SCENE 32
火曜。ジャックはいつもどおりに学校へ行った。昨日のことは、担任には食あたりだと説明し、友人たちには寝坊して面倒になったと言った。
ベラとは普通に話したがその一方で、慎重にジェニーを避けた。あからさますぎて、こちらのほうが傷つけるのではないかとも思ったが、そうするしかなかった。自分を追い込むしかない。
それでも彼女を見つけると、無意識のうちにその姿を見つめてしまっていた。話しかけたい衝動に駆られる。気づかれそうになって、視線をそらす。そのうち、ジェニーもこちらの態度に気づくだろう。しかたない。今は我慢だ。
放課後はライアンたちの誘いを断ってまた、マイキー・シューズへ行った。
靴は売ってもらえなかったが、愛称であるマイキーと呼ぶことはさらりと拒否されたが、マイクと呼ぶことは許可された。
エレンへの靴を買い、自宅へと帰った。夕食のあと。そこで“一歩”。
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クリスは夕食の直前に帰ってきた。さっそく靴を履いたらしく、歩きやすいとベタ褒めだった。その話でまたエレンがそわそわしはじめた。仲間はずれにされたようで落ち着かないらしい。他ではどうだか知らないが彼女は本当に、家族三人のあいだでのそれを嫌う。
夕食を終えて一度自室へと戻り、覚悟を決めてリビングに戻ると、ジャックはエレンに、靴の入ったオレンジ色の紙袋を渡した。
五歳児のような無邪気な笑顔で紙袋から出した箱の蓋を彼女が開けようとした時、ジャックは切りだした。
「頼みがある」
当然エレンは手を止めた。箱の中を覗き込もうと彼女のほうに身体を傾けていたクリスと共に、視線をジャックへとうつした。
エレンが訊く。「これを見てからじゃダメ?」
ジャックはやはり即答した。「ダメ」
彼の真剣な表情に気づいたらしいクリスはソファに座りなおした。それを見たエレンも箱を脚の上から下ろし、脇へと置いた。
「レイモンドと話がしたい」ジャックは訊かれるまえに言った。「レイシーのために」
クリスとエレンは言葉もなく顔を見合わせた。
ジャックは続けた。「もちろん、世間話をするためじゃない。なぜ家を出て離婚に応じたのか、なぜレイシーを避けるのかを訊きたい」
今はどうなのか、頻度はわからないが、両親が時々、レイモンドやキャシーと連絡を取り合っていることは知っている。もちろん、彼らははっきりとは言わないが。
エレンはゆっくりと口を開いた。「ジャック。まえにも言ったでしょう。それは彼らの──レイとキャシーの問題よ。相談されてもいないのに、私たちが口をはさむことじゃないわ」彼女の表情はすでに母親ではなく、ひとりの大人としての表情に変わっている。
ジャックは訂正した。「レイとキャシーとレイシーの問題だ」
「そうね、そっちが正しい。訂正するわ。でもね、あなたがレイシーに相談されてたとしても、けっきょくは夫婦の問題になるの」
「大人の事情って言いたいわけ? そう言い訳すればすべて許されると? そういえば一人娘を傷つけてもいいと?」
彼の口調はきつくなっていた。クリスは黙って彼を見ているが、エレンは驚きを隠せない様子らしい。当然だ。ジャックは今まで一度も、両親に対してこんなふうに言ったことがない。だが、ここで引くわけにはいかない。
「僕はレイやキャシーに直接、彼らの気持ちを訊いたことはない。当然だ。僕は子供で、彼らにしてみれば娘のボーイフレンドでしかない。でもレイシーに聞いた限りでは、二人はまともに話し合ってすらないんだよ、母さん」
彼はエレンの目をずっとまっすぐに見ているが、彼女からは困惑の表情しか読み取れない。
ジャックはかまわず続けた。「もちろん、レイシーだって子供だ。勘違いしてる部分も、知らないこともあるかもしれない。それに正直言って、僕や母さんがどうこうしたところで、ふたりの仲を修復できるなんて思ってない。けっきょくは母さんの言うように、夫婦の問題だ。それはわかってる」
一度口を閉じると、彼はソファに背をあずけた。
「──五月、別れるまえに、レイシーに訊いたんだ。いちばんの望みはなんだって。彼女、なんて答えたと思う?」
エレンからクリスへ、そしてまたエレンへと視線をうつした。
彼女が小さな声で答える。「──三人で、また一緒に暮らすこと?」
首をゆっくりと横に振ると、ジャックは哀しそうに微笑んだ。
「そう思うよね。でも、彼女が僕に言ったのは違う。“時々でいいから、パパに会いたい。話したいことがいっぱいある。それから、ママとちゃんと話がしたい。前みたいに一緒に料理して、一緒に食べて、一緒に笑いたい。たとえ──”」
ジャックは戸惑う表情を見せたエレンから視線を落とし、吐息をついた。
「僕が彼女の望みを叶えられるとは思ってない。でもせめて、彼女が納得できるだけの理由が欲しい。レイシーは納得してないんだ。今もできてないはずなんだ。結局は夫婦の問題なのかもしれないけど、彼女は娘として、納得できるだけの理由を求める権利はあるはずだ。それに──」
ジャックが口ごもると、クリスは静かに促した。「それに?」
「──僕は、あの二人から気持ちが消えたなんて、どうしても信じられない」
うつむき、エレンは溜め息をつく。
「思いこみかもしれないじゃない」
確かにそうだ。というより、願望だ。「母さん。僕は幸せ者だよ。こうやって話を聞いたり、言いたいことをそのまま言ってくれる両親がいる。父さんは忙しいけど、そのぶん母さんが僕を見てくれてるのも知ってる。二人はきっと、僕が夜中に話があるって言ったとしても、こうして聞いてくれると思う。睡眠時間を削ってでもね。それはふたりのあいだでも同じだ。喧嘩になるまえに話し合いをすることを知ってる。僕にとっては理想の夫婦だよ。たとえふたりが離婚することになったとしても、理由を求めれば、二人は僕が納得するまで説明してくれるはずだ。少なくとも、僕はそう信じてる」
ジャックはさすがにもう、両親の目を見られなかった。ここまで言ってダメなら、ひとりでも乗り込んで行くしかない。
「──わかった」
クリスが言った。ジャックとエレンは同時に視線を上げて彼を見た。
「協力する。で、なにをすればいい?」
「クリス!」
「エレン」彼は手を伸ばし、斜め向かいに座る妻の手を握った。「ジャックがはじめて、自分から考えて大きく行動しようとしてるんだ。いいことじゃないか。今まで真剣に僕たちを頼ることも、反抗することもしなかった。僕たちの息子が大人になろうとしてる。その成長を、親である僕たちが潰してどうする?」
だがエレンは引き下がらない。「この子はもう、レイシーの恋人じゃないのよ?」けれどクリスを見つめる彼女の目には、諦めの色が混じっている。
「わかってるよ。でも、友達だろう。二人が別れたからといって、レイとキャシーが別れたからといって、僕たちの友情が消えたわけじゃない。それと一緒だ」あくまでやさしく、彼は彼女を諭した。「二人は恋人という前に、友達なんだよ。ジャックはジャックなりに、レイシーの家族を見て、彼女の話を聞いて、考えた。やってみるだけの価値はあるさ。僕たちはジャックの親として、レイとキャシーの友人として、この子を、友人を、見守ろう」
ジャックは知っている。エレンはクリスの、あの瞳に弱い。
夫から視線をそらすと、彼女は深呼吸するよう大きく溜め息をついた。
「わかったわ。で?」
エレンは切り替えが早い。
「最初に言ったとおり、レイと話がしたい。でも僕が一人で会いに言ったところで、子供相手に気持ちを聞かせてくれるとは思えない。でも父さんたちがいれば、状況は変わるかもしれない。ふたりに立ち会ってほしいんだ」
「いいだろう」クリスが答える。「さっそくレイに電話して、明日か明後日にレストランの予約を入れよう。彼の仕事を考えれば、ラストオーダーの少しまえがいいな」
そう言うと彼は立ち上がり、書斎へと向かった。
リビングが数秒の沈黙に包まれる。
先に動いたのはエレンだった。靴の入った箱を再び脚の上に乗せ、ジャックに訊いた。
「もう開けてもいいかしら?」
「うん」
微笑んでジャックが答えると、彼女は再び子供のような──今度はさっきほど無邪気ではない笑顔で箱を開けた。中を見た瞬間、彼女の表情ははじめて雪を見た五歳児のような笑顔になった。
普通、大人になると、多くの人間が感情を素直に顔に出さなくなる。だがエレンは違った。怒りや哀しみ、驚きに戸惑い、そして喜びも、彼女は素直に表に出す。もちろん、仕事が絡むとそれはまずいので、彼女は必要だと判断すればひとたび、何事にも冷静に対処する仕事人間の顔になる。クリスは彼女がそうなる瞬間のことを、“仕事モード突入”とコールしていた。
靴を手に取ると、エレンは笑顔で言った。
「これはクリスのとペアね?」
「よく気づいたね。そうらしいよ」
「やっぱり!」
さっそく靴を履くと、彼女は履き心地を確かめるようにリビングの中を歩きまわった。渡したのはクリスのと同じモンクストラップの、メンズよりは少しヒールが高くなった黒いレディースシューズだ。
ジャックのうしろにまわりこむと、エレンはソファ越しに彼を抱きしめ、頬にキスをした。
「ありがとう。ジャック。大好きよ」
自分で稼いだお金じゃないけどね。
クリスが書斎から戻ってきた。
「ジャック、明日だ。ラストオーダーが二十一時三十分だから、二十一時十五分に予約を入れたよ。半端だが、二十一時まで会議があると言って無理を聞いてもらった。三人で彼の店に行くのは久しぶりだし、せっかくだからフルコースを頼んだよ。四人で予約したから、彼にも席に着いて貰おう」
そこまで説明すると、クリスはジャックのうしろでエレンの肩を抱き、彼女の額にキスをした。
「似合ってるよ」
「あなたとおそろいですって」
「いいね。明日、さっそく履いて行こう。レイの店にも。何人気づくかな」
彼女は悪戯っぽく顔をしかめてみせた。「嫌味じゃないかしら?」
「効果的かもしれないよ。キャシーのことが恋しくなるかもしれない」
ワルだ。
「そうね、夫婦の愛を思い出させてやらないと」
そう言うと、彼女はクリスのほうを向き、首に手をまわした。てっきり睦み合いはじめるのかと思ったが、両親は揃って、少々呆れ交じりにぽかんとしているジャックへと視線をうつした。
どうやら邪魔者らしい。というか、そこは家族の愛にしとけよ。そう思いながらも立ち上がり、ジャックはリビングをあとにした。
「ジャック」クリスが呼び止めた。「お前、レイシーとやりなおすのか?」
振り返り、彼は微笑んで父親の視線を受け止めた。
「ごめん、それはない。好きな子がいるんだ。レイシーじゃない」
両親は目を丸くし、顔を見合わせた。
息子の恋愛に口出しするようなことはしないだろうが、なにか言われるまえにと思い、彼はリビングを出た。
これで、“一歩”は完了した。




