくもない。最初こそ警戒したものの、今の今まで安心しきっていたはずだ。ただ料理を食べに来ただけだ、と。

 最近会っているなら、こんな顔はしないはずだ。つまり、半年以上も会っていないというわけだ。

 ジャックは質問を続けた。「もしかして、まだ彼女を避けてる?」

 「避けてはない。忙しくて──」

 なんとか搾り出したといったレイモンドの言葉を彼は遮った。「僕たちとはこうして食事をしてる」

 「それは──」

 助けを求めてか、レイモンドはクリスへと視線をうつした。

 「すまないね、レイ。諦めてくれ。逃げてもどうにもならないことは君だってわかってるはずだ」

 ジャックは口をはさんだ。「父さんたちはなにも悪くない。無理を言ったのは僕だ」

 視界の隅に、デザートのバニラアイスクリーム付チーズケーキを食べながら、今にもおいしい! なんて叫びだしそうなエレンの姿が映る。なにやってんだこの人。

 ジャックは少しだけ、チェアをレイモンドのほうへ向けた。エレンが正面の席に座らなくてよかったと本気で思った。

 「──で」気を取りなおすため、彼は咳払いをした。またもレイモンドに質問をする。「レイシーと最後に会ったのはいつ?」

 どうやら彼は諦めたようだ。「四月──いや、三月か」

 「どうして会わない? 娘に会いたくない?」

 「会いたいよ」即答だった。

 「なら会えばいい。彼女があなたに会いたがってることはわかってるはずだ」

 「ああ、わかってる」

 そう答えると、レイモンドは数十分前のジャックと同じ体勢になった。“落ち着け”と自分に言い聞かせ、神に祈るような姿勢だ。

 「その前に聞かせてくれ、ジャック。あの娘は元気か?」

 レイの質問に、今度は彼が即答した。「わかりません。別れましたから」

 彼は顔を上げた。あからさまに驚いている。

 「いつ?」

 「五月。あなたがマリオンという女性と仲良く歩いてた次の日」言うつもりではなかったが、この際だ。

 「マリオン?」

 彼は問いかけるようにクリスのほうを見た。

 「僕たちが紹介した、イベントプランナーの」

 その補足で思い出したらしい。「まさか、レイシーがあの場にいたのか?」

 チェアに背をあずけ、ジャックは足を組んだ。

 「あなたの新しい恋人だと思ったらしい」

 彼は肘をついた両手で顔を覆った。愕然としている。

 「なんてことを──」

 「父さんたちがちゃんと彼女に説明したから、誤解だってことは彼女にも伝わってる」

 そう言うと、彼は安堵の息をもらした

 まったく読めない。どうなっているのだ。「とりあえず、会わない理由を教えてください」

 完全には顔を上げないまま、レイは再びクリスに無言の問いかけをした。友人がうなずいたのを確認すると、再び両手で表情を隠した。

 「──あの娘と会えば、別れが辛くなる。“一緒に暮らしたい”といってしまいそうになる」

 部屋に他の客がいれば、聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。驚かなかったといえば嘘になる。だがそれは、いい意味での驚きだ。

 「彼女はそうしたがってる」

 再び祈るような姿勢になっているレイモンドの指に、ぐっと力がこもった。

 「できるわけがないだろう。そんなことを言えば、キャシーが一人になってしまう」

 「ひとりにしなければいい」ジャックはすかさず言った。「キャシーと三人で一緒に暮らせばいい」

 レイは顔を上げた。

 「まさか。そんなことができるわけ──」

 彼はあくまで平静を装う。「なぜ?」

 視界の端で、今度はエレンがクリスの前にあるチーズケーキに手を伸ばすのが見えた。なにやってんだこの人。

 今度は完全に身体をレイのほうへと向け、エレンの姿が視界に入らないよう、ジャックはテーブルに右肘をついた。

 「思い出して、レイ。あなたが家を出ようと決めた時、キャシーはなにを言った? なにをした?」

 彼は目を閉じて考え込んだ。

 「──あの日、帰りが夜中になったんだ。というか、その頃毎日──遅くまでシェフと新作メニューの打ち合わせをしていた。当然、あの日も家の中は真っ暗で、二人とも寝てるんだろうと思った。家に入って、玄関ホールの明かりをつけた。──階段に、キャシーが座ってた」

 間があいた。ジャックが続きを促す。「それで?」

 「彼女のそばに行った。声をかけた。彼女は──もう無理だと言った。泣いているようだった。わけがわからなくて、どうしたんだと訊き返した。そしたら──」

 彼の声がかすれ、また途切れたが、今度は急かすことはしなかった。

 「そしたら」と、レイモンドは続けた。「忙しいのはわかっている。だが、忙しすぎだ。夫婦で同じ家に住んでるのに、朝の数十分しか会えない。他人にディナーを振舞うのに、家のディナーは全然食べない。寂しすぎる。虚しすぎる。こんな生活、もう──続けていられない、と」

 クリスが水を渡すと、彼はそれを飲んだ。目には涙が浮かんでいる。二呼吸ほどするのを待って、ジャックはまた促した。

 「それで、そのあとは?」

 彼は再び両手で表情を隠した。

 「──彼女は寝室へとあがった。扉を思いきり閉めた。私は階段に座ったまま、呆然としていた。頭の中を整理しようとした。だが──」

 「どうすればいいかわからなくて、けっきょく家を出ることにした?」

 ジャックがあとを引きとって代わりに言葉にすると、レイモンドは小さくうなずいた。とても四軒のレストランを経営する実業家とは思えないほど小さい。

 「──その時、別の部屋のドアも閉まったこと、知ってます?」

 ジャックが口にしたその言葉に、レイモンドもクリスも驚きの表情を示した。エレンは知らない。見えない。

 「レイシーもそのやりとりを聞いてた。彼女はあなたが帰ってくるのを待ってた。家庭科の授業で作ったクッキーとメッセージカードを渡すために。寝たフリをしてたけど、ずっと起きてた。あなたの車の音がして、ベッドを出た。キャシーに見つからないよう、そっとドアを開けた。階段の手前で玄関のドアが開くのを待って、一階を見下ろした。キャシーが座っていることに気づいた。泣いてることにも。そのあとは今あなたが言ったとおり。彼女はぜんぶ見てた」

 レイモンドはこみ上げてくるものを抑えるかのように口を硬く結び、またも両手で顔を覆った。声を押してはいるが、泣いている。

 ジャックの喉元も苦しくなった。だが、こんなものではない。レイシーの涙は、レイシーの傷は、こんなものではない。まだ、終われない。

 と、エレンが静かに立ち上がった。「閉店時間だから手伝ってくる」とジャックの耳元で囁き、部屋を出た。

 クリスに向かって小首をかしげると、彼はうなずいた。最初からそのつもりだったらしい。

 エレンはレイモンドとキャシーが離婚してからしばらく、この店を手伝っていた。他の店舗には客として行くだけだが、この店のことなら料理長やフロアリーダー並に詳しい。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 レイモンドがまだ答えられる状態でないことは承知だが、ジャックは右肘をおろして再び質問をした。

 「離婚の時は?」

 彼の肩に手を伸ばし、クリスが代わりに答える。

 「この店に、サイン済みの離婚届を入れた封筒が届いた。新しい住所は教えていたが、それはここに届いた。一週間ほど悩んで、それにサインして、キャシーに送った」

 一週間。たった一週間。「その離婚届を最初に見たのもレイシーだった。あなたは差出人の名前を書かなかったけど、彼女は宛名の字であなただとわかった。うかつすぎだ」

 クリスの表情は驚きに変わったが、ジャックはレイモンドだけを見ていた。彼の怒りは頂点に達していた。

 レイモンドは驚くというよりも、懺悔するようにテーブルに顔を近づけ、頭を抱えて泣いた。

 ジャックの怒りは彼に向けられると同時に、自分自身にも向けられていた。自分はその時、レイシーのそばにいてあげられなかった。彼女はおそらく、ひとりで泣いた。耐え切れなくなり、彼女は自分を頼った。だがけっきょく、なにもできなかった。

 ジャックは再び、静かに切りだした。

 「──ねえ、レイ。僕はあなたの気持ちは理解できない。レイシーの気持ちもそうだ。話を聞くことはできても、彼女の傷を癒すことはできない。それができるのは、親である二人だけだ。でも、僕はいやってほど彼女の涙を見てきた。中学二年生には突然でキツすぎる現実を目の当たりにした彼女の涙を」

 レイモンドは身体を起こしたが、相変わらず両手で顔を覆ったまま、それでもゆっくりとうなずいた。

 それを確かめてから彼は続けた。「僕は、原因は話し合わなかったことあるんじゃないかと思ってる。キャシーは忙しい夫を責めたけど、別れたいわけじゃなかったかもしれない。店を手放してほしいわけでも──なかったと思うけど。とにかく、店舗を増やすことによって払う代償を、彼女は考えてなかった。ただ、仕事と家庭を両立させてた頃の夫に戻って欲しかっただけなのかも」

 言葉を切ると一度視線を落とし、またレイモンドを見た。彼は静かに聞いている。

 「もちろん、これは推測だけど──離婚の時もそう。戻ってきて欲しかった。でも、戻ってきたのは離婚届だけ」

 ジャックの言いたいことを理解したらしく、彼はうなずいた。

 「僕がここにきたのは、理由が欲しかったからだ。レイシーが納得できうるだけの理由が欲しかった。彼女の頭の中はずっと、疑問符だらけなんだよ、レイ。なぜ両親は別れたのか。なぜ父親は家を出たのか。なぜ母親は父親の仕事を理解できなかったのか。なぜあんなに仲のよかった母親とうまくやれないのか──」

 レイモンドが反応した。涙を拭ってからゆっくりと手を下ろし、充血した目を見せた。

 「──うまくいってない? キャシーと?」

 知らなかったのか、とジャックは思った。だが思い出した。そういえばレイシーが、キャシーの話はしないと言っていた気がする。

 「フルタイムの仕事が終わったあとはたいてい──」ゲイルの名前を口にしそうになり、ジャックは自制心を働かせた。「たいてい、どこかで飲んでるか、とにかくなかなか家には帰らない。たぶん、今も」

 今まで、別れてからヨリを戻すまでのあいだに事態が好転してたことなど、一度もない。それどころか、悪化する一方だった。

 「──僕は、理由を知りたい。ふたりがレイシーとちゃんと話をしないなら、僕が代わりに聞く。彼女の友達として」

 手を口元まで下ろすと、レイモンドはまたうなずいた。

 「君の言うとおりだ、ジャック。そろそろ前に進まないとな」そう言うと、彼はクリスに言った。「クリス、話を進めたい。勝手を言ってばかりですまないが、協力してくれるか?」

 クリスは微笑んだ。「もちろんだ。」

 話ってなんだ。

 ジャックの左前方にあるドアがノックされて開き、エレンが顔を出した。

 「終わった?」

 ジャックが答えるより先にクリスが答える。「ああ」

 「すまない、エレン。いつもいつも」

 「いいのよ、レイ。私、ここの仕事好きなの。さあ、ジャック。あとはクリスに任せて、あなたは下を手伝うのよ。ここにもじき、スタッフがくるわ。まだ話が残ってるなら、続きは事務所か車の中でしてちょうだい」

 そう言うと、彼女は部屋を出た。

 バイト料は出るのか。「レイ、あとひとつだけ──」ジャックは立ち上がった。「まだ、キャシーを愛してる?」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 部屋を出ると、廊下の先でエレンが待っていた。彼が近づくと、彼女はジャックを抱きしめた。

 「どうだった?」

 「希望以上の答えが聞けたよ」

 「そう。よかった」彼女がジャックの首に手をまわす。「あなた大きくなりすぎよ。私が小さく見えるじゃない」

 知らないよ。「父さんはなにか知ってたの?」

 「みたいね。昨日、彼がキャシーとやりなおしたがってることは聞いたわ。でも、そんなことを言いだす勇気がなかったみたい。あと、店を売ることも考えてるとか」

 目を丸くし、ジャックはエレンが自分の首にまわした手をほどいた。

 「店を売る?」

 「ええ。四店舗目から順に。あと、リトル・バレルに家を買ったとかなんとか」

 リトル・バレル。北部の雪国。飛行機レベル。車では無理。「つまり?」

 「確定するまでは弁護士としての守秘義務がどうとかで話してくれなかったわ。ホント、弁護士って嫌な仕事よね」

 元第一線弁護士がなに言ってんだ。

 「とにかく、あとはキャシーの気持ちを確かめましょ。彼女、私にはなにも話してくれないから、レイのようにうまく聞きだせるかはわからないけどね。」エレンは微笑み、またジャックにハグをした。「いい子に育ってくれたわ、ホント」

 「あの状況でアイスやケーキを食べる人の息子だとは思えないね」

 「食べ物を粗末にしちゃダメなのよ。それに、楽しみだったのよね、この店の極上のチーズケーキ。あと、あなたなら大丈夫だと信じてた」

 「おもわず笑って、雰囲気をぶち壊しそうになったけどね」

 苦笑ってジャックが言うと、エレンも笑った。どうやら反省はないらしい。

 店の片づけを手伝い、カウンターにいた女性に電話番号を書いたメモをこっそりと渡されると、それをジーンズのポケットに突っ込んで、次に見る時には番号が消えていますようにとジャックは願った。

 事務所で熱心に話しこんでいたクリスとレイモンドを残してエレンと一緒に先に家に帰ると、数時間後には自室のベッドに入った。

 とりあえず、また“一歩”。

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