SCENE 02
夕方、ライアンが帰ったあと、ジャックの母親であるエレンが帰宅した。しばらくすると彼女の作った夕食を二人で食べた。世間には第二次反抗期というものがあるようだが、ジャックにはそれがなく、両親とも仲がいい。
食器を棚に戻しながら、エレンは息子に訊ねた。
「最近レイシーを見ないけど、あなたたちまた別れたの?」
ジャックはふたつ並べたカップに紅茶を注いでいる。「別れてない。会わないのは母さんが家にいないのと、むこうかセンター街で会うことのほうが多いから」
「あら、そうなの。ならいいけど。で、ライアンの今年のプレゼントは決まったの?」
「またパーティーだってさ。毎年同じこと言ってる」
エレンは笑った。「あの子も好きね」
「笑い事じゃないよ。レイシーに何言われるか」
「あら、嫉妬は愛されてる証拠よ。信じてもらえてない証拠でもあるけどね。さて、持って帰った仕事を片しちゃうわ。クリスが帰ってくる前に」
クリスは彼女の夫であり、ジャックの父親だ。
「ああ、がんばって」
部屋に戻ったジャックは、テーブルに置いていた携帯電話の着信ランプが光っていることに気づいた。メールだ。彼は携帯電話を操作しながらシングルソファに腰をおろした。メールの送信者は、恋人であるレイシーだ。
《助けて》
それだけだった。なにからなのかがわからなかった。たったそれだけで状況が飲み込めるはずなどない。
ジャックは彼女に電話をかけた。七回目のコールで呼び出し音が途切れ、やっと彼女に繋がった。
「レイシー? どうした?」
「パパが──」
彼女は泣いているようだった。
「レイがどうした? レイシー、ちゃんと話して」
鼻をすすり、彼女はどうにか口を開いた。
「──今日、友達とセンター街に行ったの。そしたら──」
「うん」その小さな声を聞き逃さないよう、彼は耳をすませる。
「パパが知らない女の人と、楽しそうに歩いてて──」
言葉の意味を理解し、ジャックはかけるべき言葉を探した。
「仕事関係の人かもしれないだろ」
レイシーはヒステリックに声をあげた。「腕を組んでたのよ!」
「わかったから、落ち着いて」ジャックはなだめるように言った。「今、どこにいる?」
「家よ──」
声が震えている。これでもどうにか冷静さを取り戻そうとしているのだ。
彼は彼女の母親のことを訊ねた。「キャシーは?」
「いないわ。きっとまたゲイルのところよ」
ゲイルというのは、彼女の母親であるキャシーの、最近できたらしい恋人だ。そしてレイシーはあの大きな家に、またしてもひとりきりでいる。
「うちにくる?」
彼女はなにも言わない。
「今から行く。タクシー呼ぶから十五分くらい。待ってて」
返事を待たずに電話を切ると、ジャックはすぐタクシー会社に電話した。
タクシーは七分で家の前に車を停め、クラクションを鳴らして到着を知らせた。──いつもなら、五分もかからないのに。こういうときに限って、なにかに邪魔される。
財布と携帯電話だけを持ってタクシーに乗り込み、行き先である彼女の住所を告げると、ジャックは黙りこんだ。
こういったことは、はじめてではなかった。レイシーが家族の問題で助けを求めたとき、ジャックはいつだって彼女のところへかけつけた。別れていても別れていなくてもそれは変わらず、別れていた時にそれが起きれば、それをきっかけに再び交際をはじめることもあった。
レイシーの心の傷を知っていたし、なんだかんだで自分を頼っていることも知っていた。彼女が寂しがっているということもだ。だからこそジャックは、彼女を突き放せなかった。
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彼女の自宅の敷地内、ドライブウェイを少し進んだところでタクシーを待たせたまま、ジャックは両側が芝生になった白いコンクリートのドライブウェイを歩いた。
オレンジと白の明かりの灯る玄関ポーチに、両脚を抱えてうずくまる彼女の姿が見えた。
「レイシー」
彼が声をかけると、顔を上げて立ち上がり、ジャックに駆け寄って彼の腕に飛び込んだ。泣きやんではいたが、泣きたい気持ちを抑えるかのように、きつく彼を抱きしめた。
「鍵はかけた?」
髪を撫でながら訊ねると、彼女は小さくうなずいた。
「なら、行こう。タクシーを待たせてる」
レイシーの額に軽くキスをすると、ジャックは彼女の肩を抱いたまま待たせていたタクシーに乗った。
タクシーの中は、沈黙に包まれていた。彼女は彼の肩に頭をあずけ、どこか遠くを見ているようだったし、ジャックもずっと外を眺めていた。
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二人はジャックの家へと戻った。彼は彼女をゲストルームに連れていき、シャワーを浴びるよう言った。ゲストルームにはなぜか新品の服が用意されているので、突然の宿泊があっても特に問題はない。
彼女がシャワーを浴びているあいだ、ジャックはエレンの書斎へ行き、簡単に事情を説明した。エレンは驚かなかったが、彼女を心配した。キッチンでハーブティーを淹れ、「飲ませてあげて」と言ってジャックにカップを渡し、クリス──ジャックの父親が帰ってきても、レイシーの顔を覗きに行かせたりはしないと約束した。
ジャックは二階にある自室に戻った。レイシーはソファの前にうずくまっていた。彼が戻ったことには気づいているはずだが、顔を上げようとはしない。
ハーブティーの入ったカップをソーサーごとテーブルの上に置くと、彼はそこに置いたままだった紙袋を持ってクローゼットへと向かい、扉を開けて紙袋をその中に突っ込んだ。
「また買ったのね」
ジャックが振り向くと、彼女は彼のほうを見ていた。彼の浪費癖を心配するような眼で。心配しているのはこちらのはずでは、とは思ったものの、彼はそれを口にはしなかった。
「飲みなよ。エレンが淹れてくれたんだ」母親の希望で彼は、人前ではできるだけ、両親のことを名前で呼ぶようにしている。
レイシーは紅茶に口をつけた。だが一口だけだった。カップを皿の上に戻すと、小さく吐息をもらした。やっと落ち着いたかのように。
ジャックは彼女の背後で三人掛けソファに腰をおろし、彼女が肩にかけたままだった白いタオルを両手に持って、背中まである彼女のブロンドヘアを拭いた。
最初はやさしく拭いていたが、その手つきはしだいに手荒になった。
「痛い、痛いってば!」
レイシーはもがいて彼の手から逃れようとした。だが次の瞬間、ジャックの腕が彼女をうしろから包み込んだ。
彼女は暴れるのをやめ、静かに口を開いた。
「──パパにもママにも、私は必要ないのよ」
「そんなことない」
「パパは忙しいとか言って、私と会おうとしないのよ。ママだって、私のことなんか無視して、ゲイルのところに入り浸ってる」
「君がふたりの顔を見るたび、泣いたり責めたりするからだろう」
少しきつい言いかただった。だが事実だ。
「本当のことを言ってるだけよ。私から逃げてるだけじゃない」
彼女の反論もまた、事実だった。
レイシーもジャックと同じひとりっ子だ。たった三人の家族という点では同じ。だがその内情は、現状は、あまりにも大きく違っている。勉強ができるわけではないジャックにもわかる点がひとつだけあった。彼女とその両親のいちばんの問題は、ちゃんと向き合って話をしないことだ。
「──どんどん、ママと話せることがなくなっていくの。話そうとしても、ママは何年かぶりの仕事をはじめて疲れてるって──」レイシーは震える声で続けた。「私の試験の点数を気にしなくなったし、言っても褒めてくれない。友達の話をしてもうわの空──ゲイルの名前を出せば反応するけど、私は彼の話なんてしたくない」
ジャックは、彼女がまた泣いていることに気づいた。手探りで彼女の涙を拭い、再び抱き寄せる。答えのわかりきった質問をした。
「どうしたい?」
「──時々でいいから、パパに会いたい。話したいこと、いっぱいあるのよ」
ジャックの知る限り、彼女が父親であるレイモンドに会ったのは約二ヶ月前だ。それもたった数時間、一緒に食事をしただけで終わった。
別居していた時は、一週間に一度は会っていた。正式に離婚してからは、隔週ペースになった。やがて約束の時間がずらされたり、約束そのものがキャンセルされたり、新しい約束をしようとしても仕事が忙しいことを言い訳に時間をとってもらえず、近頃は、一ヶ月に一度会うことすら難しくなっている。
彼女は続けた。「それから、ママとちゃんと話がしたい。まえみたいに笑って、一緒に夕食を作って、食べて。たとえ──」
言葉を切ると、ジャックの腕に顔をうずめ、レイシーはまた泣いた。
──たとえ、もう三人で暮らせなくても。
レイシーは今でこそ父親を恋しがり、母親に対して不満ばかりを口にしているが、母親を嫌っているわけでも、憎んでいるわけでもない。むしろ、愛していた。
ジャックと同じ高校二年生の彼女が、もしかすると年齢不相応、そして必要以上に父親を恋しがるのは、彼女が成長すると同時に彼の仕事も忙しくなり、家で会える時間がどんどん減っていたことにあった。
レイシーの父親であるレイモンドは四店舗のレストランを経営するオーナーだ。彼は仕事を言い訳に、だんだんと家にいる時間が短くなり、そんな夫との距離に耐え切れなくなった妻のキャシーは、彼につらくあたった。
レイシーによると、彼は言い訳もせず、すぐにアパートを借りて家を出たという。そして四ヶ月後、正式な離婚が決まった。
キャシーはしばらく仕事をせず、家事と娘のことに全精力を捧げようとした。専業主婦だった彼女の生活はさほど変わらなかったと言えるが、レイモンドのことを考えないようにしているのは、ジャックの目にも明らかだった。持て余す時間の中で、キャシーは家の中に残された色々なものを処分し、模様替えをして、毎日のように家中を磨いた。
だが、レイシーはそれが気に入らなかった。父親との思い出を消されているような気がしたのだ。やがて夫の仕事の大変さを理解しようとしなかったキャシーを無言で責めるようになり、衝突するようになった。
二人からは笑顔が減り、娘との接し方がわからなくなったキャシーは、エレンに紹介してもらった小さな会社で事務員として働きはじめた。最初は四時間程度だったのだが、いつからか八時間のフルタイムに切り替えた。
そしてゲイルと知り合い、交際をはじめたらしい。
レイシーはキャシーからゲイルを紹介されたが、彼に近づこうともせず、それどころかキャシーとの溝は深まる一方だった。
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沈黙の中、なにを思ったかジャックはふいに、レイシーの両頬を軽くつねった。彼女は涙目のまま彼の振り返った。
「なにするのよ!」
だがジャックは微笑んでいた。迎えに行った時から、彼女はほとんど下を向いていて、まともに目を合わせようとしなかった。
「やっとこっちを見た。久しぶりに君の素顔を見た」
彼がそう言うと、彼女は頬を赤くしてまた顔をそむけた。
「見ないで」
「僕は素顔のほうが好きなんだけど」
レイシーはなにも言わなかったが、耳まで赤くなっていた。
彼女は素顔のままでもじゅうぶん綺麗だった。中学の時、今よりもずっと幼顔だったレイシーのことを、ライアンが“才色兼備”と呼んだのもうなずける。当然頭もよかったし、学校でも友達が多く、人気者だった。
だが両親の離婚後しばらくして、レイシーはメイクをするようになった。最初は多くの女性たちのように、美を欲してのことかとジャックは思っていたのだが、のちにそれが、どちらかといえば両親の離婚で弱った自分を隠すためなのかもしれないと考えはじめた。やがて素顔がわからないほどの濃いメイクになっていったが、似合っていたし、彼もなにも言わなかった。
再び訪れた沈黙を破り、彼女が口を開いた。
「まだシャワー浴びてないんでしょ? 私は大丈夫だから、行ってきて」
──私は大丈夫だから。
レイシーがそう言う時は決まって、ひとりになりたい時だ。ひとりになって、笑顔を取り戻そうとする時。
「わかった」
彼女の髪にキスをすると、力のないその微笑みを見届けてから、ジャックは部屋を出た。
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一階におりたジャックは、リビングからの話し声で父親のクリスが帰宅していることに気づいた。彼はロッキングチェアで紅茶を飲んでいて、すぐそばにあるソファに座ったエレンと話をしていた。
ジャックが戸口に立つと、すぐにクリスが気づいた。
「やあ、ジャック。ただいま」
「おかえり」
心配そうな様子でエレンが訊ねる。「レイシーは?」
「部屋にいるよ。しばらくひとりになりたいみたい」
クリスは残念そうな表情でカップをテーブルの上のソーサーに置いた。
「そうか、会いたかったんだが、今はやめておいたほうがいいみたいだな」
まるで娘にデートを断られた父親だ。
「レイが女の人と歩いてるところを見たらしくて、相当ショック受けてるみたい」と、ジャックはつけたした。
「女の人? ──ふむ」クリスは顎に短く生やした灰色混じりの髭を撫ではじめた。「いつのことだ?」
「今日の夜、たぶん七時頃かな。センター街で」
「赤毛か?」
「いや、どうかな。なにか知ってるの?」
クリスから視線を向けられると、エレンはすぐになにかを思いついたような顔をした。
「マリオンかしら」
ジャックは片眉をあげた。「マリオン?」
彼女は言葉を吐き捨てた。「あの男好きったら」
「言葉が悪いぞ、エレン」クリスはジャックへと視線を戻す。「父さんたちの高校の同級生だ。通称“赤毛のマリー”と言ってね」
「あら。私たちはみんな、“男好きの性悪マリー”って呼んでたけど」
悪びれる様子のないエレンの言葉を打ち消すためにか、クリスは咳払いをした。
「まあ、ともかくだ。何日か前、エレンとランチに出た時、偶然彼女に会った。で──」
エレンがすぐに続きを説明する。「彼女がいいレストランを知らないかって聞いてきたから、レイの店を教えたのよ」その口調には不機嫌さが滲み出ていた。相当嫌っているらしい。
クリスがあとを引きとる。「パーティーのプロデュースの仕事をしてるらしくてね。仕事に協力してくれそうな店を探してると言っていた」
「あら、そんなこと言ってたかしら」
「言ってたさ。君はほとんど話を聞いてなかったようだが」エレンはなにか言いたそうだったが、クリスは目で止めた。ジャックに向かって続ける。「で、その場で彼に電話して、今度の土曜──つまり今日なら話を聞けるというのを伝えた。レイモンドの電話番号を渡して、僕らは別れた」
エレンは苛立たしげな様子で天を仰いだ。
「ああ、もう。こんなことになるならレイの店なんて教えるんじゃなかったわ。私ったら──」
どうやらマリオンという女性にレイモンドの店のことを話したのは母らしい。
「君は嘘がつけないからね。いいレストランといえば、レイの店が一番だ」
そう言ったクリスは身を乗り出し、妻の手を握った。彼女もその手を握り返したが、一方では頭を抱えていた。
「あとでレイシーに話してみるよ。その前にシャワーを浴びてくる」
「父さんから話そうか? そのほうが説得力が──」
「クリス。余計なことはしなくていいの」
エレンがそう言うと、彼はまた残念そうな顔をした。
ジャックは笑い出しそうになるのをこらえ、「おやすみ」と言ってその場をあとにした。
シャワーを浴びたジャックは自室のドアを開けたが、そこにレイシーの姿はなかった。彼女は同じ二階にあるゲストルームの一室で眠っていた。ベッドに丸まって、白いシーツを頭までかぶって。
ぐっすり眠れるといいけどと思いながら、彼は音を立てないよう静かにドアを閉め、自室へと戻った。