第2話 2人の名前
一悶着を終え、今後の予定を決めていくことになる。
「こちらが奴隷契約書となります」
少女は持って来ていたハンドバッグから1枚の紙を取り出し、机に上に置いた。
紙には「貴方に仕えます」や「危害を加えません」など簡単な内容だった。
そして最後には、私のサインが書いてあった。酔った勢いで書いたのだろう……。
「一応、お聞きしたいんですけど、奴隷って表向きはどんな関係なんですか?雇用契約的な?」
「端的に言ってしまえば、わたしはご主人様の養子に入っているってことになっています」
「養子ですか?そう言うのって、面倒な手続きが必要なんじゃないですか?」
普通ならそうだ。普通ならね。
しかし、今ここには常識とはかけ離れたことが起きているので、実は魔法で……みたいなファンタジーが起きても驚きはしない。
「その辺の書類は『あちら側の人』しか知りません。わたしはただ、ここの住所の方に買われたとだけ。お名前もその時にお聞きしました」
「てことは、『ユウキ』と教えられたってことですか?」
「はい」
なら書類の方は間違えて書いている可能性があるな。まあ些細な問題か。
しかし、気になるのは、彼女の名前が消されている点だ。
契約である以上、相手の名前側入っているのが普通だ。
しかし、その部分は黒ペンで塗りつぶされており、光に透かしても見ることが出来ないようになっている。
奴隷になったことで彼女自身の名も捨てたと言うことだろうか?
ダメ元で聞いてみることにした。
「あのー、貴方のお名前って」
一瞬、暗い表情をしたのを見逃さなかった。
やっぱりマズイ質問だったか?
「えと、その前にわたしは奴隷ですので、敬語をお使いになるのはおやめください。わたしの方が年下でもあるので」
あ、そっち?とホッと胸を撫で下ろした。
「そうなんですか?かなり落ち着いているから同い年か、1つ上くらいだと思っていました」
それにお胸も中々……私の物より2ランク上はありそうだ。
「あれ?どうして私の年齢なんてわかるんですか?」
「部屋にスーツが掛けてありますし、それに……あのゴミ袋の中にお酒の缶もあるので、20歳以上の方だとお見受けられました」
一瞬、少女の顔が曇ったように感じた。まあこんな大人の醜態を見れば、嫌な顔の1つや2つはするだろう。
「なるほど……じゃあ、これからは気楽に話すね。貴方も自由にして良いよ」
「お気遣い、ありがとうございます。しかし、わたしは奴隷ですので」
とまるで決められたことしか喋らない機械のような言葉だった。
当たり前だけど、彼女とは距離を感じる。
これから一緒に暮らすのだから、少しでも彼女と関係を築きたいのだけど……どうしようか?
「脱線しちゃったけど、貴方の名前は?」
「えーっと……ご主人様が呼びやすい呼び方で問題ありません」
「あ、いや、そう言うことじゃなくって」
……わからない。この世に奴隷を買った人にお聞きしたい!ここからどうやって良好な関係を築けば良いんですか!?
「後、そのご主人様ってのもやめてほしいな。そのー……むず痒い的な?」
オブラート5枚ぐらい包んだ言い方だが、世間的にヤバいのでやめてほしいって意味だ。
お願いすれば聞いてもらえるかもしれないが、彼女も奴隷としての役目を果たしているに過ぎないので、優しく伝えたつもりだ。
「わかりました」
……でも本音を言うなら、もう少し呼んでもらいたい自分がいる。
彼女の鈴の音のような声色から放たれる「ご主人様」はドキッと心が弾けるような高揚感があった。
人として最低だとわかっている。しかし、己を意味もなく慕ってくれる感じが、自己肯定感と庇護欲が掻き立てていたのだ。
「では、何とお呼びすれば?」
「何でも良いよ」
「では友希……様?」
「さんでお願いします」
「友希……さん……友希さん」
「はい。友希さんです」
危うく、同じ轍をまた踏むところだった。
契約書には書かれていない、奴隷独自の制約みたいなものがあるのだろう。
それを踏まえると、ある程度自分からの要望も言ったほうが良いのかな?
「あ、そうだ。お名前が決まらないようですので、あのリストから選びましょうか」
そう言って、ハンドバッグから透明なクリアファイルを取り出し、そこから2つに折り畳まれた1枚の紙が出て来た。
「送迎の方に困った時はこれを使ってくださいと言われたのを思い出しました。これでお名前の心配ないですね!」
ドヤ顔で誇らしげに語る少女は閉じられていた紙をパッと開いた。
しかし、ドヤ顔だった少女の顔は徐々に赤みを帯びて、「うぅー」と謎の奇声を上げ始めた。
「ど、どうしたの?」
「だ!大丈夫です!」
だいじょばないヤツ。
人が紅葉のような変化する様を目の当たりにすれば、誰でも変だと思う。
少女は深呼吸をして、意を決したように口を開く。
「……に、肉便器」
「……え?」
「め、メス豚……淫乱女……家畜」
「ちょっとストップ」
到底、可愛らしい女の子から出てくる言葉ではなかった。
紙を取り上げ見ると、紙に並ぶ単語は、どう見ても名前ではなく辱めの言葉だった。
相当恥ずかしかったのだろう。顔が真っ赤になっている。活火山のように煙を吹いているのが見える気がする。……可愛い。
しかし、どうしたものか。名前を聞くだけで日が暮れてしまいそうだ。
名前を決めれば良いと言うが、そんな簡単に決めて良いモノなのか。
名は人生と共にある。
その人を1番近くで形作り、記憶されるモノ。故に簡単に捨ててはならない……それが自分の生きた証になるのだから。
……1つだけ方法はある。
成功する保証はないが可能性はある。
しかし、それは人の道を外れた方法であり、決して許されない行為。
でも、一度だけなら……きっと両親も許してくれるはずだ。
言い訳する自分に反吐が出るが、そんな考えを振り払い、絶対的な権限を発動させた。
「め、命令します……貴方の名前を教えて」
その言葉に呼応するように、彼女は体をビクつかせた。やはり……。
「……はい……わかりました」
彼女は視線を落とした。白い指先がワンピースの裾をぎゅっと握りしめ、肩を震わせた。
その姿を見ると心を抉るような罪悪感に襲われた。
呼吸が荒い。心臓がうるさい。頭が痛い。
……もし両親がこの光景を見たら、どんな顔をするだろう。
吐き気をこらえ、逃げ出したい衝動に足が震える。
それでも視線を逸らさず、彼女と向き合い――やがて目が合った。
「……わたしの名前は……雪……『雪』と申します。雪の雪でユキです」
吐瀉物を吐き出すかのように、彼女はそう名乗った。
苦しそうな表情を浮かべ、また少女は顔を下に向けた。
「雪……うん、良い名前だね。これからは大切に呼ばせてもらうよ」
朗らかに笑って見せるが、少女……雪ちゃんは笑わなかった。
彼女の事情はわからない。でも、名前を捨てたいと願うほど、過酷な人生を送って来たのだろう。
「これからよろしくね、雪ちゃん」
「……はい、こちらこそ」
取り繕ったような笑顔で応えてくれる。
相手の機嫌を損ねないように、彼女なりの気遣いが更に心を抉る……自分が情けない。
もう2度と、こんな顔はさせない。
いつか本当の笑顔で笑わせたい――そう胸に誓った。
……たとえ、自分にその資格がなかったとしても。




