第一話 柴犬は吠えない
朝練のない高校を選んだ理由を、俺は誰にも話していない。
聞かれれば「朝が弱いから」とでも答えるけれど、嘘だ。
玄関に向かうと、いつもなら足音が聞こえる。
硬い床を、爪が軽く叩く音。
それが、今日はない。
おかしいな、と思って後ろを振り返る。
リビングの境目。
ちょうど光と影が分かれるあたりに、柴犬が座っている。
あんずだ。
近づいては来ない。
邪魔にならない距離を、最初から分かっているみたいに、ちょこんと座っている。
「……行ってくるぞ」
声をかけても、こちらを見ない。
ただ、耳だけがわずかに動いた。
それだけで、聞いていると分かる。
中学の頃は、朝が早かった。
剣道部の朝練。
あんずが来てからは、朝の時間の使い方が変わった。
先にあんず。
次に、姉と母の食事。
最後に、自分。
だから朝練のない高校を選んだ。
後悔はしていない。
立ち上がり、玄関に向かう。
いつもなら、あんずはそこで立ち上がる。
今日は、動かない。
代わりに、床の匂いを嗅ぎ始めた。
壁際。
テーブルの脚。
落ち着きがない。
「どうした?」
問いかけても、耳が少し動くだけだ。
そのとき、甲高い電子音が鳴り響いた。
緊急地震速報。
心臓が一度、大きく跳ねる。
驚いたというより、体の奥で何かが切り替わった感覚だった。
次の瞬間、床が揺れた。
俺は靴を脱ぎ捨ててリビングに戻る。
あんずは立ち上がったが、走らない。
普段の落ち着いた態度とは違う、張りつめた気配だけがある。
床に座り、あんずを膝に乗せる。
小さく息を吐いたのが分かった。
揺れが強くなる。
棚の中で物がぶつかる音。
俺は背中を丸め、覆い被さる。
あんずは、動かない。
吠えない。
揺れが収まるまで、ただそこにいた。
余震が落ち着いたのを確認して、立ち上がる。
二階を見に行く。
姉と母は、寝たままだった。
部屋は散らかっているが、ベッドは無事だ。
そのまま階下に戻る。
スマホを確認すると、電波は繋がらない。
時刻だけが表示されている。
七時四十三分。
外の様子を見ようと、玄関を出た。
空が、妙に明るい。
住宅街の向こう、自然公園の方向。
淡い光が、空へ向かって伸びている。
色ははっきりしない。
眩しいわけでもない。
ただ、そこにある。
あとで知ることになるが、その光は一時間だけ、空に登っていた。
そのときは、そんなことを考える余裕はなかった。
足元が、跳ねた。
あんずだ。
次の瞬間、全力で走り出す。
普段は全力で走らない。
それを知っているから、反応が遅れた。
「――あんず!」
声を上げるより早く、距離が開く。
俺も走る。
足は、速い。
自分でも分かる。
それでも、縮まらない。
あんずは振り向かない。
迷わない。
住宅街を抜け、曲がり角をいくつも越える。
呼吸が乱れてくる。
それでも、止まれなかった。
自然公園に飛び込んだとき、視界が一気に開けた。
空に、光が登っている。
淡く、静かに、まっすぐに。
あんずは、その下で立ち止まった。




