第9話 同じ家の、はじめての夜
家の中に二人分の気配があるだけで、空気が少し変わった気がした。
床に置いた買い物袋を整理しながら、私は何度も雪ちゃんの方を盗み見る。
彼女は静かに、でも落ち着かない様子で、指先を組んだりほどいたりしていた。
一緒に暮らす……言葉にすれば簡単だけど、実際はそんなに単純じゃない。
ましてや彼女の立場を思えば、なおさらだ。
「今日は疲れたよね。お風呂、先にどう?」
そう聞くと、雪ちゃんは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「お……お任せします」
その答えに、私は少し違和感を覚えた。
しかし、そんな違和感を気にせず、立ち上がり彼女に告げる。
「じゃあ、湯船にお湯も入れたいし、先に頂こうかな」
私は着替えとバスタオルを手にして、脱衣所に向かった。
服を脱ぐ前に風呂場へ入り、お湯を出す。
昔のお風呂でありがちな、自分で温度を調整するタイプで少し年季が入っている。
温度調整を終え、服を脱ぎ、再びお風呂に入るとおもむろに頭からシャワーを被る。
風呂は好きだ。今日1日の疲れを洗い流し、爽快な気分してくれる。
シャワーで髪を梳かし、シャンプーで汚れを洗い流す。それだけで頭が軽やかになったと錯覚する。
一息ついて次に体を洗おうとした瞬間、ガチャっとお風呂の扉が開く音が響いた。
反射的に振り返った私の視界に入ったのは、湯気越しに立ち尽くす雪ちゃんの姿だった。
「え!?ちょ、待って!?」
思考が追いつく前に、心臓だけが先に跳ね上がる。
「こ、これは……今日の……お礼、です……」
視線を合わせないまま、彼女は小さくそう言った。
耳まで赤くなっているのが、湯気の向こうからでもはっきり分かる。
あ、これ、絶対ダメなやつだ!
そう理解した瞬間、頭の中が一気に冷えた。
「いやいやいや……それは……違うから!」
言葉が追いつく前に、体が先に動いていた。
私はほとんど転げるように浴室を飛び出した。
心臓がうるさい。色んな意味で、アウト寸前だった。
タオルと着替えを持ち出し、部屋に逃げる。
ポタポタと滴る水滴を拭い、服を着る。
髪を乾かそうとしたがドライヤーを持って来てないことに気づく。
ドライヤーは洗面所に置いたままだった。
……結局、もう一度あそこを通らなきゃいけない。
深呼吸をし、脱衣所の扉をゆっくり開ける。
まだ出ていないことを確認し、ドライヤーを取ってそそくさと部屋に撤退する。
自分の家なのに、どうしてこんなにも緊張するのだろうか。
お風呂場での出来事を思い出し、顔が少し熱くなるのを感じた。
そんな記憶を吹き飛ばすかのように、ドライヤーで髪を乾かす。
温風の音に紛れて、心臓のうるささが少しずつ落ち着いていった。
……そろそろ、雪ちゃんも上がる頃だろうか。
そんなことを考えた瞬間、ドライヤーの音がやけに大きく感じられて、私はスイッチを切った。
部屋に静けさが戻る。
その時だった。
今日買ったパジャマに着替えた雪ちゃんが、部屋の隅に立っていた。
どこか落ち着かない様子で、指先をぎゅっと握っている。
布地は同じはずなのに、昼間よりもずっと柔らかく見えた。
それだけで胸の奥が少しだけ静かになった。
「……雪ちゃん、ちょっとこっち来て」
手招きすると、彼女は一瞬だけ迷うように視線を揺らし、それから小さく頷いた。
床に座ると、私は彼女の後ろに回り、ドライヤーのスイッチを入れた。
雪ちゃんの肩がビクリと揺れた。
けれど、温風が髪を撫でるうちに、その力が少しずつ抜けていくのが分かる。
膝の上に置かれた手も、さっきより静かだ。
「じ、自分でやれます……」
「ふふ、大丈夫。今は、私に任せて」
そう言うと、彼女は何も言わずに前を向いた。
ドライヤーの音だけが部屋に満ちる。
それが何故か心地よかった。
ブラシで髪を梳かす。
引っかかることなく、すっと通る。
シルクみたいに滑らかで、思わず息を飲んだ。
「……雪ちゃんの髪、綺麗だね」
ぽつりとこぼした言葉に、彼女の耳がゆっくり赤くなる。
その反応だけで、胸の奥がくすぐったくなった。
ふわりと、甘い匂いが鼻をかすめる。
私と一緒のシャンプーのはずなのに、どこか柔らかくて甘い匂い。
……少し近づき過ぎたかもしれない。
そう思った瞬間、私は意識的に一歩分だけ距離を取る。
ドライヤーの温風が止まると、部屋に静けさが戻った。
「……ありがとう……ございます」
小さな声だった。
振り向かずに言われたその一言で、私の胸が温かくなる。
「どういたしまして」
それだけ答えて、私はコンセントを抜いた。
言葉は少ないけれど、今はそれで十分だった。
夜も更けて、私達はそれぞれの布団を敷く。
時計を見ると、いつの間にか針は深夜を指していた。
思ったよりも、時間が経っている。
それだけ、今日は色々なことがあったのだ。
「あの……どうしてそんなに離れているのですか?」
雪ちゃんは布団を部屋の隅に置いて、私はそこから1番遠い反対側に布団を置いた。
「へぇ?だって近くで寝たら、雪ちゃんが不安になると思って」
これは意思表示。彼女には決して手を出さないと言う覚悟の表れだ。まあ女性同士で、手を出す出さないも変な話だけど。
「わ、わたしは大丈夫です」
「いやいや流石に……」
未成年と同衾……字面を見ればアウト。ネットニュースの見出しに出て来そうな言葉だ。
そんなニュースを出さない為にも、こういう風に行動で示すしかないのだ!
しかし、私の意に反するように雪ちゃんは、私の布団の隣に自分のを置く。
「ちょっ……ダ、ダメだって」
「ですが……1人は……寂しい……です」
「うっ」
そう言われると、流石に強くは言えない。
「……わ、わかったよ」
私が強く断れば、彼女は渋々引いてくれるだろう。
でも、雪ちゃんのあの表情を見て、誰が断れようか?
結局、私達は布団を隣り合わせにして、床につく。
雪ちゃんの寝息が私の耳に届く。
私以外の人がいる状況に落ち着かない。
体は疲れているはずなのに、目が冴えて眠れそうにない。
今日は躍動の1日だった。
環境が一気に変わったことへの不安は確かにあった。
でも、ほんの少しだけ昔のことを忘れられた。
雪ちゃんが私との生活をどう思っているのかわからない。
だけど、彼女が安心して過ごせるように、これから頑張らないといけない。
明日のことは明日の自分に任せることにして、私は瞼を閉じた。




